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旦那様の愛人に「奥様って可哀想ですね」と言われた日、私は笑ってしまいました  作者: 九葉(くずは)


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第5話「外交局の長い廊下」

 外交局の廊下は、インクと封蝋の匂いがした。


 石造りの壁に等間隔で灯されたランプが、長い影を床に落としている。靴音が反響する。自分の足音だけが、この廊下を埋めている。


 離縁から一か月。招聘状が届いたのは三日前のことだった。


 王立外交局。王都アストレアの中心にそびえる石灰岩の建物で、各国との条約交渉や大使の受け入れを統括する。父様がかつて勤めていた場所でもある。幼い頃、父様に連れられてこの廊下を歩いたことがあった。あの頃は天井がもっと高く見えた。


 招聘状の差出人は、第二王子レオンハルト殿下。外交局特別顧問の肩書きで、簡潔な文面だった。


『外交上の助言を求めたい案件がある。ご来局いただけるか』


 それだけ。用件も背景も書かれていない。封蝋は深い藍色で、王家の紋が押されていた。


 断ろうかと思った。けれど父様が「行っておいで」と言い、リーゼルが「外交局ってどんなとこ? お土産よろしく」と言い、結局私はここにいる。


◇◇◇


 廊下の壁に、大きな地図が掛けられていた。


 足を止める。各国の国境線が色分けされた古い地図。トルステンの領域が目に入った。


 ――この地図は古い版だ。


 去年、トルステンとイルメリアの間で国境線の修正があった。北部の山岳地帯で鉱脈が見つかり、その帰属をめぐって半年間交渉が行われた結果、国境が十リーグほど東に動いた。私が翻訳を手伝った条約だ。なのにこの地図には反映されていない。


 外交局の廊下に古い地図を掛けたままにしておくのは、あまり感心しない。来訪した大使の目に留まれば、この国の情報管理を疑われる。


 ――もう私の問題ではないのだけれど。


 指が地図の縁に触れかけて、引っ込めた。口を出す立場にはない。


「セラフィーナ・ランベルト嬢」


 背後から声がかかった。振り返ると、副官らしき若い男が立っている。


「殿下がお待ちです。こちらへ」


◇◇◇


 通されたのは、廊下の突き当たりにある執務室だった。


 扉を開けた瞬間、インクの匂いが濃くなった。机の上に書類が積まれ、壁際の棚には各国の条約書が革表紙で並んでいる。窓から冬の白い光が差し込み、埃が微かに舞っている。


 机の向こうに、その人は立っていた。


 濃紺の軍服。銀の肩章。三年前の夜会で一瞬だけ目が合った人物。第二王子レオンハルト殿下。


 三年ぶりに見る殿下は、記憶の中とほとんど変わらなかった。口元は引き結ばれ、表情は乏しく、姿勢だけが正確に直立している。ただ、目の下にうっすらと隈がある。


「お久しぶりです、殿下」


「……ああ」


 短い返答だった。殿下は椅子を勧め、自分も座った。机を挟んで向かい合う。殿下の手元には羊皮紙が数枚と、インクの染みがついた万年筆。


 沈黙が落ちた。殿下は何かを言おうとして、やめた。喉仏が一度だけ上下する。


「単刀直入に言う」


「差し支えなければ」


「外交顧問として、局に来てほしい」


 身体が固まった。一瞬だけ、椅子の肘掛けを握る指に力が入る。


「サヴェルナとの通商交渉が停滞している。原因はわかっている。暗号回線の断絶だ。君が――あなたが構築した回線なしに、交渉を前に進めることができない」


 殿下の言葉は淀みなく、けれど抑揚に乏しい。報告書を読み上げるような口調だった。


 私は息を整えた。


「お気持ちはありがたく存じます。ですが、お断りいたします」


 殿下の眉がわずかに動いた。


「理由を聞いてもいいか」


「元夫への当てつけになりたくないのです」


 言葉が口をついて出た。自分でも驚くほど率直に。


「私がここに来れば、エーデルシュタイン公爵家の外交的失態を公に晒すことになります。離縁した妻が外交局に招かれた――その事実だけで、あの方の面目は潰れる。そういう形で関わりたくはありません」


 正確に言えば、当てつけになることが嫌なのではない。あの方と、たとえ間接的にであっても、まだ繋がっていることが嫌なのだ。切ったはずの糸が、別の場所から伸びてくる感覚。


 殿下は黙っていた。長い沈黙だった。窓の外で鳩が鳴いている。


「公爵のことは関係ない」


 殿下の声が、少しだけ変わった。報告書の口調ではなく、もう少し低い、個人的な響き。


「私が求めているのは、あなた個人の能力だ。三か国語の暗号体系を独力で構築し、五年間運用した実績。それは公爵家の功績ではなく、あなた自身のものだ」


 耳の先が、赤くなっていた。


 殿下の耳だ。軍服の襟に隠れかけているけれど、耳朶から耳の先にかけて、薄く朱が差している。顔の表情は変わらない。声も平坦なままだ。けれど耳だけが、この人の内側にあるものを裏切っている。


 不思議な人だった。感情を言葉にできないのではなく、言葉にする回路が業務用にしか繋がっていないかのような。好意を伝えるにも、職務上の必要性という形を借りなければ出せないのだ。


「……そうでしたか」


 私は視線を落とした。机の上の万年筆のインク染みを見つめる。蒼いインク。あの方の書斎と同じ色だ。――いや、違う。よく見れば藍に近い。蒼と藍は似ているけれど、別の色だ。


「すぐにお返事はできません。少し、考えさせてください」


「構わない。期限は設けない」


 殿下は立ち上がった。面会は終わりだった。


◇◇◇


 廊下を歩いて、出口へ向かう。


 来たときと同じ石造りの壁、同じランプの灯り。けれど帰り道は、行きよりも廊下が短く感じられた。


 あの古い地図の前を通りかかったとき、また足が止まった。トルステンの国境線がまだ古いままだ。やはり気になる。


 ――誰かに言うべきだろうか。いや、余計なお世話か。


 足を止めたまま逡巡していると、背後から足音がした。振り返ると、殿下が立っていた。


「忘れ物だ」


 差し出されたのは、薄い革の書類入れだった。


「資料をまとめた。暗号体系の概要と、現在の交渉状況。目を通してもらえれば、判断の材料になる」


「……ありがとうございます」


 書類入れを受け取った。革の表面は使い込まれていて、殿下自身のものだとわかる。中の紙がいくつか入っている重み。


 殿下は一瞬だけ廊下の地図に目をやり、また私を見た。


「トルステンの国境線」


「え?」


「古い版のままだ。気づいていただろう」


 息を呑んだ。見ていたのだ。さっき私が地図の前で足を止めたことを。


「……ええ。去年の条約で東に動いたはずです」


「明日、差し替えさせる」


 それだけ言って、殿下は踵を返した。軍靴の音が廊下に響き、遠ざかっていく。


 書類入れを胸に抱えたまま、外交局の玄関を出た。冬の風が頬を刺す。馬車に乗り込み、座席に腰を下ろしたとき、書類入れの留め金が緩んでいることに気づいた。


 開けた。


 資料の束の間から、何かがひらりと落ちた。膝の上に着地したそれは、白い花弁だった。


 押し花。白いアネモネ。


 薄く透き通った花弁が、馬車の揺れに合わせて微かに震えている。資料の間に挟まれていたのだ。偶然ではない。押し花は丁寧に台紙に貼られていて、意図的に入れられたものだとわかる。


 アネモネ。花言葉は――確か、いくつかある。色によって異なるはずだ。白いアネモネの花言葉は。


 ……思い出せない。


 押し花を指先でそっと持ち上げた。冬の光に透かすと、花弁の脈が細い線になって浮かび上がる。


 殿下は、自分の資料に花を挟むような人だったろうか。あの無表情の奥に、こんなことをする一面があるのか。業務用の回路しかないと思っていたのに。


 ――いえ、業務に偽装しているのかもしれない。資料を渡すという体裁で、別のものを届けようとしている。不器用にも程がある。


 馬車が石畳の上を揺れる。窓の外を冬の街並みが流れていく。


「……なぜ、アネモネ?」


 誰にも聞こえない声で、呟いた。押し花を、そっと資料の間に戻す。


 指先が、少しだけ温かかった。


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