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続きそうな短編集

帳外に漂ふ

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/06/29

 その年、土佐沿岸の浦々には、異国船漂着の触れがしばしば廻っていた。


 黒潮に乗るものは、人であれ、船であれ、板切れであれ、いずれ帳面に収まるべきものだと教えられてきた。拾い、数え、記す。それが浦方の帳を預かる自分の役目である。数に入らぬものなど、あってはならぬ。


 あの夜、風は強かった。


 沖から吹き返す潮が浜を削り、波の泡は闇の中で白い虫のように這っていた。見回りは一人で足りる浜である。誰かを連れて歩くより、独りの方が見落としは少ない。


 岩陰に引っかかっているものを見つけたとき、はじめは流木だと思った。


 近づくと、人の形をしていた。


 女だった。


 割れた板片に片腕をかけるようにして、波打ち際に伏せていた。板は船の外板らしく、端に見慣れぬ刻みがあった。女の髪の色は、夜でも分かるほど淡く、濡れて頬に張りついている。肌は浜の者のように焼けておらず、潮に揉まれたにしては傷が少なかった。衣も見慣れぬ織りで、縫い目の運びもこちらのものではない。


 異国の者だ。


 そう思った瞬間、背に冷たいものが走った。


 異国人を拾えば届け出る。生きておれば詮議があり、やがて長崎へ送られる。死んでおれば死骸として記される。どちらにせよ、自分の手でどうこうするものではない。


 だが、このまま置けば死ぬ。


 生きていようと死んでいようと、拾えば帳に載る。ならば、生かしておいた方がよい。夜中に浜から役所へ運ぶより、夜が明けてから申し立てた方がよい。通詞もおらぬうちに騒ぎ立てても仕方がない。


 そう考えた。


 そういうことにした。


 女を担ぎ上げると、思ったより軽かった。濡れた衣の重みの方が勝っているようだった。息はある。あるように思えた。耳を近づけると、潮騒の奥に細い音が混じる。胸が上下しているのか、火のない夜に目が惑ったのか、はっきりとは分からなかった。


 板片も拾った。


 家の奥座敷に寝かせた。


 客に使うことは滅多にない部屋である。浜からも道からも見えぬ。濡れた衣を外し、火を起こし、布をかけた。本来なら異国の者に触れるべきではない。疫の恐れもある。異国の宗門に染まった者かもしれぬ。知れれば、拾った褒美どころではない。浜の者まで咎を受ける。


 だが、見ている者はいない。


 見ているのは、自分だけだった。


 夜半、女は目を開けた。


 灯の揺れの中で、その顔がゆっくり現れた。はじめからそこにあったのか、今しがた形を得たのか、分からなかった。目の色も、灯のせいか薄く見えた。女は何か言った。言葉は分からない。祈りにも、問いにも、泣き声にも聞こえた。


 水を差し出すと、飲んだ。


 指で示せば、その通りに動いた。それで十分だった。言葉など、今は要らぬ。言葉が通じれば、かえって困ることもある。


 翌朝、戸を叩かれた。


 沖で船の破片が上がったという。漂着あらば申し立てよとの沙汰である。


「分かった」


 自分はそれだけ答えた。


「ほかにはございませぬか」


「浜にはなかった」


 嘘ではない。いまは浜にはない。


 相手は頭を下げ、帰っていった。


 座敷へ向かう。戸に手をかける前から、中にいると分かった。最初からそこにいたような気配がする。開けると、女はこちらを見ていた。昨日より顔色は戻っていた。あるいは、灯のない昼だからそう見えただけかもしれない。


 湯をよそう。椀を置く。


 手を伸ばそうとして、やめた。


 まだ、何もしていない。


 そのとき、女が先に椀を取った。


 こちらを見る。何をしようとしたのか、見られていたように思えた。いや、こちらの手の動きを読んだだけだ。異国の者とて、病み上がりとて、人の顔色くらいは読む。


 それから数日、女は座敷の中で過ごした。


 夜になると熱が上がった。布の中で小さく震え、知らぬ言葉で何かを呼んだ。母の名か、神の名か、故郷の名か、自分には分からなかった。ただ、その声はひどく弱かった。あまりに弱く、聞いているうちに、こちらの方が悪いことをしているような気になった。


 外へは出ようとしない。


 障子に手をかけることはある。だが、開けはしない。開け方を知らぬのではない。こちらが顔を向けると、指をわずかに動かし、やめる。まるで、開けてよいかどうかを自分の中では決めていないようだった。


 女はよく見た。


 こちらの手つき、間合い、呼吸。見て覚える。箸を持つ。椀を受ける。頭を傾ける。足音を殺す。最初はぎこちなかった仕草が、日ごとこちらのものに近づいていく。


 ただ、ときおり妙なことがあった。


 火が痩せた。薪を足そうと腰を浮かせたとき、女の目が先に炉へ向いた。つられて見れば、火の芯が赤く折れるところだった。筆を取ろうと考えたときには、座敷の奥で布の擦れる音がした。こちらがまだ立ってもいないうちに。


 偶然だ。


 人は気配で動く。犬や猫でさえ、こちらが立つ前に立つことがある。異国の女が勘に優れていても、不思議はない。


 そう思うことにした。


 昼過ぎ、浜の若い者が来た。


 破片に異国文字らしき刻みがあったという。明日、役人が見分に来るかもしれぬとも言った。声を潜めて、もうひとつ言った。


「夜更けに、旦那様の奥で女の声を聞いたという者がおります」


 自分は笑った。


「風だろう」


「風でございましたか」


「この浜では、風も女の声で泣く」


 若い者は納得したような、しないような顔で帰った。


 戸を閉めると、急に家の中が広くなった。広くなったのに、逃げ場がなかった。


 帳面を開く。


 漂着改帳には、板一枚、櫂一本までも記すことになっている。船具、衣類、箱、縄、死骸。あるものはあると記す。なかったものは記さない。紙の上では、それだけが確かである。


 沖で上がった破片の数を書きつけた。


 一、異国船板片 三枚。


 筆を止める。


 奥座敷に置いた板片を思い出す。女の腕に抱かれていた、あの一枚である。拾ったものは届け出る。拾わぬものは記さぬ。ならば、拾ったことをなかったことにするには、どこから消せばよいのか。


 座敷の気配を思い出す。


 いる。


 呼ばずとも、いる。


 見ているのは自分だけだと思っていた。だが、そうでないとすれば。女がこちらを見ているのか。浜の者が見ているのか。役所が見ているのか。それとも帳面そのものが、こちらの手を見ているのか。


 筆先が震えた。


 書けば、消える。


 書けば女は異国人となり、異国人として扱われる。役人が来る。浜の者が見る。名を問われる。宗門を疑われる。長崎へ送られる。その先は、もう自分の帳ではない。


 書かねば、残る。


 だが、残るとは何か。


 帳面に載らぬものは、世にないものだ。世にないものを家に置くのは、罪であるのか。罪でなければ何であるのか。拾わなかったことにすれば、女はどこから来たことになるのか。


 障子の向こうで、何かが動いた。


 考えるより先に、筆が動いた。


 一、異国船板片 二枚。


 一つ、数を減らした。


 欠けたものは、もとよりいくらでもある。黒潮は奪う。浜は隠す。海は返すものを選ばない。帳面だけが、すべてを知っている顔をする。


 紙を閉じた。


 これで済む。


 そう思った瞬間、奥座敷の方で衣擦れがした。


 障子を開ける。


 女が座っていた。こちらを見る。薄い髪は乾いているはずなのに、毛先だけがまだ潮を含んでいるように見えた。目の色は、やはり分からない。


 女は、わずかに頭を下げた。


 教えた覚えはない。


 いや、誰かに教わったのかもしれぬ。異国にも礼はある。こちらの真似をしただけかもしれぬ。昨日、自分が米を置いたとき、頭を下げたかもしれぬ。覚えていないだけだ。


 遅れて、自分も同じことをした。


 ほんのわずか、遅かった。


 帳面には記されない。浜にも残らぬ。役所にも届かぬ。他のどこにもない。


 ならば、ここにしかない。


 そうしておくほか、あるまい。


 帳面を閉じる音が、少し遅れて耳に届いた気がした。


 外では風が鳴っていた。浜を削り、岩を洗い、夜ごと形を変える風である。


 黒潮は、また何かを運んでくるのだろう。




お読みいただきありがとうございました。創作の励みになりますので、評価・感想をお願いします。


今回は、黒潮と漂着、そして「帳面に記す」という行為から短編を書いてみました。


人や物を数え、記録し、役所へ届ける。

それは秩序を守るための仕事ですが、同時に「帳面に載らなかったものは、どこへ行くのか」という怖さもあるように思います。


流れ着いた女は、異国人なのか、それとも別の何かなのか。

正体よりも、彼女を前にした男が、ほんの一つだけ数を違える。その小さな筆先の迷いが、取り返しのつかない境目になる。そんな話を目指しました。


お気に召した方は、他の短編『続きそうな短編集』もぜひ、ご一読ください。

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― 新着の感想 ―
漂着した異国の女を匿う物語。 情景の描写が丁寧で、目に浮かぶようでした。 この二人、これからどうなるのか。 続きがあっても、なくても、想像する楽しみができました
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