第2話「鍵を返す朝」
封蝋を剥がす音が、いやに大きく響いた。
朝の書斎は冷えている。暖炉にはまだ火が入っていない。樫材の机の上に、引き継ぎ用の書類を広げた。三か国分の外交書簡の進行状況、暗号表の運用方法、各大使の連絡先と好み――まとめると羊皮紙八枚分になった。
インクが乾くのを待ちながら、窓の外を見る。公爵邸の庭に植わった樫の大木が、冬の朝日を受けて影を長く伸ばしていた。この窓から見る景色とも、今日でお別れだ。
――いえ。感傷に浸っている暇はない。
書記官のフリードリヒを呼んだ。まだ二十代の若い男で、国内文書の処理は手際がいい。ただし外交暗語の知識はない。
「これを」
八枚の書類を差し出すと、フリードリヒは目を丸くした。
「奥様、これは……」
「引き継ぎです。外交書簡の進捗と、各大使への連絡方法をまとめました。暗号については直接大使にお尋ねください。私が独自に取り決めたものなので、文書化が難しいのです」
フリードリヒの指が震えていた。書類を受け取る手が、少しだけ遅い。彼は何かを言いかけて、やめた。唇を結んで、深く頭を下げた。
「お世話になりました」
その一言だけだった。十分だと思った。
◇◇◇
旦那様の私室の扉を叩く。
返事があるまで数秒。扉を開けると、旦那様は窓際のソファに座っていた。手元にはワイングラス。朝からだ。いつものことではあるけれど。
「離縁届を出します」
旦那様の眉が動いた。片方だけ、わずかに。
「……は?」
「白い結婚の五年条項に基づく離縁です。書類は整えてあります。旦那様の署名は不要です」
旦那様はグラスを置いた。ゆっくりとした動作だった。立ち上がりもしない。
「急な話だな」
「……ええ、そうかもしれません」
急ではなかった。五年かけて少しずつ乾いていった泉が、ようやく底を見せただけのことだ。けれどそれを説明する気力は、もうなかった。説明して、伝わる人ならば、五年もかからなかったはずだ。
旦那様の背後に、ミリアーナ嬢の手袋が置いてあるのが見えた。薄い絹の、桃色の手袋。昨夜の夜会のものだろう。朝まで残していたということは、つまり、そういうことだ。
右手が左手首を掴みかけて、やめた。もうその癖は必要ない。
「後任の教育には半年ほどかかります。もしよろしければ、その間は私が――」
「いい」
旦那様は手を振った。窓の外を見ている。私ではなく。
「勝手にしろ」
三語だった。五年間で一番短い会話が、最後の会話になった。
◇◇◇
使用人たちへの挨拶は、一人ずつ行った。
侍女のアンナが鼻をすすった。料理長のクラウスが無言で握手を求めてきた。庭師のヘルマンは帽子を脱いで、そのまま何も言えずに立ち尽くしていた。
最後に、執事のマルティンが玄関まで見送ってくれた。
二十年この家に仕えた古参の執事は、白い手袋を正し、深々と頭を下げた。
「奥様。お身体を、お大事に」
声が掠れていた。マルティンの目は赤い。けれど涙は流さなかった。この人はそういう人だ。感情を飲み込んで、代わりに礼儀を差し出す。
「ありがとう、マルティン」
門を出た。
石畳に靴音が響く。冬の空気が頬を刺す。ムートンの室内靴から革のブーツに履き替えた足が、地面の冷たさを拾っている。
振り返らなかった。振り返ったら、書斎の窓が見えてしまう。あの樫の木の影が見えてしまう。五年分の朝の光が、まだそこに残っている気がして。
不思議なものだ。嫌いだった場所のはずなのに、去るとなると足が重い。――いや、嫌いだったのは場所ではなく、そこでの自分の在り方だった。書斎そのものは好きだったのかもしれない。インクの匂いと、窓からの光と、封蝋を温める小さな蝋燭と。
……正確に言えば、好きだったかどうかすら、もうよくわからない。
◇◇◇
馬車に乗った。実家のランベルト伯爵邸まで、王都の旧市街を抜けて半刻ほどの道のり。何度も通った道だ。
――のはずだった。
「お客様、こちらは港の方角ですが」
御者の声で我に返った。窓の外を見ると、見覚えのない通りが広がっている。石畳の色が違う。潮の匂いがうっすらと漂う。
「あの……旧市街に戻れますか」
「大きく外れましたな。少しお待ちを」
五年住んだ王都の道を、間違えた。外交暗語は三か国分を完璧に記憶しているのに、自宅への道が頭から抜け落ちている。我ながら呆れた。
馬車が迂回する間、窓から見える通りのパン屋が目に留まった。焼きたての匂いが風に乗って入ってくる。香ばしい、小麦と蜂蜜の甘い匂い。
そういえば、朝食を食べていない。引き継ぎ書を仕上げるのに夢中で、茶の一杯も口にしなかった。
馬車を止めてもらった。パン屋の主人は小柄な女性で、エプロンに粉がついている。
「この辺りは初めてかい」
「……ええ、少し道に迷ってしまって」
「ランベルト通りなら、この道をまっすぐ行って二つ目の角を右だよ」
黒パンをひとつ買った。銀月貨の小さなほうを渡すと、お釣りと一緒に干し杏をひとつ、おまけにつけてくれた。
干し杏を口に含んだ。甘酸っぱさが舌の上に広がる。サヴェルナの市場で買った味に似ている。留学時代、授業の合間に市場を歩き回り、両手いっぱいの干し果物を買って宿舎に持ち帰った。あの頃は自分が何を好きか知っていた。何を食べたいか、どこへ行きたいか、何が楽しいか。全部わかっていた。
今は、もう思い出せない。パンの欠片が膝に落ちた。拾い上げて、窓の外に目をやる。知らない通りの、知らない空。でも、不思議と息がしやすかった。
◇◇◇
ランベルト伯爵邸の門は、記憶の中より少しだけ小さく見えた。五年前はこの門が世界のすべてだったのに。
玄関の扉が開いた。父が立っていた。
杖をついている。髪は五年前より白くなり、頬はこけていた。けれど目だけは変わらない。外交官だった頃の、人の奥まで見通す目。
「セラフィーナ」
名前を、呼ばれた。
ただそれだけのことで、膝の裏側がじんと熱くなった。不思議だった。名前を呼ばれることが、こんなにも身体のどこかを揺らすなんて。
「おかえり」
「……ただいま、父様」
実家の庭から銀木犀の匂いが流れてくる。冬の初めの、かすかに甘い匂い。
窓から見える景色が、五年ぶりに「自分のもの」に見えた。
けれど安心したのは一瞬だった。翌朝、公爵邸から一通の書簡が届く。封蝋は蒼。見慣れた色だった。




