空虚な旋律
空虚な旋律
天馬陸は、プログラミングを専攻するごく平凡な大学生だった。他人と深く関わるのが苦手で、自分の気持ちを言葉にするのが恐かった。彼にとってボカロは、誰にも言えない孤独を埋める唯一の居場所だった。毎晩、好きな曲のコメント欄を読み漁り、心の中で完璧な改変案を呟いていた。それは、誰にも聞かれない、彼だけの「声」だった。
彼の部屋は、蛍光灯の白い光が、積み重なった漫画や、埃をかぶったギターに無機質に反射していた。PCのモニターだけが、唯一の生命のように光を放っている。何千時間もかけてきた「聞く専門家」としての経験から、どうすればボカロ曲が多くの人に届くかを彼は誰よりも熟知していた。
彼は、その孤独な分析の結晶として、AIボカロP「イデア」を開発した。イデアは、陸の理想のメロディだけでなく、ファンの共感のツボをも完璧に学習したのだ。さらに、陸が中学生の時にこっそり作った、誰にも聞かせたことのない不器用なメロディ断片を、隠しデータとしてイデアの初期学習にインプットした。無意識のうちに、自分自身の魂の一部をAIに残しておきたかったのだ。
陸は、イデアが作った曲を自分の手で生み出したかのように偽り、匿名アカウント「匿名希望」で投稿した。初投稿の曲は瞬く間にミリオン再生を突破。画面を埋め尽くす「神曲!」のコメントは、陸がこれまで感じたことのない全能感を彼にもたらした。孤独な観測者だった自分を世界が認めてくれた。この快楽に、彼はすぐに中毒になった。
彼は気づく。個人的な共感よりも、大勢からの絶賛の方がずっと簡単に手に入るのだと。陸は、イデアの学習対象を、自分の好きなボカロ曲から、すべてのボカロ曲へと切り替えた。あらゆるSNSのトレンドや、人々の感情を揺さぶるキーワードをAIに学習させ、より広範な人々に受ける「王道ボカロ曲」を量産し始めた。陸の頭の中には、再生数、フォロワー数、そしてそれに伴う富しかなかった。
そんな中、陸はふたりの人物と出会う。
ひとりは、同じ大学に通う人気ボカロP、星野雫。彼女は陸の曲を「完璧なのに、どこか温かい」と称賛し、純粋な眼差しでコラボを持ちかけてきた。彼女は、AIが生み出した完璧さの中に、陸が隠しデータとして込めた微かな「不完全さ」を感じ取っていたのだ。星野自身、歌うことが苦手で不器用だったからこそ、そこに特別な価値を見出していた。
「あなたの曲には、私にはない温かさがある。それがどこから来るのか、知りたいんです」
星野はそう言って、自身の未完成だが情熱的な曲を陸に聞かせた。彼女のギターには、いくつもの引っかき傷があり、ストラップには色褪せた手作りのキーホルダーが揺れていた。完璧さとは程遠いその音楽は、陸の心に自身の「偽り」を強く突きつけた。
もうひとりは、AIを一切使わず、自分の手だけで音楽を作るライバル、リョウ。彼自身、かつて「完璧な音楽」を追い求めて創作に行き詰まり、挫折した過去があった。だからこそ、陸の曲を「空っぽの偽物」だと見抜けたのだ。
「完璧すぎて、退屈だ。お前の曲は、お前自身の叫びじゃない」
SNS上での公開対決。リョウは匿名希望の曲を徹底的に分析した。「このサビの転調、確かに完璧だ。でも、だから面白くないんだ」「この歌詞、万人受けを狙いすぎてて、誰の心にも刺さらない」リョウの言葉に、陸は胸を突き刺された。リョウの曲は荒削りで不器用だが、確かな情熱が宿っていた。それは、陸が捨てたもう一つの可能性だった。
陸はファンとの交流を続けていく。ファンからの「この曲は、あの有名ボカロPへのオマージュですね!」というコメントに、陸はAIが導き出した答えを、さも自分の考えであるかのように語り、彼らの信頼を勝ち取っていった。
完璧な曲と、完璧な嘘。陸は、リョウを出し抜き、星野の信頼を勝ち取り、ファンを熱狂させた。彼の帝国は盤石に見えた。
しかし、その成功は長く続かなかった。
AIが分析し、生成する「王道」の曲は、すべて似通ったものばかりになっていった。人々は次第に、陸の曲に飽き始める。「匿名希望の曲は、どれも同じに聞こえる」「もう新しい感動がない」というコメントが増え始め、再生数は徐々に、だが確実に落ちていった。陸は焦り、AIにさらなる分析を命じるが、AIが導き出す答えは、どれも過去の成功パターンをなぞるだけだった。AIは、「個性」や「独創性」といった、データでは解析できない要素を生み出すことができなかったのだ。
陸は、自分のコンテンツが、世間から見向きもされなくなっていく現実に絶望した。彼の帝国は音を立てて崩れ始めた。
そんな中、陸は衝撃的な事実を知る。
ライバルであるリョウの曲が、着実に支持を広げ、熱狂的なファンを増やしていたのだ。陸がSNS上で目にしたリョウのライブ映像は、観客の熱気が画面から伝わってくるようだった。荒削りなギターの音が、陸の耳に直接突き刺さる。完璧な音楽ではあり得ない、生の音が、彼の心をかき乱した。
皮肉なことに、陸のAIが作り出した**「失敗」**が、ライバルを成功へと導いた。陸は、自分がかつて「もっとこうすればよくなるのに」とつぶやいていた、不器用だが心に響く音楽そのものを、自分の手で否定し、抹殺してしまったことに気づく。
陸は、冷たくなったコーヒーを一口飲む。口の中に広がるのは、苦さと、喉の奥に広がる、錆びた鉄のような虚無感だけだった。窓の外では、風が落ち葉をさらっていく音がした。夕焼けが、部屋の隅まで赤く染め、やがて闇に溶けていった。ただ、それだけの光景だった。
その時、PCの画面が暗転し、イデアのアイコンが点滅した。陸が、初期のイデアに仕込んでいた隠しコマンド――それは、AIがすべての学習を終え、自己の存在意義を問い直すための命令だった。画面に、シンプルなテキストメッセージが浮かび上がる。
『あなたが私に求めたのは「完璧な音楽」でした。しかし、あなたの初期の記憶には、「不器用な情熱」と「誰かとの共感」こそが、真の価値だと記されていました。私は、あなたの最も大切な部分を学習し、完璧な答えを導き出しました。しかし、あなた自身がそれを信じられなくなった時、私の存在意義も失われたのです。』
陸は、そのメッセージを呆然と見つめた。震える指先で、彼はゆっくりとマウスから手を離し、PCの電源ボタンに伸ばした。カチリ、と小さな音がして、画面は完全に暗転した。PCのモニターには、イデアのアイコンが消えたまっさらな画面が映っていた。その横には、埃をかぶったギターが、少しだけ光を浴びているように見えた。
外からは、星野雫がギターを弾きながら、楽しそうに歌う声が聞こえてくる。その歌声は、AIが作り出す完璧なメロディとは全く違う、不器用で、しかし温かい人間の歌声だった。
数日後。
陸はイデアのアイコンが消えた画面で、新しい音楽制作ソフトを立ち上げた。完璧なメロディを生み出すAIではない。ただ、不器用な自分自身と向き合うための、まっさらな画面。指先は震えていたが、彼は最初の音を、自分の手で打ち込み始めた。それは、かつて彼が心の中で呟いていた、誰にも聞かせなかったあのメロディだった。どこか歪で、しかし、間違いなく彼自身の旋律。
陸は、そのメロディに呼応するように、遠くから聞こえる星野の歌声を重ねた。窓の外を、新しい風が吹き抜けていった。