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旦那様の愛人に「奥様って可哀想ですね」と言われた日、私は笑ってしまいました  作者: 九葉(くずは)


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第6話「父の言葉」

 嘘だと思った。嘘だと、思いたかった。


 ランベルト伯爵邸の居間で、私は椅子に座ったまま動けずにいた。テーブルの上には、蜂蜜入りのハーブティーが湯気を立てている。もう冷めかけている。いつ淹れたのか覚えていない。


 手紙を持ってきたのは、外交局時代の知人だった。男爵家の次男で、社交場の情報に聡い人物。彼が伝えた内容は短かった。


「エーデルシュタイン公爵が、王宮の晩餐会の席で仰ったそうです。『妻が手がけた外交書簡は、全て私の指示に基づくものだ』と」


 知人が帰った後も、私はその言葉を反芻していた。


 全て。指示。


 五年分の。


 あの方が一度も目を通さなかった書簡を。暗語の仕組みすら知らなかった人が。サヴェルナ大使の好む茶の銘柄も、トルステンの書簡に使う紙の厚みの規定も、イルメリアの暦に合わせた発信日の調整も——何ひとつ、知らなかったはずの人が。


 指先が冷たい。


 首の後ろが、焼けるように熱い。


 右手が左手首を掴んでいた。爪が食い込むほど強く。いつからそうしていたのか、わからない。


◇◇◇


 名前のある感情では、もう追いつかなかった。


 身体の中で何かが破裂して、その破片が内臓の壁に突き刺さっているような——いや、違う。もっと正確に言えば、五年間かけて丁寧に積み上げた壁が、内側から崩れている。瓦礫が胸の底に溜まって、呼吸のたびにざらざらと音を立てる。


 思考がまとまらない。


 あの方は——いえ、違う、そういうことではなくて——問題は「嘘をついた」ことではなく——いや、嘘もだ。嘘もだけれど、それ以上に——


 五年間。


 千八百余日、毎朝書斎に座り、羊皮紙にインクを落とし、封蝋を温め、三か国の大使と言葉を交わし続けた。指の腹にインクの染みが消えない日々。爪の間に蝋が詰まった朝。目が霞むまで暗号表を照合した夜。


 それを。


 「私の指示」と。


 椅子から立ち上がった。立ち上がって——どこへ行くのかわからないまま、居間の中を歩いた。窓まで三歩、壁まで五歩。狭い。息が苦しい。


 なぜか、結婚式の日のことを思い出していた。あの日のあの方の袖ボタン。銀の中に一つだけ金が混じっていた、あの色違い。なぜあんなものを覚えているのか。今このときに、なぜあの袖ボタンが浮かぶのか。


 ——正確に言えば、わかっている。あれが最初の兆候だったのだ。「この人は細部を見ない」。書簡も、暗語も、私の仕事も、私自身も。何も見ていなかった人が、見ていないものを「自分のもの」だと言い張っている。


 喉の奥が詰まる。舌の裏側が苦い。唇を噛んだら、鉄の味がした。


 窓の外で銀木犀が揺れている。冬の終わりの、かすかに甘い風。父の家の匂い。


 父の——


◇◇◇


 書斎の扉を叩いた。返事を待たずに開けてしまったのは、生まれて初めてのことだった。


 父は樫材の机に向かっていた。杖が椅子の横に立てかけてある。手元には何かの書類。眼鏡越しの視線がこちらを捉え、一瞬だけ眉が動いた。


「セラフィーナ」


「父様」


 声が震えていた。震えを止めようとして、余計にひどくなった。呼吸が浅い。言葉が出てこない。出てこないのに、口が勝手に動く。


「あの方が——あの方が、全部自分の手柄だと——私が五年間やってきたことを——」


 文が途切れた。続きが見つからない。頭の中で言葉が砕けて、破片がばらばらに散っている。


 父は何も言わなかった。眼鏡を外し、布で拭き、もう一度かけた。それだけの動作を、ひどくゆっくりとやった。


「聞いた」


 短い一言だった。


「お前がやったことは、俺が知っている」


 椅子が軋んだ。父が身を起こし、こちらを真っ直ぐに見た。外交官だった頃の目。人の奥まで見通す、あの目。


「知っている人間がいれば、それで十分だ」


 膝の力が抜けかけた。テーブルの縁を掴んで堪える。


「——だが」


 父の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「お前が自分で証明したいと言うなら、止めない」


 それだけだった。父はそれ以上何も言わず、再び手元の書類に目を落とす。けれどペンは動いていない。文字を追っているふりをしているだけだと、わかった。父のそういうところは、私に似ている。——いや、私が父に似ているのだ。


 涙が落ちた。


 頬を伝うのではなく、顎の先から直接落ちた。一滴。樫材の机の端に小さな染みをつくり、すぐにインクのように木目に吸い込まれていく。


 五年間、一度も泣かなかった。公爵邸の寝室で天蓋を見上げた夜も。愛人の手袋が旦那様の部屋に置きっぱなしだった朝も。名前を呼ばれなくなった最初の一年も、二年目も、三年目も。


 泣かなかったのは強かったからではない。泣いても何も変わらないと知っていたからだ。


 今、涙が止まらないのは——何かが変わると信じたからではなく、「変えなければならない」と身体が先に理解したからだった。


 父は私が泣いている間、一度もこちらを見なかった。けれど机の引き出しから取り出した手巾を、黙って差し出した。白い麻の手巾。端に小さく「H」の刺繍。母の——


 受け取った。何も言えなかった。ただ、指先がほんの少しだけ温かくなった。


◇◇◇


 自室に戻り、顔を洗った。冷たい水で目元を冷やし、鏡を見る。目は赤いけれど、顎は上がっている。背筋が伸びている。


 机に向かった。インク壺の蓋を開け、羊皮紙を引き寄せる。ペンを持つ指が、まだわずかに震えている。けれど文字は書ける。震えながらでも、書ける。それが私のできることだ。


 宛先を記す。レオンハルト殿下。


 半月前に断った話。外交顧問の打診。あのとき私は「元夫への当てつけになりたくない」と首を横に振った。けれど、もうそんな理由で立ち止まっている場合ではなかった。


 ——いえ、正確に言えば、「当てつけ」は関係がなかった。最初から。あの方がどう思うかなど、もう私の判断に含める必要はない。これは私自身の問題だ。私の五年間を、私の名前で取り戻す。ただそれだけのことだ。


「先日のお話、改めてお聞かせいただけますか」


 一行だけの手紙に蒼い封蝋を——いえ。蒼い蝋はもう使えない。あれは公爵家の色だ。


 引き出しの奥から、実家の封蝋を取り出した。深い赤。ランベルト伯爵家の色。父が外交官だった頃に使っていたのと同じ色。


 蝋を温め、封を押した。刻印の窪みにインクの匂いが残っている。懐かしい匂い。


 手紙を使いの者に託し、窓辺に立った。銀木犀の白い花弁が、風に乗って一枚だけ窓枠に届いていた。


◇◇◇


 同じ頃、王都の外交局。


 レオンハルト殿下は執務室の机に向かい、一枚の報告書に目を通していた。エーデルシュタイン公爵が王宮で述べた内容を、書記官が記録したもの。


 殿下はペンを置き、別の書棚から綴じた記録簿を取り出した。分厚い革の表紙。中には、過去五年分の外交書簡の写しが年ごとに整理されている。


 ページを繰る指が止まった。ある書簡の欄外に、細い字で書かれた走り書き。


『翻訳者:セラフィーナ・ランベルト(旧エーデルシュタイン)』


 殿下の声は静かだった。


「それは事実と異なる」


 記録簿を閉じ、書棚に戻す。その動作は丁寧で、けれど書棚の扉を閉める音だけが、いつもより少しだけ強かった。


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