26,くい違う話とそっと病院を抜け出すこと
「あのとき、救急車を見送ったきりだったから、どうしているかと気になって」
伸は頭を下げる。
「あのときは、ずうずうしく訪ねて行った上に、迷惑をかけてすいませんでした」
立花は、静かに首を横に振った。
「そんなことはいいのよ。ただ、安藤くん、洋館のことをずいぶん気にしているようだったから」
じっと見つめる伸に、立花は、ちょっと微笑んで見せてから話し始めた。
「あのね、あの洋館は、何年も前から、本当に誰も住んでいないのよ。それは今回、業者の人が中を調べて再確認済みなの。
入り口が壊れていて、人が入ったり、ホームレスが生活していた形跡はあるけれど、それだけよ」
「でも」
そんなはずはない。現に、行彦が暮らしているではないか。
さえぎろうとした伸に、立花は、うんうんとうなずいてから、さらに言う。
「あの洋館は、響子さんが亡くなったときに、私が相続というか、便宜上、管理人になったのよ。でも、離れたところに住んでいて、手が行き届かないし、若者が入り込んだりして、地元の人から苦情が出ていたの。
それで、なんとかしなくちゃいけないと思いながら、処分するにも、お金がかかるし、思いあぐねていたのよね。そんなときに、再開発の話を打診されて」
立花が一呼吸置いたところで、すかさず伸は言う。
「だけど、行彦くんはどうするんですか? 立花さんと一緒に暮らすんですか?」
「そのことだけど……」
立花は、乱れてもいない前髪を指で直してから、言いにくそうに口を開いた。
「安藤くん、やっぱり、何か勘違いしてるんじゃないかしら。それか、人違いかもしれないわね。
響子さんの息子の行彦くんなら、本当に亡くなっているし、二人とも桐原家のお墓に入っているわ」
そんな馬鹿な……。
「失礼だけど、安藤くん、精神的に疲れているんじゃ……」
「そんなことないです!」
思わず、声が大きくなってしまった。立花が、落ち着かせようとするように、掛布団の上から、そっと伸の膝の辺りを手で押さえる。
「あのね、今日は報告があって来たのよ。今言ったような経緯があって、ようやく明日から、洋館の解体工事が始まることになったの。
安藤くんには、是非伝えておきたいと思って」
その日の夜、消灯時間を待って、伸は、病衣から私服に着替えた。かろうじて午後九時台までは、病院前のバス停から駅行きのバスがあることを、昼間のうちに調べてある。
今の体調では、洋館までの距離を歩いて行くのは困難だと判断した。駅からは、タクシーに乗ろうと思っている。
財布を入れたショルダーバッグを肩にかけると、そっと病室を抜け出し、夜間出入口から外に出た。
駅までは、問題なく着いた。タクシー乗り場で、ドアを開けてくれたタクシーに乗り込みながら、運転手に告げる。
「植物園まで行ってください」
初老の運転手が、バックミラーを見ながら言う。
「植物園って、山の麓の?」
「はい」
運転手は、なかなか発車しようとしない。
今度は振り返って、伸の顔をまじまじと見ながら言った。
「植物園なんて、この時間とっくに閉まってるだろう? なんの用だい?」
伸は、適当に言葉を並べる。
「昼間行ったときに、忘れ物をしちゃって。明日の授業で使うんです」
「そうかい」
運転手は、不審そうな顔をしながらも、前に向き直って発車した。
「ありがとうございました」
運賃を渡し、降りようとする伸に、運転手が言った。
「真っ暗だけど、大丈夫かい?」
通りには街灯があるものの、木々の奥に向かう、植物園に続く遊歩道の先は、闇に溶けている。だが伸は、ショルダーバッグのファスナーを開けて、小ぶりな懐中電灯を取り出して見せた。
「これがあるんで」
病院内のコンビニを探し、幸運にも見つけたものだ。洋館の中を進むときのために買った。
だが、運転手は、さらに言う。
「なんなら、忘れ物を取って来るまで、ここで待っていようか?」
とても優しい人だ。ありがたいが、それは困る。