30,伸が感じた違和感と行彦が悟ったことときらきらと輝く瞳
そんな馬鹿な。やっぱり、言っている意味がわからない。行彦は、ここにこうして、俺の手を握って泣いているではないか。
伸は戸惑いながら、泣きじゃくる行彦を見下ろす。
しばらくの間、泣いていた行彦は、何度か深い呼吸を繰り返した後、さらに話し出した。
「その後のことは、よくわからない。気がつくと僕は、いつものように、この部屋の、このベッドの上にいた。
初めのうちは、窓から飛び降りたことも、悪夢か幻覚の一部だと思っていたんだ。でも、お母さんが部屋に入って来て……。
お母さんは、よろよろとベッドのそばまで来ると、床にうずくまって泣き出した。僕は心配になって声をかけたんだ。『お母さん、どうしたの?』って。
だけど、お母さんは……」
こぼれた涙を、伸はぬぐってやる。
「お母さんは、ちっともこっちを見てくれない。まるで、聞こえていないみたいに。それは、何度話しかけても同じだった。
だから僕は、ベッドから下りて、そばまで行って、お母さんの肩に手をかけようとしたんだ。そうしたら……。
手が……お母さんの体をすり抜けた。触ることが出来なかった。何度やっても!」
行彦は、拳を口に当てて激しく泣き出した。伸は、頭の中は混乱したまま、ほとんど無意識のうちに、行彦の髪を撫でる。
次に行彦が口を開くまでには、ずいぶん時間がかかった。
「……お母さんには、僕が見えていないし、僕の声も聞こえない。僕は、お母さんに触れることが出来ない。
それで、だんだんわかってきたんだ。そうなってしまったのは、多分、僕とお母さんがいる場所が違うからだって」
「……え?」
行彦が、伸の顔を見つめる。
「お母さんは生きている人の、僕は、死者の場所にいるからだって。やっぱり僕は、本当に窓から飛び降りて死んだんだ。
そう思って見てみると、黒いワンピースを着たお母さんは、ひどくやつれていて、とても辛そうに泣いている。それは、僕が死んだせいなんだって。
僕は、発作的に窓から飛び降りたことを、ひどく後悔した。大好きなお母さんを悲しませることになってしまった……」
何か違和感があった。だが、それがなんだかわからないでいるうちに、さらに行彦は、先を続ける。
「その後も、お母さんは、何度も部屋にやって来ては泣いていたけれど、いくら僕が話しかけても、気づいてはくれなかった。
僕も泣いた。悲しくて、寂しくて、お母さんに申し訳なくて。
そして、いつしかお母さんは、やって来なくなった。僕が死んだ後も、ときどき部屋の掃除をしてくれていた、家政婦の芙紗子さんも。
それから、長い長い時間が経った。無遠慮に部屋に上がり込んで来る人たちを見て、この洋館には、もう、お母さんも芙紗子さんもいないんだと悟ったよ」
行彦は、疲れたように、ふぅ、とため息をついた。伸は言う。
「無理に話さなくていいよ。少し休んだら?」
行彦は、わずかに首を振ってから、ゆっくりと上体を起こし、ブランケットを体に引き寄せた。
「大丈夫だよ。もう少しだから聞いてほしい」
伸は仕方なく、黙ってうなずいた。本当は、自分のほうが聞くのが怖いのかもしれないと思う。
「いくら僕が死んだからと言って、お母さんが黙っていなくなるはずはないから、きっと何か事情があるんだと思っていた。時間が経つにつれて、おそらくは、お母さんも、もう生きていないのではないかと……。
それならば、死者同士、会うことが出来るんじゃないかと期待したけど、そういうことにはならなかった。僕は死んでさえ、この部屋から出ることが出来ないでいるし。
僕は永遠に、この部屋で、一人ぼっちでいなくてはならないんだ。それはきっと、お母さんを苦しめた僕に対する罰だ。
そう思って、半ばあきらめていた。だけどあの日、伸くんがやって来たんだよ」
行彦が、濡れた瞳をきらきらと輝かせて伸を見た。