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旦那様の愛人に「奥様って可哀想ですね」と言われた日、私は笑ってしまいました  作者: 九葉(くずは)


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第1話「可哀想ですか。ふふ」

「――可哀想?」


 その言葉を聞いた瞬間、口元に力が入った。笑いをこらえるときの、あの感覚だ。


 夜会の広間は蝋燭の明かりで金色に染まり、楽団の弦がゆるやかなワルツを奏でている。壁際に並ぶグラスの縁が揺れるたび、小さな光の破片が天井に散った。


 私は今夜も公爵夫人として完璧に振る舞っていた。サヴェルナ大使ヴィクトール閣下への挨拶を終え、トルステンの商務官に新しい交易条件の草案を渡し、イルメリアからの贈答品の礼状を手配した。草案の羊皮紙にはまだインクの匂いが残っていて、指先がわずかに黒ずんでいた。


 手袋で隠した。公爵夫人のインクの染みなど、誰も見たくないだろう。


 広間の向こう側で、旦那様が笑っている。穏やかな笑みだ。社交の場で見せる、人当たりのいい表情。


 隣にいるのは、ミリアーナ嬢。


 淡い桃色のドレスに身を包んだ彼女が、旦那様の腕に手を添えている。旦那様は何か囁き、ミリアーナ嬢がはにかむように目を伏せた。二人の距離は指三本分。夫婦の距離ではなく、恋人の距離だった。


 見慣れた光景だった。もう数えるのもやめた光景。


 数えていた頃もあった。最初の一年は、ミリアーナ嬢が屋敷を訪れるたびに胃の奥が重くなった。二年目には慣れた。三年目には、旦那様がミリアーナ嬢と過ごす夜に書簡を書くのが日課になった。四年目には、彼女の訪問日に合わせて大使との会談を入れるようになった。効率がいいからだ。


 五年目の今、私は夜会の料理の中に胡桃のタルトがないことのほうが気になっていた。料理長に頼んだはずなのに。あの人は指示を忘れることがある。明日確認しなければ。


◇◇◇


 ミリアーナ嬢が私のそばに来たのは、夜会の終盤だった。


「奥様」


 その声には嘘がなかった。彼女の瞳は潤んでいて、長い睫毛の先に小さな光が宿っている。


「あの、差し出がましいことを申しますが……」


 深緑のビロードのドレスの裾を握る私の指が、無意識に力を込めた。


「奥様って……可哀想ですね」


 一拍の間があった。


「私、奥様のお気持ちを考えると、胸が痛くて」


 ミリアーナ嬢の手が私の袖に触れた。指先が微かに震えている。この人は本当に、心からそう思っているのだ。嘘をつけない体質のようなもので、目を見ればわかる。


 私を、可哀想だと。心の底から。


 何かがほどけた。喉の奥ではなく、もっと深いところで――胸骨の裏あたりで、五年分の何かが音もなく綻んだ。


「可哀想、ですか」


 声が震えたのは泣くほうの震えではなかった。


「ふふ」


 笑ってしまった。


 口を手で覆ったけれど、もう遅かった。肩が揺れている。周囲の視線がこちらに集まるのがわかった。燭台の炎が一瞬大きく揺れて、影が壁を這う。ミリアーナ嬢が一歩退き、白い顔をさらに白くした。


 ――ああ、そうか。怯えている。


 正しい反応だと、思った。


 五年間、この家で「公爵夫人」として笑い、泣かず、怒らず、名前を呼ばれることもなく、三か国語で外交書簡を書き続けた女が、愛人に同情された瞬間に笑い出したのだ。怖くて当然だろう。私だって自分が怖い。


 旦那様がこちらを見た。眉をひそめている。不快そうな、けれどもすぐに興味を失う類の表情。私に向ける視線はいつも、馬車の窓から通り過ぎる街路樹を見るそれに似ている。


 目が合った。一瞬だけ。


 旦那様は何も言わずにミリアーナ嬢のほうへ歩いていった。彼女の肩に手を置き、「大丈夫か」と囁いている。


 大丈夫かと聞かれたのは、彼女のほうだ。笑ったのは私なのに。


 ――いえ、それはもう、どうでもいいことだった。


◇◇◇


 広間の隅で、一瞬だけ目が合った人物がいた。


 濃紺の軍服に銀の肩章。第二王子レオンハルト殿下だった。社交の場にはいつも控えめに立っていて、誰かと談笑することも踊ることも少ない。


 彼がこちらを見ていた。表情は読めない。ただ、視線がすぐに逸れなかったことだけが、少し不思議だった。


 それ以上考える余裕はなかった。私の頭はもう、明日のことでいっぱいだったから。


◇◇◇


 自室に戻り、扉を閉めた。


 鏡の前に立つ。象牙色のレースの袖飾りが、蝋燭の光を受けてゆるく揺れている。


 五年前の夜を思い出す。


 結婚式の日、旦那様は誓いの言葉で私の名前を呼んだ。セラフィーナ、と。あの日、彼の袖ボタンが一つだけ色違いだったことに気づいた。銀の中に一つだけ金。従者が間違えたのか、本人が気づかなかったのか。


 ――この人は、細部を見ない人だ。


 あの夜の寝室で、旦那様は「おやすみ」とだけ言って背を向けた。白い天蓋の下、私は蝋燭の火を見つめながら、この結婚が始まったことを実感できないまま朝を迎えた。


 翌朝も、その翌日も、その後の千八百余日も。彼が私に向けた言葉は「おやすみ」と「ああ」と「任せる」の三つだけだった。


 名前は、もう呼ばれなかった。「奥様」か「お前」か、ときどき何の呼称もなく空中に放り出される用件だけ。廊下ですれ違うとき、旦那様の視線は私の肩の上あたりを通り過ぎて、その先にある窓か壁か、とにかく私ではない何かに吸い込まれていった。


 なんというか――存在しているのに、透明。そういう感覚に名前をつけるなら、たぶん「慣れ」がいちばん近い。痛みにも慣れるように、透明にも慣れる。


 その代わりに私は外交書簡を書いた。サヴェルナ語、トルステン語、イルメリア語。三か国の大使と暗号を取り決め、条約の草案に朱を入れ、晩餐会の席順を派閥関係から逆算した。


 封蝋を押す指先だけが、毎日確かに生きていた。


 それが私の五年間だった。


 鏡の中の女が、微かに顎を上げる。首の後ろがまだ熱い。笑ったときの熱が、まだ残っている。


 可哀想。


 確かに、可哀想だったのかもしれない。けれどその言葉を受け取った瞬間、私は自分が「可哀想な人」という箱に入れられていたことに気づいた。――いや、正確に言えば、自分からその箱の中に座り込んでいたことを。


 笑ったのは、たぶん、そういうことだ。


 箱の蓋が開いて、中に風が入ってきた。その風は五年分の埃の匂いがした。父の書斎の匂いに少しだけ似ていた。


 もう、座っていなくていい。


 右手で左手首を掴む癖が出ていることに気づいて、指を解いた。


 明日、書斎の引き出しを整理しよう。引き継ぎが必要な書簡は何通あるか、数えなくてはならない。白い結婚の五年条項はとうに満了している。手続きには、そう時間はかからないはずだ。


 鏡に映る自分の目が、五年ぶりに乾いていた。


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