影の名
男は、朝になると必ず「彼」を見る。
鏡の中に。
洗面台の前に立ち、顔を上げたとき。曇った鏡がゆっくりと晴れていくと、そこに自分の顔が現れる──その瞬間、ほんのわずかに遅れて、もうひとつの表情が重なるのだ。
自分と同じ顔。
だが、わずかに違う。
自分が無表情なら、鏡の中のそれは笑っている。
自分が笑えば、鏡のそれは無表情になる。
まるで、感情だけが入れ替わっているように。
最初は疲れだと思った。
仕事のストレス、睡眠不足、ありふれた理由。
だが「彼」は消えなかった。
歯を磨いているときも、
髭を剃るときも、
顔を洗うときも。
鏡の中の自分は、決して自分と同じ顔をしない。
そして、ある朝。
鏡の中の男が、はっきりと口を動かした。
「 」
声は聞こえない。
だが、唇の動きは読めた。
おまえが邪魔だ
男は凍りついた。
それから毎朝、「彼」は何かを言うようになった。
邪魔だ
消えろ
どけ
表情は穏やかだった。
だが口だけが、憎悪を吐き続けた。
男は鏡を伏せた。
タオルで覆った。
だが意味はなかった。
ガラスの反射、
窓、
スマートフォンの黒い画面、
エレベーターの扉。
あらゆる反射面に「彼」は現れた。
そして言う。
おまえが邪魔だ
男は痩せていった。
眠れなくなった。
反射を避けて生活するようになった。
ある夜。
帰宅した男は、ついに鏡の前に立った。
逃げても無駄だと悟ったからだ。
洗面台の電気をつける。
白い光が鏡を照らす。
そこにいた。
自分と同じ顔の男。
だが今日は違う。
鏡の中の男は──泣いていた。
頬を涙が伝っている。
唇が震えている。
男は息を呑んだ。
「……どうして」
かすれた声が出た。
鏡の中の男は、ゆっくりと口を動かす。
ちがう
男は眉をひそめる。
鏡の男は続ける。
ちがう ちがう
男の胸がざわめく。
「何がだ」
鏡の男は首を振る。
そして、必死に何かを伝えようとするように、何度も同じ言葉を繰り返した。
おまえが じゃない
男の背筋が凍る。
鏡の男は、震える指でこちらを指差した。
正確には──鏡の外を。
男の背後を。
ゆっくりと、男は振り返る。
誰もいない。
だが、違和感があった。
部屋の空気が、わずかに歪んでいる。
熱気のような揺らぎ。
輪郭のない影。
それが、男のすぐ背後に立っていた。
男は凍りついた。
鏡に視線を戻す。
鏡の中の自分は、恐怖に引きつった顔で、背後を指差している。
そして叫んだ。
そいつが邪魔だ
その瞬間。
男の喉に、見えない何かが巻きついた。
空気が塞がれる。
視界が暗くなる。
男は鏡を掴もうとした。
助けを求めるように。
だが指は届かない。
鏡の中の男は、必死に何かを訴えている。
だがもう読めない。
視界が潰れていく。
最後に見えたのは。
鏡の中の自分が、絶望の顔でこちらに手を伸ばしている姿だった。
──そこで世界は途切れた。
静寂。
やがて、洗面台の前で「彼」が目を開ける。
鏡の中で。
ずっと閉じ込められていた男が、ゆっくりと瞬きをする。
自由だった。
ガラス越しではない空気。
重力。
体温。
鏡の外の世界。
彼は震える手で、自分の顔に触れる。
触れられる。
触れられる。
笑いが漏れた。
そして足元を見る。
床に倒れている男。
首に痕。
虚ろな目。
さっきまで外にいた「自分」。
彼はそれを見下ろし、静かに言った。
「やっと、どいた」
洗面台の鏡には、もう何も映っていなかった。




