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旦那様の愛人に「奥様って可哀想ですね」と言われた日、私は笑ってしまいました  作者: 九葉(くずは)


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第7話「もう私の責任ではありません」

 トルステン大使が席を蹴って立ち上がった、という報せは、外交局に半日で届いた。


 私がその知らせを受け取ったのは、外交局の書斎で、レオンハルト殿下と並んで条約草案の修正にあたっている最中だった。顧問就任から二週間。まだ机の引き出しに私物は入れていない。インク壺と羊皮紙だけが、自分のものだった。


 書記官が息を切らせて駆け込んできた。


「殿下、エーデルシュタイン公爵家の代理交渉役が——トルステン大使に書簡を——左手で——」


 殿下のペンが止まった。


「左手で」


「はい」


 沈黙が落ちた。書記官の額に汗が光っている。殿下は表情を変えなかったが、ペンを机に置く動作がいつもより丁寧だった。それだけで十分だった。


 左手で書簡を渡す。トルステンにおいて、それは「あなたに戦を売る」という意味を持つ。外交入門書の三ページ目に書いてある。三ページ目だ。目次の次、序文の前。新任の書記官が最初に読む項目。


 つまり、あの方が立てた代理交渉役は、入門書の三ページすら読まなかった。


 ——いや、正確に言えば、読んでいたとしても意味がわからなかったのだろう。文字を追うことと理解することは違う。それを知らない人が、外交の場に出た。


「経緯を確認します」


 殿下が立ち上がり、書記官に指示を出していく。声は平坦で、けれど一語ずつの間合いが普段より短い。急いでいるのだ。


 私は席を立たなかった。手元の草案に視線を落とす。ペン先のインクが乾きかけていて、羊皮紙の上に小さな滲みを残している。


◇◇◇


 午後になって、全容が見えてきた。


 トルステン大使の怒りは激烈だった。書簡を床に叩きつけ、「エーデルシュタインとの一切の交渉を停止する」と宣言したという。大使館員の報告では、大使の顔は青白く、声だけが張り詰めていたらしい。あの温厚な老紳士がそこまで怒ったということは、よほどだ。


 そしてトルステンの動きに連動するように、イルメリアも公爵家との定例会合をキャンセルした。理由は明快だった。


「交渉相手が代わったなら、こちらも相手を選ぶ権利がある」


 イルメリア大使の返答はそれだけだった。外交の世界では、信頼は個人に紐づく。組織の看板では買えない。


 私はその報告を、殿下の隣で聞いていた。自分の顔がどんな表情をしているのか、わからなかった。ただ、胸の奥で何かが軋んでいた。あの方のせいで二国が離れた。あの方が蒔いた種が、芽を出した。


 けれど同時に——五年間、私が育てた関係が崩れていくのを見るのは、切り株から根が引き抜かれるような、そういう感覚だった。


◇◇◇


 夕刻、外交局の廊下で足音が聞こえた。


「セラフィーナ殿」


 振り返ると、サヴェルナ大使ヴィクトール閣下が立っていた。銀髪を後ろに撫でつけた長身の老紳士。白手袋の指先が微かに震えている。いつもの泰然とした佇まいが、今日はどこか張り詰めていた。


「大使閣下」


「少し、お時間をいただけますか」


 応接室に案内した。向かい合って座ると、ヴィクトール閣下はしばらく何も言わなかった。テーブルの上に置かれた白葡萄のシロップ漬けに、どちらも手をつけない。


「率直に申し上げます」


 閣下の声が低くなった。


「トルステンとの関係が破綻すれば、サヴェルナにも影響が及びます。三か国の均衡が崩れる。あなたならご存じでしょう」


「……ええ」


「あなたが間に入ってくだされば、収まります。トルステンの大使は、あなたを信頼している。私も、です」


 閣下の目が私を捉えた。そこにあったのは外交官の計算ではなく、もっと生々しいもの。五年間の信頼の重みが、あの瞳の奥に沈んでいた。


 胸の軋みが深くなった。喉の奥に何かが詰まる。


 助けを求められている。私にしかできないことがある。それはわかっている。わかっているから、こそ——


「大使閣下」


 声が出た。自分でも驚くほど、静かな声だった。


「差し支えなければ、一つだけお聞きしてもよろしいですか」


「何なりと」


「この問題を起こしたのは、誰ですか」


 閣下の唇が引き結ばれた。


「……エーデルシュタイン公爵家の代理交渉役です」


「そうでしたか」


 息を吸った。肺の奥まで空気を入れて、ゆっくりと吐く。テーブルの上のシロップ漬けの瓶に、窓からの夕日が当たって琥珀色に光っている。


「もう私の責任ではありません」


 言葉にした瞬間、胸の軋みが消えた。代わりに、胃の底がすとんと抜けるような感覚。後悔ではない。空白だ。


「私はもうあの方の妻ではなく、公爵家の人間でもありません。あの家が蒔いた種を、私が刈る道理はないのです」


 閣下は目を閉じた。長い睫毛が微かに震えている。


「——わかりました」


 その声は掠れていた。けれど閣下は頷き、白手袋の指で膝を一度叩いて立ち上がった。それが彼なりの感情の収め方だと、五年の付き合いで知っていた。


「失礼しました。セラフィーナ殿の判断を尊重します」


 閣下が去った後、応接室に一人残された。窓の外では夕日が沈みかけている。王都アストレアの屋根の上に、細い雲が茜色に染まっていた。


 正しかったのかと、問う自分がいた。助けられるのに助けなかった。あの方の失態であっても、苦しむのは大使たちだ。市民にも影響が及ぶかもしれない。


 けれど——もし今ここで尻拭いをすれば、私は永遠に「公爵家の後始末係」から抜け出せない。自分の名前で立つと決めた。その決意を、最初に試されている。


◇◇◇


 廊下を歩いていると、殿下が執務室から出てきた。


「お疲れ様です」


「……ええ」


 殿下は私の隣に並んだ。歩調を合わせるでもなく、ただ同じ方向に歩いている。廊下の窓から差し込む夕日が、殿下の軍服の銀の肩章に反射して、壁に小さな光を落としていた。


「ヴィクトール大使閣下との面談の件、報告書は明日で構いません」


「はい」


「判断について、一つだけ」


 足が止まった。殿下も立ち止まる。視線は前を向いたまま。


「正しい判断です」


 それだけだった。いつもの淡々とした口調。けれど——いや、気のせいかもしれない。最後の一語だけ、声の温度がほんの少しだけ高かった気がした。


 殿下は再び歩き出した。私もそれに続く。


 銀糸の刺繍入りショールを肩に引き寄せた。外交局の廊下は、夕方になると冷える。けれど今は、その冷たさがどこか心地よかった。


 正しかったのかという問いは、まだ胸の中にある。消えてはいない。けれど、その問いを抱えたまま歩けることが——たぶん、今の私にできる一番正直なことだった。


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