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五分で読める AI短編小説集

影の名

作者: アイキカイ
掲載日:2026/02/24

 男は、朝になると必ず「彼」を見る。

 鏡の中に。

 洗面台の前に立ち、顔を上げたとき。曇った鏡がゆっくりと晴れていくと、そこに自分の顔が現れる──その瞬間、ほんのわずかに遅れて、もうひとつの表情が重なるのだ。

 自分と同じ顔。

 だが、わずかに違う。

 自分が無表情なら、鏡の中のそれは笑っている。

 自分が笑えば、鏡のそれは無表情になる。

 まるで、感情だけが入れ替わっているように。

 最初は疲れだと思った。

 仕事のストレス、睡眠不足、ありふれた理由。

 だが「彼」は消えなかった。

 歯を磨いているときも、

 髭を剃るときも、

 顔を洗うときも。

 鏡の中の自分は、決して自分と同じ顔をしない。

 そして、ある朝。

 鏡の中の男が、はっきりと口を動かした。

「  」

 声は聞こえない。

 だが、唇の動きは読めた。


 おまえが邪魔だ


 男は凍りついた。

 それから毎朝、「彼」は何かを言うようになった。


 邪魔だ


 消えろ


 どけ


 表情は穏やかだった。

 だが口だけが、憎悪を吐き続けた。

 男は鏡を伏せた。

 タオルで覆った。

 だが意味はなかった。

 ガラスの反射、

 窓、

 スマートフォンの黒い画面、

 エレベーターの扉。

 あらゆる反射面に「彼」は現れた。

 そして言う。


 おまえが邪魔だ


 男は痩せていった。

 眠れなくなった。

 反射を避けて生活するようになった。

 ある夜。

 帰宅した男は、ついに鏡の前に立った。

 逃げても無駄だと悟ったからだ。

 洗面台の電気をつける。

 白い光が鏡を照らす。

 そこにいた。

 自分と同じ顔の男。

 だが今日は違う。

 鏡の中の男は──泣いていた。

 頬を涙が伝っている。

 唇が震えている。

 男は息を呑んだ。

「……どうして」

 かすれた声が出た。

 鏡の中の男は、ゆっくりと口を動かす。


 ちがう


 男は眉をひそめる。

 鏡の男は続ける。


 ちがう ちがう


 男の胸がざわめく。

「何がだ」

 鏡の男は首を振る。

 そして、必死に何かを伝えようとするように、何度も同じ言葉を繰り返した。


 おまえが じゃない


 男の背筋が凍る。

 鏡の男は、震える指でこちらを指差した。

 正確には──鏡の外を。

 男の背後を。

 ゆっくりと、男は振り返る。

 誰もいない。

 だが、違和感があった。

 部屋の空気が、わずかに歪んでいる。

 熱気のような揺らぎ。

 輪郭のない影。

 それが、男のすぐ背後に立っていた。

 男は凍りついた。

 鏡に視線を戻す。

 鏡の中の自分は、恐怖に引きつった顔で、背後を指差している。

 そして叫んだ。


 そいつが邪魔だ


 その瞬間。

 男の喉に、見えない何かが巻きついた。

 空気が塞がれる。

 視界が暗くなる。

 男は鏡を掴もうとした。

 助けを求めるように。

 だが指は届かない。

 鏡の中の男は、必死に何かを訴えている。

 だがもう読めない。

 視界が潰れていく。

 最後に見えたのは。

 鏡の中の自分が、絶望の顔でこちらに手を伸ばしている姿だった。

 ──そこで世界は途切れた。

 


 静寂。

 やがて、洗面台の前で「彼」が目を開ける。

 鏡の中で。

 ずっと閉じ込められていた男が、ゆっくりと瞬きをする。

 自由だった。

 ガラス越しではない空気。

 重力。

 体温。

 鏡の外の世界。

 彼は震える手で、自分の顔に触れる。

 触れられる。

 触れられる。

 笑いが漏れた。

 そして足元を見る。

 床に倒れている男。

 首に痕。

 虚ろな目。

 さっきまで外にいた「自分」。

 彼はそれを見下ろし、静かに言った。

「やっと、どいた」

 洗面台の鏡には、もう何も映っていなかった。

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