19,虫の良すぎる話と乳児と揺れ動く気持ち
その頃、資産家だった両親はすでに亡く、響子は莫大な遺産を受け継いでいた。心の傷を癒すため、大学を辞めて、幼少の頃から世話をしてくれている家政婦の芙紗子とともに、遺産の一つである、**市に建てられた洋館に移り住むことに決めた。
志保から電話がかかって来たのは、ようやく洋館での暮らしに慣れて来た頃だ。
「先輩、お久しぶりです」
響子は訝しむ。あんなことがあったというのに、今頃、なんの用だというのだろう。
「どうしたの?」
つい素っ気ない言い方になってしまったが、それにかまわず、志保は続ける。
「私、赤ちゃんを産んだんです」
中絶するとばかり思っていたので、意外だった。だが、なぜ、それを私に?
志保は、いつも大学でそうしていたように、甘ったるい口調で言った。
「先輩に、お願いがあるんです」
響子は、内心呆れる。私に、ひどいことをしておいて、今さら、よくもぬけぬけとそんなことを。
だが、志保は、響子の無言にも怯むことなく話し始めた。
それは、控えめに言っても、虫の良すぎる話だった。はっきり言ってしまえば、無神経極まりない。
両親の反対を押し切って子供を産んだものの、体調とともに精神のバランスを崩し、現在、入院中なのだという。それで、しばらくの間、子供を預かってほしいと言うのだ。
そんな勝手な話は聞いたことがない。引き受ける義務などない。だが、次の一言に、響子の心は揺れた。
「とにかく、照彦さんの赤ちゃんを見に来てくださいよ。パパにそっくりなんです」
薄暗い病室のベッドで、志保は、胸に乳児を抱いていた。普段は、その子の世話をしているという、志保の母親の姿は見当たらない。
志保は、響子が想像していた以上に痩せていて、憔悴しているように見える。あまり重く受け止めていなかったのだが、体調と精神のバランスを崩しているというのは、嘘ではないらしい。
「抱いてやってください」
志保が、腕を伸ばしてこちらに差し出すので、半ば仕方なく、その子を受け取る。小さく頼りなく見えるけれど、それなりに重みがあり、とても温かい。
正直なところ、生まれて間もない乳児が、照彦に似ているのかどうか、響子にはわからなかった。ただ、この子に照彦の血が流れているのだと思うと、胸を締めつけられる。
私が愛した照彦は、もういないのだ。この子が自分が産んだ子であったなら、どんなによかっただろう……。
中絶すると嘘をついて子供を産んだことを、両親はひどく怒っている。一日も早く養子に出すように言われているが、とてもそんな気にはなれない。
だが、自分はこんな状態で、子供の面倒を見ることが出来ない。頼れるのは響子しかいない。
せめて自分が退院し、仕事を見つけるまでの間、この子を預かってもらえないだろうか。志保の「お願い」とは、そういうことだった。
納得は出来ない。自分が恋人を奪った相手に、その子供を押しつけるなんて、正気の沙汰とは思えない。。
ほかに頼る相手がいないのというのは本当かもしれないが、もしも自分が断っても、子供は養子に出され、新しい両親のもとで暮らすことになるだけだ。志保に育てることが出来ないのだから、それもやむを得ないだろう。
でも、そうなったら、二度とこの子とは……。それに、自分の判断一つで、この子の運命が変わってしまうかもしれないのだ。
揺れ動く気持ちを隠して、響子は言った。
「こんな重大なこと、即答は出来ないわ。一度、帰って、よく考えてみたいの。返事をするのは、それからでもいい?」
志保の顔に笑みが広がる。
「もちろんです。いいお返事を待ってます。よかったね、ボクちゃん」
志保は、乳児の頬に、ちゅっとキスをした。
事の経緯を知っている芙紗子は、当然のごとく反対した。
「響子さんには関係のないことです。志保さんのご両親のおっしゃる通りにするのが一番だと思いますよ。
今後、志保さんには関わり合いにならないほうがよろしいと存じますが」