番外編 世話人と使用人 上
夜の屋敷の庭は、昼間の喧騒が嘘であるかのようにひどく静まり返っていた。
月明かりが雪解けの地面を淡く照らし、足音を立てるたびに霜の上でかすかな音が響く。
エルの世話人であるイルは息をひそめながら、庭の中央に立つヴァル付きの使用人、ロアの姿を見つめていた。
ロアはイルよりも背が高く、すらりとした細い体つきをしていた。イルよりも長い銀色の髪は肩のあたりで切り揃えられ、深い青の瞳に月の光が反射していた。
聞いたところ歳はイルと同じくらいであるというものの、何事にも動じることのない落ち着いた性格をしており、普段は主人の支えとして厳格な彼であったが、この夜だけは少し肩の力が抜けているかのように感じられた。
対するイルは、ロアに対して背も低く、細いわけでもなく太いわけでもないどこにでもあるような体つきをしていた。
その身は分厚い故郷の衣服で隠されているため誰も知る由はないのだが、膨れた服の上には生まれながらの茶色い巻き毛とこれまたどこにでもありふれた平凡な顔つき、よく言えば親しみやすい顔、悪く言えば地味な顔があるだけであった。瞳も夜の闇のような黒をしており、イルはロアの姿を目にするたびに自らの身を田舎者のようであると恥じていた。
普段はエルの前で兄のように明るく振舞っているものの、本来は真面目で繊細な性格でもあったのだ。
この夜、イルはエルの世話人の顔ではなくただ一人の青年の顔をしていた。
***
イルは、ロアに対して尊敬と憧れを抱いていた。
同じ主人の世話を焼くもの同士として、最初はわずかながら親近感のようなものがあった。
しかし日々を過ごす中で、ロアは主人の世話だけでなく領主であるロアの仕事を手伝い屋敷だけでなく領地全体にまで目を向けていることに気付く。
そして、ただの世話人であるイルに対しても時折気を遣い、優しく声をかけることが何度かあった。いつしか気さくに話せるような仲になり、互いに主人の変化を間近で見守ってきた。主人であるエルとヴァルの仲が深まってからは、自然と言葉を交わす回数も増えていった。
エルほどでもないが、いつも分厚い故郷の服を身にまとうイルはロアの洗練された動きがとても美しいものであるかのようにも見えていた。
屋敷には他にも大勢の使用人がいたが、男女問わずロアの動きが一番無駄がなく洗練されたように美しかった。
しかし何度もロアの真似をしてみようとするものの、その服が壁にぶつかり、果てにはエルに笑われてしまう始末であった。
「エル、何してるの?」
「これまた失礼いたしました。その、少し……ロアさんの真似をしてみただけです」
イルはその言葉に、エルはヴァルの側で常に控えている青年の姿を思い出す。
「なるほど……。でも、イルはイルのままでいいと思うよ?変に気取ってるイルって、なんかおもしろいもん」
そのように、主人に言われてしまう始末であった。
「さようにございますか……」
「うん。だってロアさんって、静かすぎて何を考えているのかよくわからないじゃない?イルは、すっごくわかりやすいから……。無理に頑張ろうとしなくてもいいと思うよ」
「坊っちゃん、それは……いい意味なのでしょうか?」
「もちろん、いい意味だよ。そのままのイルを、大切にして?」
そう笑顔で告げて、エルは親愛なる世話人に向けて微笑んだ。
****
それからというものの、イルは即座にロアの真似をやめていた。
いくら真似をしてみても、ロアにはこれまで培ってきた経験というものがあったからだ。生まれ育った場所も、習慣も、働きかたも、何もかもが違うのだ。
イルは、イルにできる精一杯のことを務めようと日々エルの世話を焼いていた。
エルは嫁いでから、笑顔を見せることが多くなった。
これもすべて愛情深くエルを受け入れてくれたヴァルのおかげであると、イルは感謝してもしきれなかった。それと同時に、イルもまたエルとともに笑う日が増えていた。
「エル、なんかいいことでもあった?」
「はい。イルは、坊っちゃんが幸せそうにされていることが……何よりも、嬉しいのです」
エルとともに過ごす日々の中で、イルもまた大きな幸せを感じていたのだ。
ヴァルとエル、二人の仲はさらに深まり、次第にイルと顔を合わせる機会も減ってしまう。
それは喜ばしいことではありつつも、イルにとっては少し寂しくもある出来事であった。
「子離れとは、このことを言うのでしょうか……」
エルの幼いころを思い返しながら、イルはひとり自室で空を見上げていた。
この地の夜空は星がよく見え、イルはこの景色を気に入っていた。
***
しばらくして、イルはエルに手がかからなくなると、ひとり夜の散歩を楽しむようになっていた。
屋敷の使用人たちは寝静まるころ、イルは静かに部屋を抜け出す。
瞬く星に想いを馳せながら、降り積もった雪に静かに足跡を残すことも散歩の楽しみであった。
イルが散歩をしていることは、誰も知らない。
この足跡も、翌朝には消えてしまうだろう。
冷えた風が強くなるなか、イルはぽつりと呟いた。
「……この心も、消えてしまえばいいのですが」
イルは、ロアに想いを寄せていた。
ロアと過ごす機会が増えていくうちに、その想いは雪のように積もるばかりであったのだ。
朝は互いに主人の世話を焼き、日中はともに言葉を交わしながら各々の仕事を行う。夜は晩餐の時間まではヴァルの部屋の外で控えながら、いつ扉を叩こうかと顔を合わせ、その後は挨拶をして互いに部屋へと消えていく。
今日の昼間、イルはエルが身に着ける羽織のうちの一つの襟元にとある刺繍を施していた。
それは主人の幸せを願うものの一つであり、花嫁に同行した世話人が幾日かごとに行わなければならないしきたりのようなものでもあった。イルは故郷から持ち出した図面を手に、幾重もの糸を重ねては分厚い生地に針を通していた。
少し離れた場所で書類仕事をしていたロアは、イルの様子を興味深く見つめていた。
「……っと、……これではいけませんねえ」
そのような声が耳に届くたびに、ロアは手を止めて書類から顔を上げた。
イルは集中している時に、独り言が増える。
ロアはイルと日々を共にする中で、その癖を知った。
しばらくは静かに見守っていたものの、イルが針を指に刺した時は思わず駆け寄っていた。
「大丈夫ですか?」
「は、はい!うるさくしてしまって、すみません」
イルはよくあることだと、指を舐めながら笑ってごまかした。
しかし、針が深く刺さってしまったのかその血は止まることなく滲んでしまう。
慌てて懐から布を取り出し、イルは自らの指に強く押し当てる。
その間、ロアはイルが施した刺繍を眺めていた。
「このように繊細な模様を、全て……人の手で行っているのですね」
この地では見たこともない美しい模様が、衣服の襟元を鮮やかに彩っていた。
そこには機械などで行うものとは違い、ぬくもりのようなものが宿っているように感じられた。
「私なんか、下手なほうですよ。上手な方は、数時間であっという間にこの模様を完成させてしまうのですから」
イルは図面をロアに見せ、肩を落とした。
確かに、途中で止まった刺繍はまだ全体の半分にも満たない進みであった。
しかしその模様は、正確に形を捉えられておりまるでイルの真面目さを表しているかのようでもあった。
ロアは静かに首を横に振り、イルに向けてこう言葉をかけた。
「決して、下手などではありません。あなたの真心がこもった、とても美しい刺繍だと思います」
イルはその言葉に、思わず息が詰まってしまう。
たとえお世辞であっても、憧れのロアにこのような言葉を投げかけてもらえるとは思ってもみなかったのだ。
「そうですかね……、ありがとうございます」
わずかな喜びを胸の奥に押し込めながら、イルはロアに向けて笑みを浮かべた。
その控えめな笑みに、ロアもまた穏やかな顔をしてみせた。
その後イルは、流れる血が止まったのを確認してから再び針を手にしていた。
仕事を終えたロアは、静かにその様子を今度は近くで見つめていた。
「……あの、そんなに見ても面白くないですよ?」
「いいえ。邪魔でなければ、どうか……このままで」
次第にイルも刺繍に集中し、ロアのことは見えなくなってしまう。
しかしロアは、いつまでもイルの顔を見つめていた。




