番外編 世話人と使用人 下
ある夜、イルは散歩から帰る途中、偶然にもロアに出くわしてしまう。
部屋に戻ろうとするイルの姿を目に入れたロアは、わずかに目を見開いていた。
「このような夜更けに、いかがされましたか?」
夜であっても、ロアは姿勢を正したままイルに向かって声をかけた。
「……その、寝付けないもので……。少し、散歩に出ていました」
イルは曖昧な笑みを浮かべながら、ロアとの突然の遭遇にどうしたものかと思考を巡らせていた。
ロアは変わらぬ表情で、しかしわずかながら眉を動かす。
「この地の夜は、ひどく冷え込む時もあります。よろしければ、何か温かい飲み物でもお持ちしましょうか?」
その気遣いに、イルはどう答えたものかと考えあぐねる。
そしてやっとの思いで声にした言葉は、とても情けないものであった。
「私は、大丈夫ですよ。……その、ロアさんも……何か用事があったのでは?」
本当なら、その言葉に甘えるつもりであった。
しかしイルはエルの世話人であり、ロアにまで気遣われるような立場ではない。そう思い直し、笑みを浮かべて断りを入れた。
しかしイルの意に反して、ロアは引き下がらなかった。
「私も寝付けなかったので……、そのついでですよ。差し支えなければ、一杯いかがですか?」
その言葉に、イルは静かに頷いた。
「私も、手伝います」
「いえ、部屋で待っていてください。すぐに戻りますので」
イルの心の内も知らぬまま、ロアは颯爽と消えていった。
申し訳なさと嬉しさが入り混じり、イルの心は乱れていた。
部屋に戻り、ロアのためにと暖炉の火を大きくしてから、急いで机の上を整えた。そこには途中で止まった刺繍や、その道具、イルが独自に描いた刺繍の図案が散らばっていた。
部屋の温度も上がり、動き回る分厚い衣服のイルには熱いくらいであったが、こうでもしなければ心は落ち着かなかった。
しばらくして、控え目に扉を叩く音がした。
「どうぞ……」
「お邪魔します」
ロアは酒瓶とグラスを手に、イルの隣の椅子へと腰を下ろした。
「すみません、何から何まで準備をしていただいて……」
そう頭を下げるイルに向けて、ロアは酒を注いだ。
「気にしないでください。飲みやすいものを持ってきました、お口に合うといいのですが」
イルは感謝の言葉を口にしながら、琥珀色のそれを口に含む。
柔らかな口当たりのその酒は、イルの喉を潤すように流れては消えていった。
「いかがでしょう?」
と、ロアもまたグラスを傾ける。
しばらくすると体の奥底からじんわりと温まり、イルは頬を赤く染めながら口元を綻ばせた。
「とても、美味しいです。……いやあ、この地はお酒もおいしいのですね」
思わず砕けた言葉になってしまい、慌てて背筋を伸ばす。
しかしロアは、気にすることもなく酒を注いだ。
「ええ、そうでしょう。他にも様々な味や風味のものがありますので、またいずれ……」
上品に酒を嗜むロアの横で、イルは何度もその味わいを確かめていた。
「イルは、このような柔らかな口当たりのお酒を飲んだことはこれまでにありませんでした!あの地でのお酒というものは、どうにも苦くて後味も渋くて苦手でしたが、これなら何杯でもいけそうです……!」
気分が高揚し、思わず声が大きくなってしまう。
思わず口に手をあてるが、そのことに気付いたころにはもう遅くロアはイルに向けて水を差し出していた。
「少し、飲みすぎてしまったようですね?……どうぞ、楽になりますよ?」
「ロアさん、……すみません!あなたさまに、イルは、失礼な物言いを……」
正しきれていないその口調に、ロアはわずかに笑みを浮かべた。
その姿はとても穏やかで美しく、イルは思わず見惚れてしまう。
「大丈夫ですよ、それに……。今のあなたのほうが、あなたらしい」
その言葉に、以前主人のエルに言われた言葉を思い出す。
イルはイルのままでいいと、いつかの言葉が胸に響く。
「そう、ですか……?」
イルは水を口に含みながら、やはりロアは優しいのだなと自らに言い聞かせていた。
朝陽が部屋に差し込むころ、ロアはイルの部屋を後にした。
昨晩、イルはロアにこれまでの苦労やエルの成長を語っていた。主人を側で支える苦しみと、喜びと、その幸せ。拙い言葉ではあったが、ロアは静かに頷きイルの話に耳を傾けていた。
そして、最後に一言。
「イル。時には、自らを大切にしてもいいのですよ」
そこには、主人エルのようなイルを思いやる心があった。
――うぬぼれては、いけない。
そう思いながらも、イルはその想いを止めることができなくなってしまう。
その言葉は、イルの心の奥深くへとじんわりとした温かさを遺していった。
***
この夜、イルはエルの世話人の顔ではなくただ一人の恋する青年の顔をしていた。
「……あなたの言う通り、夜の散歩はとても楽しいものですね」
瞬く星が二人を見守るなか、イルは頬を赤く染めたまま意を決して口を開く。
「ロアさん、お伝えしたいことがあります……」
ロアはゆっくりと歩み寄り、イルの視線を受け止める。
「はい、なんでしょう」
二人の距離は、自然と縮まる。
「ロアさんのことが、好きなんです」
イルは小さく息をつき、震える手で拳を握る。
ロアは穏やかな笑みを浮かべながら、ゆるやかにその手を取る。
思わずイルの手の力が抜け、ロアは開いた手に自らの指を絡ませた。
「イル。私もあなたのことが、好きです。恐らくあなたよりも、私のほうが……」
あまりの衝撃に、イルは顔を真っ赤に染めて固まってしまう。
心臓が早鐘のように鳴り響き、指先からはロアの熱を感じた。
「やっと、触れることができました」
ロアは目を細め、イルの身を包み込むように抱きしめた。
イルは何も口にすることができぬまま、ただ息をするのが精一杯な状態であった。
しばらくして、イルもまた、ロアの秘められた想いを打ち明けられていた。
「私は、あなたの姿を初めて目にしたその時から……恋に落ちてしまっていたのです」
「ええっ……!?」
ロアもまた、主人ヴァルと同様、輿入れの際に花嫁の側で不安そうに辺りを見渡すイルの姿に好感を抱いていたのだ。
そしてその着膨れた愛らしい姿に、真面目な仕事振り。
努力家でありながらも、それを隠そうとするひたむきな姿勢。主人エルにだけ見せる砕けた表情や、時々なまりが出てしまうその声、目で追ううちにその全てに惹かれてしまったのだという。
「これからは主人と共に……。私たちも、幸せに暮らしましょう」
そのように額に口づけられ、イルは頬を赤く染めて固まってしまう。
窓の外では変わらず雪が降っていたが、イルの自室は暖炉など必要もないほどにあたたかであった。
***
夜の屋敷は、静かであった。
暖炉の火はほのかに揺れ、影が壁に長く伸びる。
二人の主人であるエルもヴァルも、すでに眠りについていた。
イルは書斎の隅で書類の整理をしていたが、ふと窓の外を見ると、ロアが静かに佇んでいることに気づく。
黒い影に月光が反射して、その凛とした姿が浮かぶ。
「ロアさん?」
窓を開けて静かにその名を呼べば、ロアは振り向き微笑んだ。
「イル、まだ起きていたのですか?……少し、付き合ってくれませんか?」
「はい……」
心の奥が、少し高鳴る。書類の手を止め、イルはそっと立ち上がった。
屋敷の庭の奥へと進むと、誰も寄り付かない小さな小屋があった。
そこはもともと物置小屋として使われている場所ではあったが、冬の時期は物も何もなく、ただがらんとした空間が広がっているだけであった。
雪解けの水が静かに地面を濡らし、月明かりが二人を包む。
ロアはゆっくりと歩み寄り、イルの肩に手を置いた。
「寒くはありませんか?」
「大丈夫ですよ、私は北国で生まれ育ったんですからね」
言葉の間に、互いの呼吸が重なる。
イルは胸の奥の緊張を感じながらも、ロアの温もりに身を委ねた。
「これまで忙しくしていて、すみませんでした」
珍しく声を静めるロアに向けて、イルは気にしていないと微笑んだ。
しかしロアの腕の力は強くなる。
「私は、もちろん主人のことも大切ですが……。イル、あなたのことも……大切に思っていますよ?」
「ロアさん……」
イルの声が、かすかに震える。
近頃、ロアはヴァルの仕事の都合で屋敷を出ることも多くイルと会話をすることも少なくなっていた。
ロアはどうにかして仕事を片付けたものの、その間にイルはエルと兄弟であるかのように笑い、主人であるヴァルとも親しく言葉を交わしていたのだ。
やっとの思いで屋敷に戻ってきたロアにとっては、その光景はいささか良い気分のするものではなかった。
さらに、イルの主人であるエルにもロアはこのような言葉をかけられていた。
「イルはああ見えて寂しがりやだから、僕の分まで、ロアさんが支えてあげて?」
と、頭を下げられてしまっていたのだ。
そしてさらに、エルはロアのためを思ってヴァルに仕事をするよう進言していた。
そのようなエルに感謝しつつ、ロアはイルとの夜を存分に楽しもうとしていた。
しかし部屋を訪ねてもイルはおらず、ロアは屋敷中を探していたのだ。
そして、運よくその声が耳に届いたとき。
ロアが目にしたのは、書物を片手に涙を流すイルの姿であった。
それはイルがあくびをこぼした際に流れたものであったが、ロアはそのようなことを知るはずもなくイルが寂しがっていたのだと勘違いをしていたのだ。
静かな夜風に、二人の距離がさらに近づく。
触れ合う手のひらに、互いの心が伝わる。目を見つめるだけで、言葉はもはやいらなかった。
互いを理解し、信頼し、受け入れる。その静かな確信が、胸に広がる。
「イル、どうか……。私を置いていかないでくださいね」
なんのことだかわからぬイルであったが、ロアの髪を撫でて、静かに抱きしめる。
「私がいるところは、いつでも……ロアさんのそばですよ」
その言葉に、ロアの心は癒されていく。
小さな声が夜に溶け、二人だけの世界を形作った。
「ここ、案外いい場所だと思いませんか?」
何を、とイルが尋ねようとするとロアは微笑んだ。
「私たちの、秘密の逢瀬の場所に」
その言葉にイルは頬を染めて、頬に口づけをした。
ロアもまた、お返しにと顔を近づけた。
そのまましばらく、二人は黙って夜を過ごす。
月明かりとあたたかな呼吸だけが、静かな甘さを運んでいた。
それは誰も知らない、二人だけの尊い時間であったのだ。
END




