50,夕暮れどきの噴水と納得がいかないことと頭から離れないこと
「僕たちの関係は、ママから聞いて知っているよ。ちゃんと話をしてくれるまで、僕はあきらめないから。
僕が倒れたのに、置いてきぼりにして、それっきりなんてひどいじゃない」
だが、彼が辛そうに目を伏せたとたん、言い過ぎた気がして後悔した。
「えぇと、とにかく話がしたいんだけど」
「わかったよ」
彼の口調が変わった。
「あと三十分ほどで店を閉めるから、噴水の前で待っていてくれる? なるべく急いで行くから」
有希は、時間をかけてアイスコーヒーを飲んだ後、閉店時間ぎりぎりになってから店を出て、パーク内の噴水までゆっくり歩いた。ベンチに座り、夕暮れ時の噴水や周りの景色をスマートフォンで撮っていると、やがて、私服に着替えた彼がやって来た。
こちらに向かって歩いて来る彼に、スマートフォンを向けて連写する。
「やめてくれよ」
顔を背け、腕で隠すようにしながら彼は言う。
「どうして? いいじゃない。恋人同士なんだから」
こちらを見ないまま、彼は有希の横に座った。
うつむいた横顔を見つめながら、有希は尋ねた。
「僕のこと、嫌いになった?」
彼の喉が、ごくりと動く。
「それは、僕が伸くんのことを忘れちゃったから?」
「……そういうわけじゃないよ」
「じゃあ、なんで?」
ずいぶん時間が経ってから、彼は言った。
「もっと、君に似合う人がいるだろう」
「何それ!」
思わず大きな声を出すと、彼が辛そうに目をつぶった。とても繊細な人なのだと思い、声のトーンを落とす。
「似合うかどうかは、僕が決めるよ。ていうか、似合うかどうかなんて関係ない。
大切なのは、お互いの気持ちでしょう?」
「でも君は、俺のことは忘れたんだろ?」
「やっぱりそうなんだ。伸くんは、僕が忘れたことを怒っているんだ」
「そうじゃないよ!」
彼がこちらを向き、目が合った。
だが彼は、気まずそうに、すぐに目をそらす。
「とにかく俺は、もう君とは付き合えない」
そう言いながら、ベンチから立ち上がる。
「伸くん」
「その呼び方、やめてくれ」
彼は、こちらに背を向けると、足早に去って行った。有希は、その背中を呆然と見つめる。
なんだよあれ。納得がいかない。
とても不思議だ。有希と彼は恋人同士で、母の話によれば、有希は、彼にぞっこんだったらしい。
だが、どういう理由か知らないが、それらの記憶は、すべて失われてしまった。つまり、有希は、彼のことを好きだった気持ちも覚えていない。
それなのに、彼のことが気になって仕方がないのだ。頭では忘れてしまっても、体の中のどこかには、彼を好きだった記憶が、今も厳然と残っているのかもしれない。
彼の辛そうな表情や、寂しげな背中が頭から離れない。うぬぼれているようだが、口では、あんなふうに言いながら、本当はまだ、彼は有希のことを愛しているのではないかと思えてならないのだ。
「主任にお客様ですよ。この前の高校生です」
沙也加にそう言われたときは、ぎょっとした。スマートフォンに何度も着信があったことはわかっていたが、ここまでやって来るとは思っていなかったのだ。
中本が、半笑いで言う。
「またかよ。あの子、もしかして主任のストーカーとか」
「まさか」
アイスコーヒーを作りながら、沙也加が言う。
「でも、かわいい子ですよね」
「かわいくたって男だぜ」
伸は、中本の言葉を遮るように、沙也加に向かって言った。
「それ、俺が持って行くよ」
話をしてすぐに、有希が、行彦の記憶を失っていることはわかった。冷たくあしらって、早々に追い返そうと思ったのだが、彼は、思いのほか手ごわかった。
伸との間に起こったことは、何一つ覚えていないはずなのに、どうしても話がしたいと言って聞かないのだ。
仕方がないので、閉店後に、パーク内の噴水の前で話すことにしたのだった。