182,牧田たか子の思いがけない話とお店を閉めることと有希の意外な反応
「つかぬことを伺いますが、この絵の作者をご存知でしょうか」
いったい何が言いたいのかと見つめていると、彼女はバッグを開けて、取り出した名刺を差し出した。
「私、こういう者です」
名刺には、「牧田たか子 白岡美術館学芸員」と書かれている。驚いて顔を上げた伸に、彼女が言った。
「この絵の作者についてご存知のことがあれば、是非教えていただきたいのですが」
なんと答えていいかわからず、思わず潤子のほうを見ると、さっきから様子をうかがっていたらしい彼女がこちらにやって来て、笑顔で尋ねた。
「何かご用でしょうか」
伸は、今もらった名刺を潤子に手渡した。牧田は、今伸に話したことを、もう一度、潤子に向かって話す。
潤子が、伸に向かって言った。
「ドアのプレート、『準備中』にして来てちょうだい」
ちょうど今は、牧田以外に客はいない。
「どうぞ召し上がってください」
牧田をうながしながら、潤子は話し始めた。
「絵の作者のことはよく知っていますが、どういうお話か伺ってもよろしいでしょうか」
牧田が、テーブルの向かい側を指して言った。
「よろしければ、お座りになりませんか?」
「それでは失礼して」
椅子に座りながら、潤子は伸を見上げる。
「あなたも座りなさい」
「当美術館では、新旧プロアマ問わず、才能ある画家の作品の展示を行っています。率直に申し上げて、この絵を拝見して、大変魅力と才能を感じました。
この絵の作者と直接お話ししたいのです。もし可能であれば、絵の展示なども検討させていただきたいと思っているのですが」
伸は、思わず潤子と顔を見合わせた。とても素晴らしい話ではあるが。
潤子が、言葉を選ぶように、ゆっくりと話す。
「私どもは、この絵の作者のことは、とてもよく知っています。ですが、精神的な理由から、彼が家族以外の方とお会いしたりお話したりすることは無理だと思います」
牧田が身を乗り出す。
「それは、精神的なご病気をお持ちだということですか?」
「そうではありませんが、心に傷を負っていて、外に出ることも、他人と顔を合わせることも出来ない状態なんです」
「そうですか……」
少しの間、考えるような顔をしてから、さらに牧田は言った。
「直接お会い出来ないのであれば、どなたか窓口になっていただける方はいませんか? ほかの作品があれば、是非拝見したいのですが」
伸と潤子は、再び顔を見合わせる。これは、有希にとって大きなチャンスなのではないだろうか。
牧田は言う。
「失礼ですが、お二人は作者のことをよくご存じだとおっしゃいましたね。よろしければ、お二人からこの話を伝えていただけないでしょうか」
その後、牧田は、コーヒーとともにケーキを完食し、くれぐれもよろしくと念を押して、店を出て行った。伸が、彼女が出て行ったドアを呆然と見つめていると、後ろで潤子がつぶやいた。
「びっくりしたわね」
伸は振り返る。
「本当に……」
まだ胸がどきどきしている。
「でも、すごいじゃない?」
「うん……」
立ち尽くしたままの伸に、潤子が言った。
「ねぇ。今日はもう、お店閉めちゃおうか」
「えっ。いいの?」
「だってもう、そんな気分じゃないもの。このこと、早く有希くんに教えてあげましょうよ。
ちょうどプレートも『準備中』にしてあることだし」
そう言うなり潤子は、さっさと歩いて行って、ドアに鍵をかけてしまう。
「はぁ……」
三人で、リビングのソファに腰かけている。話を聞いた有希の反応は、意外なものだった。
「白岡美術館?」
「そうだよ」
名刺に目を落としていた有希が、顔を上げて言った。
「そこなら、昔行ったことがあるよ」
「え?」
「高校のとき、生野と一緒に行った。あいつが引っ越す前に」
「へぇ。そうなのか……」
「住宅街の中にひっそりと建っていて、小さいけど、とても雰囲気のいい美術館だよ」
潤子が言う。
「それで、有希くんはどう思う? とってもいいお話じゃない」
「でも……」




