37,懐かしい香りと電話と欲求に勝てずに教えたこと
「じゃあ、お願いします」
残りはまた後で。そう思ってボールペンにキャップをしたとき、背後で声がした。
「すいません」
「あぁ、はい」
アルバイト希望の高校生か。胸ポケットにボールペンをしまいながら、伸は振り向いた。
あ……!
伸の目が、高校生の顔に釘づけになる。高校生も、驚いたように伸の顔を見ている。
私立高校のブレザーの制服を着た彼は、今風の洒落たヘアスタイルをしている。ほっそりとした体形に、色白の小さな顔。
だが、その顔は、この十数年、伸が一日も忘れたことのない、行彦に瓜二つだ。
「君は……」
いや、そんなはずはない。行彦は、もうずっと昔に……。伸は、動揺を隠して言う。
「君は、アルバイトの」
「あぁ……」
高校生の、男にしては、やけに赤い唇から声が漏れた。大きく見開いた目は、伸の顔をとらえたまま動かない。
「君、大丈夫?」
口ではそう言いながら、内心、自分こそ大丈夫かと思う。心臓の鼓動が早まり、どうやって息をすればいいのかわからなくなった。
「……思い出した」
そうつぶやいたとたん、高校生の体が、ぐらりと傾いた。
「君!」
あわてて体を支えようと近づいた伸に、彼は、しがみついて来た。そして言ったのだ。
「伸くん」
えっ!? その瞬間、懐かしいあの香りに包まれた。伸も、思わず言っていた。
「……行彦?」
「伸くん!」
そのとき、ドアが開く音がした。二人は、あわてて離れる。
入って来た中本が、呑気な声で言った。
「どうかしました?」
「あ、いや」
「主任、団体客の予約の電話なんですけど、ちょっと出てもらっていいですか?」
「わかった。今行く」
電話を終えて戻ると、彼の姿が消えていた。待ち構えていたらしい中本が、呆れたように言う。
「あの子、気分が悪いとか言って、そそくさと帰って行きましたよ。思ってたのと違って、バイトする気が失せたんですかね。
まったく、今どきの若いやつは……」
狐につままれたような気持ちになったが、在庫チェックのバインダーの間に、履歴書が挟まっているのを見つけた。
中本が立ち去った後に見ると、住所や、西原有希という名前とともに、携帯電話の番号も書かれている。貼られている証明写真の顔は、確かに、さっきの彼のものだ。
その夜、自宅に戻ってから、彼に電話をかけた。
「あの、パークレストランの安藤ですが、西原、有希くんですか?」
「伸くん!」
いきなり、うれしそうな声がはじける。
「えぇと……」
「そのしゃべりかた。やっぱり伸くんだ。僕は行彦だよ」
「でも……」
やはり頭が混乱する。これはいったい……。
言葉を継げずにいる伸に、彼が言った。
「伸くん、今、一人?」
「あぁ、うん」
さらに、探るように言う。
「……結婚、とかは?」
「していないよ。今は、フォレストランドの近くのマンションに一人で住んでいる」
三十歳になったのを機に、さすがに、このまま母と同居を続けるのもどうかと思い、独立したのだ。
「これから、そっちに行ってもいい?」
「えっ。……でも、もう遅いよ。お母さんが心配するだろう」
履歴書によれば、西原有希も、母親と二人暮らしだ。
「大丈夫だよ。ママは、今の母親は、夜は仕事でいないし、そこまでタクシーで行くから」
「本当に大丈夫?」
彼は、笑いを含んだ声で言う。
「本当に大丈夫だから、住所を教えて」
こんなことをしていいのかと迷いつつも、疑問を解消したい欲求に勝てず、伸は、マンションの住所を教えた。
電話を切った後、伸は、部屋の中を見回した。物は少ないし、母の、飲食に携わる者は普段の生活から清潔にという教えを守って、日頃から、きちんと片付けるよう心がけている。
だが、装飾品の一つもない一人暮らしの部屋は、あまりにも殺風景ではないか。そういえば、客に出すような菓子も何もないが……。
そんなことを思いながら、バタバタと、お湯を沸かしたりコーヒーカップを出したりしていると、思いのほか早く玄関のチャイムが鳴った。