9,切なげな目とぽろりとこぼれた涙ととろけるように柔らかい…
伸が身じろぎすると、行彦が体勢を変え、それで、顔が見えた。ぼんやりとしたまま、その顔を見つめる。
やっぱりきれいな顔だ。でも、なんで俺は……。
「伸くん?」
ひんやりとした手で頬に触れられ、一気に目が覚めて飛び起きる。
「駄目だよ! 急に起きちゃ」
行彦が、あわてたように、伸の背中に手を置く。
「大丈夫だよ。でも俺、いつの間に」
……いつの間に、こんなところで寝ていたんだろう。首をひねって考えていると、行彦が言った。
「急に倒れるから驚いたよ」
「えっ?」
そんなことがあったのか。別に気分が悪くなった覚えもないが、そう言えば、行彦に抱きしめられて、その後……。
顔を上げると、行彦が、切なげな目をして言った。
「伸くんのことが心配だよ。どうして、こんなひどいことを……」
伸は、学校での出来事を思い出しながら言う。
「あいつにも、いろいろ抱えているものがあるらしい」
「そんなこと関係ないよ! 」
激しい口調に呆気に取られていると、行彦が、狼狽したように目を伏せた。
「あ……ごめん」
「いや」
しばらくの間、その美しい顔を見つめていると、やがて、行彦が口を開いた。
「伸くんは優しいね。そんなやつのことまで思いやるなんて」
「そういうわけでもないけど」
嫌がらせをされたり、殴られたりすることに納得しているわけではないが、松園には松園なりの苦悩があるらしいと思い至っただけだ。
「誰か、相談出来るような人はいないの?」
行彦の言葉に、伸は即答する。
「いないなぁ」
「あっ」
小さく声を上げて、行彦は頭を振る。
「馬鹿なことを言ってごめん。そんなこと、わかっているのに。僕だって、相談相手なんていなかった。だからこうして、部屋から出られなくなったのに……」
伸は微笑む。
「いいよ」
「僕も、誰にも言えなかった。お母さんにも。お母さんのことは大好きだったよ。だから、心配をかけたくなくて。
でも、結局たくさん心配をかけて、悲しい思いをさせることになってしまったけれど……」
うつむいた行彦が瞬きをした瞬間、その目から、ぽろりと涙がこぼれて、頬を伝い落ちるのが見えた。
「えぇと、あの……」
思わず伸ばしかけた手のやり場に困っていると、涙をぬぐった行彦が、その手を取った。
「僕のこと、行彦って呼んで」
「……行、彦」
言ったとたんに恥ずかしくなって、顔が、かっと熱くなる。そのとき、行彦の顔が素早く近づいて来て、赤い唇が、伸の唇を塞いだ。
驚きながらも、柔らかい感触と甘い香りに、再び気が遠くなる。行彦の唇は、まだ離れない。
いつの間にか、帰る時間になっていた。
「伸くん」
行彦が、不安げに伸の目を見つめる。
「僕のこと、嫌いになった?」
「どうして?」
行彦は、視線を外して言う。
「だって、あんなこと……」
キスしたことを言っているのか。
唇が重なった後、その隙間から、行彦の舌が入って来た。伸は戸惑いながらも、いつしか夢中になって、自らの舌をからめ、とろけるように柔らかいそれを味わった。
伸にとっては、あれが初めてのキスだったのだが。
「嫌いになんか、ならないよ」
ただ、とても不思議な気持ちだ。漠然と、初めてのキスは女の子とするものだとばかり思っていたし、キスがああいうものだとは知らなかったから。
「……よかった」
ほっとしたように微笑む行彦は、やはりきれいだ。自分たちは男同士だけれど、こういうのもありなのかもしれないと、今は素直に思う。
朝食のとき、母が、コーヒーの入ったマグカップを、伸の前に置きながら言った。
「昨夜、どこかに出かけた?」
内心の動揺を隠しながら、伸は聞き返す。
「なんで?」
「玄関を開け閉めするような音が聞こえた気がしたのよ」
気がしただけで、確証があるわけではないのか。伸は、トーストにバターを塗りながら言う。
「ふぅん。夢でも見たんじゃないの?」