49,彼のことばかり考えることと自分から会いに行くこととだんだん腹が立って来たこと
救急車で運ばれたそうだが、救急車に乗ったのも初めてだったので、何も覚えていないのは、ちょっぴり残念な気もする。
スマートフォンの中に、恋人だという「伸くん」の電話番号があったので、かけてみたけれど、何度かけても「伸くん」は出なかった。
翌朝、制服を着てダイニングルームに行くと、いつものように、母が朝食の支度をしていた。どんなに遅く帰って来ても、母は必ず起きて、有希と一緒に朝食を取るのが習慣だ。
「おはよう。体調はどう?」
「おはよう。元気だよ」
母が微笑む。
「たいしたことなくて、よかったわ。安藤さんと、連絡は取れたの?」
「うぅん。電話をかけても出ないんだ」
「そう……」
彼が、いつの間にか病院から姿を消したことには、母も意外そうにしていた。彼は礼儀正しく、そういうことをするイメージの人ではなかったらしい。
もっとも、自分が、彼を母に紹介したのは、ごく最近のことで、それほど長く付き合っていてわけではないらしい。どうりで、写真もないわけだ。
だが、いくら有希が記憶をなくしたからと言って、いや、むしろなくしたからこそ、連絡をくれないのは不自然な気がする。別に仲たがいをしたふうでもなかったのに、何か事情でもあるのだろうか。
その後も、何度か電話をかけてみたが、彼が出ることはなく、彼からかかってくることもなかった。彼との記憶がないにも関わらず、有希には、そのことが不満だった。
倒れた恋人を、病院に置き去りにして帰ったまま、連絡もくれないなんて、ずいぶん冷たいではないか。自分は、彼にとって、その程度の存在だったのか……。
有希には、彼以外に誰かと付き合った経験がないので、正直なところ、こういうときに、恋人が、どういう態度を取るのが一般的なのか、よくわからない。だが、やはり普通は、倒れた相手を心配して、家まで付き添ってくれるとか、そうでなくても、連絡くらいはくれるべきだ。
有希が病院で目を覚ましたときの彼は、とても心配そうにしていたし、優しそうに見えたのに……。いつの間にか有希は、彼のことばかり考えていた。
その日の放課後、有希は、フォレストランドというテーマパークの中にあるレストランに向かっていた。「伸くん」がそこで働いていて、有希がアルバイトの面接に行って出会ったということは、母から聞いた。
連絡をくれないならば、自分から会いに行けばいいだけだ。小さい頃から有希は、思い立ったら、すぐに行動に移さなければ気がすまない質なのだ。
広い店内は、客がまばらだった。
「いらっしゃいませ」
入ってすぐのテーブルに座ると、ポニーテールのウェイトレスがやって来た。
「アイスコーヒーください。それと」
有希が言う前に、彼女が言った。
「安藤主任ですか?」
「えっ?」
彼女は、あっけらかんと言う。
「ごめんなさい。違いました? この前も、お母さんといらして話されてましたよね」
「あっ、そうです。安藤さんをお願いします」
しばらくして、カウンターの横から姿を現した彼は、いったん足を止めて、ため息をついたように見えた。アイスコーヒーを載せたトレーを持って、テーブルまでやって来る。
「お待たせしました」
有希は、テーブルにグラスを置く彼の顔を見上げる。病院で見たときよりも、頬がこけ、顔色もすぐれないような気がする。
グラスの横に、ガムシロップとミルクを置いた彼は、立ったまま、問いかけるような目で有希を見た。
「冷たいな」
有希の言葉に、彼はしれっと返す。
「アイスコーヒーですから」
「もう! どういうつもり?」
彼は黙ったまま、外国人のように肩をすくめる。
「はぐらかさないでよ。僕の言いたいこと、わかってるくせに。『伸くん』」
彼の顔色が変わった。
「そういう話は、ここでは困ります」
「じゃあ、場所を変えて話す?」
「仕事中ですから」
あくまで他人行儀に話す彼に、だんだん腹が立って来た。