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旦那様の愛人に「奥様って可哀想ですね」と言われた日、私は笑ってしまいました  作者: 九葉(くずは)


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第3話「銀木犀の庭で」

 目が覚めた時、どこにいるのかわからなかった。


 天井の木目が違う。公爵邸の寝室は白漆喰だった。ここは樫材の板張りで、節のひとつひとつに見覚えがある。幼い頃、眠れない夜にこの節を数えたものだ。右から三番目の節が猫の横顔に似ている。


 ――ああ、実家だ。


 ランベルト伯爵邸の、私の部屋。離縁してから七日が経っていた。


 身体を起こすと、窓から銀木犀の匂いが流れ込んでくる。冬の初めの、かすかに甘い匂い。公爵邸の庭にはなかった香りだ。正確に言えば、あの庭にも銀木犀はあったのだけれど、書斎の窓からは遠すぎて届かなかった。


 朝食の席で、父様が新聞を広げたまま言った。


「セラフィーナ。庭の銀木犀が見頃だぞ」


「……ええ、窓から匂いました」


「散歩でもしたらどうだ。ここ数日、ずっと部屋にいるだろう」


 父様はそれだけ言って、また新聞に目を落とした。蜂蜜入りのハーブティーの湯気が、二人の間をゆるく漂っている。


 父様は多くを聞かない人だ。元外交官らしいと言うべきか、聞かないことで相手に話す余白を与える。私がその余白を使うのを、静かに待っている。


 けれど今の私には、余白を埋める言葉がなかった。


◇◇◇


 庭に出た。


 銀木犀の大樹は庭の奥にある。父様が若い頃に植えたもので、今では二階の窓に届くほどに育っていた。小さな白い花が枝を覆い、足元には花弁が敷き詰められて、まるで雪が降ったように見える。


 その木の下に、小さな石のベンチがあった。


 腰を下ろすと、ドレスの裾が花弁を散らす。象牙色のレースの袖飾りに、銀木犀の花がひとつ絡まった。摘もうとして、やめた。このままでいい。


 鞄からサヴェルナ語の文法書を取り出した。五年間、外交書簡のために磨いた語学力。もう使う場所はない。けれど錆びつかせるのも惜しい。


 ――いえ、そうではなく。何かしていないと、手が空いてしまう。手が空くと、考えてしまう。封蝋の感触や、インクの匂いや、書斎の窓から差す朝の光のことを。


「何してるの?」


 顔を上げると、塀の向こうから子供の顔が覗いていた。近所の商家の娘だろう。八つか九つくらいの、そばかすの散った丸い顔。


「本を読んでいるの」


「変な字。読めない」


「サヴェルナ語よ。遠い国の言葉」


「教えて!」


 唐突だった。けれどその率直さに、口元がほころぶ。


「……ええ、差し支えなければ」


 少女は塀をよじ登り、落ちそうになりながら庭に降り立った。裾が泥だらけだ。花弁まみれのベンチに遠慮なく座り、私の膝の上の文法書を覗き込む。


「これ何て読むの」


「『ボンジュー』。こんにちは、という意味よ」


「ぼんじゅー!」


 その声があまりに大きくて、銀木犀の枝から小鳥が飛び立った。少女はきゃっと笑い、私も笑った。喉の奥から自然に出る笑いだった。夜会のときの、口元だけの作り笑いとは違う。


 少女の名はリーゼルと言った。毎日のように庭にやってきては、サヴェルナ語の挨拶を覚え、単語を書き取り、発音がおかしいと私に指摘された。


「先生、『ありがとう』の巻き舌ができてない」


「……あなたに言われるとは思わなかったわ」


 リーゼルがある日、ポケットから包みを取り出した。油紙に包まれた焼き菓子。胡桃と蜂蜜の素朴なもの。


「お母さんが持ってけって」


 ひとつ口に含む。胡桃の香ばしさが広がり、蜂蜜の甘さが後から追いかけてくる。舌の上でほどける食感が、どこか懐かしい。


 サヴェルナの市場で食べた菓子に似ている。留学時代、宿舎の近くの露店で売っていた胡桃の揚げ菓子。あれはもう少し油っぽくて、砂糖がじゃりじゃりしていたけれど、この素朴な甘さの芯にある温度は同じだった。


「おいしい?」


「……ええ、とても」


 指先に残った蜂蜜を舐めて、窓の向こうに目をやった。公爵邸ではこんなふうに菓子をもらうことはなかった。料理長が用意した白葡萄のシロップ漬けや胡桃のタルトは完璧な味だったけれど、誰かの「持ってけ」がついてくることはなかった。


◇◇◇


 五日目の夕方、父様が書斎に呼んだ。


 樫材の机の上に、二人分のハーブティーが置かれている。父様は杖を脇に立てかけ、私の向かいに座った。


「五年間、よく頑張った」


 不意打ちだった。


 喉の奥がきゅっと詰まる。ガラスの文鎮を見つめた。父様の書斎に昔からあるもので、中に気泡がひとつ閉じ込められている。子供の頃、この気泡を魚だと言い張って父様を困らせた。


「頑張った、というのは少し違う気がします」


「ほう」


「頑張ったのではなく、ただ……そこにあるものをこなしていただけです。書簡を書き、暗号を組み、席順を決め。それしかやることがなかっただけで」


 父様はハーブティーを一口啜り、カップを置いた。


「それを五年間続けることを、世間では『頑張った』と言うのだよ」


 反論できなかった。目の奥が熱くなりかけて、慌てて文鎮の気泡に視線を逃がした。


 父様はそれ以上何も言わなかった。ただ、ハーブティーが冷めるまで、二人で黙って座っていた。窓の外から銀木犀の匂いが流れてくる。父様の書斎の匂い――古い羊皮紙とインクの匂いに、甘い花の香りが混じっている。


◇◇◇


 七日目の朝、手紙が届いた。


 差出人は公爵家の書記官フリードリヒ。封蝋は蒼。見慣れた色だったけれど、押し方が歪んでいる。フリードリヒはまだ封蝋に慣れていないのだ。


 開封する。


『セラフィーナ様。突然のお手紙をお許しください。サヴェルナ大使よりの書簡が届いたのですが、暗語が解読できません。お力添えをいただけないでしょうか。どうか、お戻りいただけませんか。切にお願い申し上げます。フリードリヒ』


 丁寧な字だった。けれどインクの滲みが多い。急いで書いたのだろう。あるいは、手が震えていたのかもしれない。


 便箋を畳み、封筒に戻した。


 机の上の羊皮紙を一枚取り、鉄のインク壺に羽根ペンを浸す。


『フリードリヒ殿。お手紙拝読いたしました。お気持ちはありがたく存じますが、私はもうあの家の人間ではありません。暗号の件は、サヴェルナ大使に直接お尋ねになるのがよろしいかと。ご健勝をお祈りいたします。セラフィーナ・ランベルト』


 署名を書き終えて、ペンを置いた。ランベルト。旧姓だ。まだ手に馴染まない。五年間エーデルシュタインと書き続けた指が、一瞬だけ躊躇した。


 封蝋を温める。蒼ではなく、父様の書斎にあった古い赤い蝋。ランベルト家の封蝋。押す。赤い円が、返事の手紙に小さな印を残す。


 ――これでいい。


 封をした手紙を脇に置いたとき、封筒の中にもう一枚紙が入っていることに気づいた。フリードリヒの手紙の裏に、追伸が小さな字で書き足されている。


『追伸。本日、サヴェルナの大使閣下がお見えになりました。ヴィクトール大使がエーデルシュタイン公爵邸を訪問されたのは、私の記憶では初めてのことです』


 指先が冷えた。


 ヴィクトール大使。サヴェルナの宮廷外交の中枢を担う人物。あの方が公爵邸を訪れたということは、暗語の書簡は通常の外交文書ではない。


 便箋を置いた手が、無意識にもう一度封筒に伸びかけて、止まった。


 もう、私の仕事ではない。


◇◇◇


 その夜、寝台に入っても眠れなかった。


 天井の木目を数える。右から三番目の猫の横顔。四番目の渦巻き。五番目の――


 だめだ。目を閉じると、公爵邸の書斎が浮かぶ。樫材の机。鉄のインク壺。窓から差す冬の朝日。封蝋を温める小さな蝋燭の炎。


 あの場所が恋しいわけではない。あの場所での日々が戻りたいほど幸福だったわけでもない。旦那様――いえ、もうあの方だ。あの方は最後まで私の名前を呼ばなかった。透明なまま五年間を過ごした場所に、郷愁を覚える道理がない。


 なのに、身体が覚えている。朝六時に目が覚める習慣。インクの匂いを嗅ぐと背筋が伸びる反射。封蝋を押すときの、あの小さな抵抗感。


 嫌いだったはずなのに。あの暮らしを、私は確かに嫌っていたはずなのに。


 指先が冷たい。毛布の中に手を入れても温まらない。この冷えは気温のせいではないと、わかっていた。慣れた場所を離れたあとに残る、輪郭のない空洞。名前のつけようがないもの。


 銀木犀の匂いが、窓の隙間から入ってくる。


 その匂いを吸い込みながら、いつの間にか眠りに落ちていた。夢の中で、私はまだ封蝋を押している。蒼い蝋が赤く変わるのを、ただ黙って見つめていた。


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