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旦那様の愛人に「奥様って可哀想ですね」と言われた日、私は笑ってしまいました  作者: 九葉(くずは)


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第4話「奥様は、いません」

 エーデルシュタイン公爵邸に、サヴェルナの国旗を掲げた馬車が到着したのは、私が去ってちょうど二週間目のことだったらしい。


 らしい、と言うのは、私がその場にいなかったからだ。この話はすべて、後から届いた手紙と、父様が旧友の外交官から聞いた断片とを繋ぎ合わせたもので、いくつかの場面は私の推測が混じっている。けれど大筋は間違っていないはずだ。外交の場で起きた出来事は、当事者が黙っていても必ず誰かの口から漏れる。封蝋の隙間からインクが滲むように。


◇◇◇


 サヴェルナ大使ヴィクトール閣下の馬車は、紫の帷で飾られていたという。


 公爵邸の正門に馬車が止まり、御者が階段を開く。降り立ったのは長身の男で、銀灰色の髪を後ろに流し、深い紫の外套を纏っていた。サヴェルナの宮廷外交官は紫を好む。あの国の宮殿の庭に咲く紫陽花の色だと、かつてヴィクトール大使自身が語っていた。


 玄関で出迎えたのは執事のマルティンだった。


「エーデルシュタイン公爵夫人にお目にかかりたい」


 ヴィクトール大使の声は穏やかだったという。穏やかだが、譲歩の余地のない響き。外交官特有の、柔らかい鉄。


 マルティンは一瞬だけ間を置いたそうだ。二十年この家に仕えた執事の、たった一拍の沈黙。それから彼は背筋を正し、はっきりと告げた。


「奥様は、いません」


 いません、ではなく「お出かけ中」でも「ご不在」でもなかった。マルティンがどのような思いでその言葉を選んだのか、私にはわかる気がした。奥様はいないのだ。この家には、もう。


◇◇◇


 大使はそのまま帰らなかった。


 応接間に通され、茶を出され、当主であるヴァルター――あの方の到着を待った。あの方はミリアーナ嬢と外出していたらしく、戻ったのは大使の到着から二時間後のことだった。


 ヴィクトール大使は手にした書簡を卓上に広げた。サヴェルナ語の暗語で書かれた外交文書。新しい通商条約の草案に関する打診だったと推測される。


 あの方は書簡を一瞥し、書記官のフリードリヒを呼んだ。


 フリードリヒは暗語を解読できなかった。


 当然だ。あの暗号体系は、私がサヴェルナ留学時代にヴィクトール大使と個人的に取り決めたものだった。二人の間だけで通用する符丁を三年かけて練り上げ、通常の暗号解読では解けない構造にしてある。フリードリヒに責任はない。彼にできるはずのないことを求められただけだ。


 ――正確に言えば、私以外の誰にもできないことを。


 あの方が何を言ったのか、正確にはわからない。けれど父様の旧友によれば、フリードリヒは応接間を出たとき、顔が紙のように白かったという。


◇◇◇


 ヴィクトール大使は椅子の背にもたれ、あの方を見据えた。


「公爵。交渉の相手が代わるのであれば、こちらも条件を考え直す必要がある」


 それは外交上の脅しだった。


 私がいた五年間、サヴェルナとの通商交渉は公爵家にとって最大の収入源だった。サヴェルナの鉱石をエーデルシュタイン領の工房で加工し、イルメリアに輸出する。その取引の要が、大使と私の間に築かれた信頼関係と暗号回線だった。


 私が去ったことで、その回線は途絶えた。インクが乾いた羊皮紙のように、文字は残っていても意味が読み取れない。


 あの方がどう答えたのか。想像はつく。おそらく「勝手にしろ」に類する言葉だったのだろう。あの方はいつもそうだった。自分の手に余るものは放り出す。放り出されたものを私が拾い集めていたことに、最後まで気づかなかった。


 ――いや。気づいていて、見ないふりをしていたのかもしれない。どちらにしても、もう関係のないことだ。


◇◇◇


 ヴィクトール大使が公爵邸を去った翌日、私のもとに二通の手紙が届いた。


 一通目。差出人、ヴィクトール大使。封蝋は紫。サヴェルナの蝋は独特の光沢がある。蝋燭の灯りに透かすと、奥に細かな雲母の粒が見えるのだ。この封蝋を初めて見たのは留学二年目の冬で、大使の執務室で通商文書の翻訳を手伝ったときだった。あの日、窓の外にはサヴェルナの紫陽花が――もう冬枯れていたけれど――骨だけの枝を空に伸ばしていた。


 封を切る。


『セラフィーナ・ランベルト嬢。貴女の不在を知り、非常に残念に思います。五年間の貴女の働きは、サヴェルナ宮廷においても高く評価されておりました。惜しい、の一言に尽きます。今後のご活躍をお祈りするとともに、もし再びお力をお借りできる日が来るならば、サヴェルナは扉を開けてお待ちしております。ヴィクトール・サヴェルナ』


 惜しい。


 その一語が、胸の奥に沈んでいく。重い石が水底に落ちるように、ゆっくりと。


 五年間、あの家で透明だった私の仕事を、この人はずっと見ていた。大使という立場で、国境の向こうから。


 手紙を丁寧に畳み、机の引き出しにしまった。


◇◇◇


 二通目。差出人、エーデルシュタイン公爵ヴァルター。封蝋は蒼。


 封を見た瞬間、指が止まった。


 あの蒼い蝋。何百回と押した色。けれど今、その蒼は私のものではなく、あの方のものだ。あの方が自分で封蝋を押したのだろうか。それとも誰かに命じたのか。蝋の押し方を見ればわかる。あの方は力加減を知らないから、いつも印が深すぎる。


 ――見なくていい。


 封蝋の押し痕を確認しようとした自分に気づいて、手を止めた。もう、あの方の癖を読み取る必要はない。


 封を切らなかった。


 手紙を裏返した。表書きには「セラフィーナへ」とだけ書かれている。名前で呼ぶのか。五年間呼ばなかった名前を、手紙では書けるのか。


 喉の奥に、苦い何かがせり上がる。


 手紙を引き出しにしまった。ヴィクトール大使の手紙の隣に。けれど二通の間に、白紙の便箋を一枚挟んだ。理由は自分でもわからない。ただ、隣り合わせにしたくなかった。


◇◇◇


 同じ日の午後。


 王都アストレアの中心部にある外交局の一室で、ある男が報告書を読んでいた。


 第二王子レオンハルト殿下。濃紺の軍服に銀の肩章。外交局の特別顧問として、週に二度この部屋を訪れる。無駄な装飾のない机の上に、各国大使の動向報告が積まれている。


 その中の一枚に、彼の指が止まった。


「サヴェルナ大使、エーデルシュタイン公爵邸を訪問。通商交渉の停滞を懸念。原因――公爵夫人の離縁による外交回線の断絶」


 殿下は報告書の余白に、万年筆で一語だけ書き記した。


 セラフィーナ。


 それだけだった。それだけ書いて、殿下は報告書を閉じ、次の書類に手を伸ばした。窓の外では冬の陽が傾きかけていて、インク壺の影が机の上を長く横切っている。


◇◇◇


 夜。


 私は寝台の上で、天井の木目を見つめていた。右から三番目の猫の横顔。もう慣れてきた。


 引き出しの中に、未開封の手紙が一通。


 読まない。返事も書かない。あの蒼い封蝋の向こうに何が書いてあっても、もう私の問題ではない。


 ――そうでしたか、と心の中で呟いた。誰に言うでもなく。今さら名前を書けるのですか、と。


 毛布を顎まで引き上げた。銀木犀の匂いはもう薄れかけている。冬が深まっているのだ。


 指先は今夜も冷たい。けれどそれは、あの手紙のせいではない。たぶん。


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