33,幸せな気分で目覚めたことと少しだけ安心したことと思いがけない訪問者
――伸くん。僕の前に現れてくれてありがとう。伸くんのおかげで、僕は、長い長い孤独から解放された。
伸くんに出会えて幸せだった。ずっと愛しているよ。
それが、本当に行彦が自分にかけてくれた言葉なのか、ただの夢なのか、伸には判断がつかない。ただ、その言葉のおかげで、病院のベッドで目覚めたとき、体がひどく疲れているにも関わらず、とても幸せな気分に包まれていた。
母は、伸が目覚めたと気づくなり、声を上げて泣き出した。心配をかけてしまったことを申し訳なく思ったし、生きて、ここに戻って来られてよかったと思った。
とはいえ、やっぱりまだ、行彦が幽霊だったなんて信じられないのだが。行彦の肌の感触や体の反応が、あまりにもリアル過ぎて。
伸が、洋館の角部屋で発見されたときの様子を聞いた。正確には、母が救急隊員に聞いた話を、また聞きしたのだが。
天井に蜘蛛の巣が張り、破れたカーテンの下がる部屋の汚れたベッドの上で、伸は、埃にまみれて倒れていたという。病院を出たときのままの服装で、床に、持って出たショルダーバックも落ちていたと。
それを聞いて、少しだけ安心した。あのとき、行彦と何度も愛を交わしたので、全裸のまま発見されたのだとしたら、さすがに恥ずかしいと思ったから。
なぜあんなところに行ったのかと聞かれたが、それについては、何も覚えていないと答え、それで押し通した。どうせ伸は、精神のバランスを崩していると思われているのだから、誰も疑うことはないだろうと思ったし、実際、深く追及されることはなかった。
伸のせいで開始が遅れていた解体工事も、数日後には始まったという。事件性はないとされつつも、警察に届け出ていたために、一応の現場検証や、作業員への聞き取りが行われたのだという。
誰も伸を責めたりはしなかったが、たくさんの人に迷惑をかけてしまったことを知り、申し訳なく思った。
入院中、思いがけないことがあった。病院で目覚めてから数日後のことだ。
少しずつ食べられるようになり、わずかずつではあるが、体力が回復しているのが、自分でも感じられるようになっていた。
それは、そろそろ早い夕食が配られるという時間だった。人の気配を感じ、入り口に目をやると、制服姿の松園が立っていた。
思わず起き上がって身構える。まさか、こんなところまで嫌味を言いに来たわけではないと思うが。
松園は、無言のままベッドのそばまでやって来た。
「な、何?」
それには答えず、手に持っていた紙袋を差し出す。
「翠月堂の和菓子」
受け取りながら答える。
「あっ。ありがとう」
「和菓子、苦手だったか?」
「そんなことは、ないけど」
それよりも、松園がやって来た理由がわからない。
じっと見ていると、松園が、ぼそっと言った。
「見舞い。っていうか、謝りに来た」
「……え?」
数秒間固まった後、ふと気づいて言う。
「そこの椅子」
「あぁ」
松園は、畳んであったパイプ椅子を広げて、どかりと座った。伸は、紙袋を両手で持ったまま、松園を見つめる。
やがて、松園が口を開いた。
「親父に聞いたよ。お前が、あの洋館で倒れてたって」
松園の父親は、再開発事業のスポンサーでもあるから、そんな情報も伝わるのだろう。
「お前がおかしくなったの、俺が、あそこに肝試しに行かせてからだよな」
「おかしくなったって……」
人の目には、そう見えていたのかもしれないが、そんなに自分は、おかしかったのだろうかと思う。
「それって、やっぱり俺のせいかなって」
「いや、そんな」
もちろん、松園が、嫌がらせで、伸を洋館に入らせたことはわかっている。でも、そのおかげで行彦に会うことが出来た。
悲しい結末にはなってしまったが、行彦に会って、二度と出来ないような素晴らしい経験をすることが出来た。松園には、むしろ感謝したいくらいだ。
それを今、ここで話すことは出来ないが。