番外編 暑い夏
やがて領地にも季節が巡り、暑い夏がやってきた。
照りつけるような陽の日差しは、ヴァルの屋敷を明るく照らしていた。
祝福の証である雪の花はいつしか溶け、そこには色とりどりの花々が咲いていた。
大きな窓から差し込む光はとても強く、草木は眩しい緑を放つ。
ヴァルは例年の如く、大きな扇を手に涼をとっていた。
その身に纏う衣の生地も薄手になり、使用人のロアは肩まで伸びた長い髪を一つに束ねる日もあった。
「今年も、暑くなりそうだ」
「そうですね、心なしか年々気温が上がっているように感じられますが……」
流れる汗を拭いながら、ロアは努めて涼やかであろうと気を引き締めていた。
ヴァルの領地は、冬は寒く、夏はひどく暑くなることで有名であった。
春になり、エルと庭で花々を楽しんだことも記憶に新しい。
「おはようございます。朝の、ご挨拶に参りました」
そのような軽やかな声とともに、エルがヴァルの部屋へと顔を出す。
世話人のロアは、この地の衣服をエルが仕立てたおかげか幾分がすっきりとした装いに身を包んでいた。
しかしその隣で微笑むエルは今日も、あの分厚い衣服のままで現れた。
黒、白、赤、にまでその重ねられた色は減ったものの、その何枚もの羽織は重苦しく肩や腰を包み、室内においてもその姿はヴァルの目には暑苦しいものであるかのように見えていた。
「エル、今日は昨日の比ではないくらいに気温が上がるそうだ……。暑くはないのか?」
ヴァルは、心配そうに眉を寄せてエルに向けて尋ねた。
「大丈夫ですよ、ヴァル様。僕は暑さにも、慣れていますので」
その微笑みは常と変わらず柔らかなものではあったが、エルの白く小さな額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
その汗を目にした途端、ヴァルは嫌な胸騒ぎを覚えていく。
このような小さな体に、幾重にも分厚く重ねられた衣服。
熱がこもってしまえば、エルは倒れてしまうのではないかと。
ヴァルはすぐさまロアに扇を手配するよう伝え、エルの肩に手を置いた。
「君の体調が、心配だ。この地では夏に死者が多く出る。この、異常な暑さのせいでだ。少しでも、その身を軽くした方がいい」
その言葉に、エルは言い淀む。
「しかしこれを脱ぐと、失礼にあたりますので……」
そのやり取りを見守っていたイルも、懐から布を取り出しエルの額を流れる汗を静かに拭いた。
「失礼ながら、発言をお許しください。……坊っちゃん、この汗をごらんなさい。このままですと、お体に負担がかかってしまいますよ?」
ヴァルもまた、イルの声に深く頷いた。
しかしエルは、目を伏せてうつむいてしまう。
「わかっています。でも、ヴァル様の前では……。いいえ、ヴァル様の妻として相応しい格好でありたいのです」
ヴァルは一度深く息を吸ってから長く吐き、決意を固めた。
エルの自らを想う深い愛には、ヴァルはいつでも敵わないのであった。
「よし……、仕方がない。君に合った、夏服を仕立てることにしよう。軽くて涼しく、だが君の国に限りなく近い装いにすると約束しよう。……これでどうだ?」
エルの瞳が、一瞬のうちに輝いた。
「ヴァル様……!ありがとうございます」
その後、屋敷の中はエルの夏服のために大いに賑わうこととなる。
数多の仕立屋が何日もかけて、最果ての北国や日差しが強い南国など、方々から生地を運び、それを選んではエルの理想とするものへと近づけていく。
時折イルも生地の色合いや刺繍の模様などにも細かく口を出し、北国の要素を残しつつもこの地に合った軽さと風通しの良さを何日も頭を悩ませてエルと語り合った。
その間も、エルは慣れない暑さに耐えながらも分厚い衣を身にまとい続けていた。
流れ出る汗は、少しずつ首筋や手首に滲んでいた。
ヴァルはその様子を目の当たりにし、思わず手を伸ばして汗を拭いてやりたくなる衝動を覚えたが、すぐさまイルが布を持ち出し流れ出る汗を拭ったことに安堵する。
「ありがとう、イル」
「坊っちゃん。どうか、ご無理はされませんように……」
「……わかってる。でも、楽しいんだ」
胸の奥底から湧いて出る邪な心をぐっと抑えるのに、ヴァルは必死であった。
気温が高くなれば高くなるほどに、エルの流れ出る汗の量は増え、ぱたぱたと手で風を送る日も増えていた。
イルが扇を差し出すものの、エルは必要ないと頑なに首を横に振っていた。
陽の光に照らされて、小さな汗の粒はきらきらとした光を放っていた。
そのたびにヴァルは、分厚い布地からすらりと伸び出た白い腕や、襟元を緩ませた際にのぞく首筋を目に入れて、甘くも愛おしい夜のエルの姿を思い返してしまう。
「ヴァル様、見すぎですよ」
思わずロアが小声で注意をするものの、ヴァルは低く呟いた。
「まったく……。なんなんだ、あのけしからん生き物は」
「エル様のことを、そのように表現されてはいけませんよ」
「夏服であっても、露出は控えるようにしなくてはならないな」
「今の雰囲気をそのまま涼しくするだけなので、そこは心配ないかと……」
ロアが呆れるなか、エルとイルは真剣な顔をしていた。
***
ついに仕立てた夏服が完成したその日、エルはヴァルの目の前で恥ずかしそうに着替えていた。
部屋には二人だけであり、エルは一息に服を床に落としたあと静かに薄手の袖に腕を通した。その柔らかな生地に、思わず目を見張る。
黒、白、赤と次々と重ねていくその色は変わらぬものの、あまりの身の軽さにくるりと回った。
「とても軽いです!ここにある刺繍も、この地の模様と一緒に縫ってもらいました……」
感動のあまり、エルは何度も身を翻して夏服の軽さを味わう。
ヴァルもまた、その身のこなしに息をつく。
重ね着は変わらぬものの、その薄手の柔らかな布地がこれまで隠されていた首筋腕、足首をほんのりと見せていた。
少し露出は増えたものの、これはこれでまたいいものだとヴァルは深く頷いた。
「……どうでしょうか、ヴァル様」
エルはヴァルに向けて、瞳を輝かせて問いかける。
「ああ、とてもよく似合っている。とても美しい……。いや、眩しいくらいだ」
いつものように頬を赤く染めて、エルはその手で袖の布地を軽く握った。
「気に入りましたか?」
「気に入った、というより……。目が離せないな、これは……」
ヴァルの声には少しばかりの動揺と、溢れんばかりの愛がのせられていた。
思わずその身を抱きしめて、耳元で小さく囁く。
「誰にも、見せたくはないくらいだ」
エルの額に強く甘い口づけが落とされ、ヴァルは寝台へと手を引いた。
***
しばらくして、エルの夏服姿は馴染んでいく。
人々が汗を流す中でも、エルは汗一つ浮かべることなく涼し気に笑っていた。
その手には常に大きな扇があり、今日もまたエルはヴァルに向けて風を送った。
「ヴァル様。夏というものも、いいものですね」
冷ややかなエルの手を取って、ヴァルは静かに頬を寄せた。
「……そうだな。初めて、夏という季節が好きになれたような気がする」
二人の部屋の温度は日々、変わらず高いものでもあったのだ。
END




