17,涙をこぼしながら激しく求めて来ることと母の話と突然の来客
行彦は、目を伏せて言った。
「もう、ずいぶん傷んでいるからね」
「でも」
体ごと行彦のほうを向くと、顔が間近に迫る。
「ここを壊したら、行彦はどうするの?」
「それは……ここには、もういられないね」
「どこかに引っ越すの?」
視線が合ったかと思うと、行彦の目から、見る間に涙があふれ出した。
「伸くんと離れたくない」
そんなに遠くに引っ越すのか。そう思ったが、口に出す前に唇を塞がれた。
行彦は、ぽろぽろと涙をこぼしながら、激しく求めて来る。
部屋から出られなくなったショックと、母に心配をかけている申し訳なさで、泣いてばかりいる行彦に、母は優しく言った。
「そんなに悲しまないで。学校がすべてじゃないし、家にいたって出来ることはたくさんあるわ。
実は、お母さんも大学を中退しているのよ」
それは、行彦が初めて耳にする話だった。そして母は、今まで、あまり語ることのなかった、自身の青春時代の話を聞かせてくれたのだった。
「大学時代、社会人の照彦さん、つまり、あなたのお父さんと付き合っていたのよ。照彦さんは、私が大学を卒業したら結婚しようって言ってくれていたの。
でも、前に話したように、照彦さんは、海外出張の帰りの飛行機が墜落して亡くなってしまった。
ショックだったわ。毎日、とても楽しくて幸せだったのに、突然、奈落の底に突き落とされたようだった。でも」
そう言って、行彦の顔を優しい目で見つめる。
「お腹の中に、あなたがいたの。照彦さんは、もういなくても、照彦さんの血を分けた、あなたがいる。
この子さえいれば、私は、この先も幸せに生きて行くことが出来る。これからは、この子と一緒に生きて行こう。
そう思って、大学を中退して、芙紗子さんと、ここに引っ越して来たの」
行彦は尋ねる。
「お母さんは、僕のために大学を辞めたの?」
「そうじゃないわ」
母は微笑む。
「もともと、卒業したら、すぐに結婚するつもりだったし、そうでなくても、亡くなった両親の遺産があったから、就職するつもりはなかったのよ。
だから、大学を卒業するメリットをそれほど感じなかったし、卒業まで通い続けるより、早く静かな生活を始めたかったの。
行彦がいなくても、そうしていたと思うわ」
行彦が、膝の上で握りしめた手を、母は、ぽんぽんと優しく叩く。
「私一人だったら、寂しくて、今のあなたみたいに、泣いてばかりいたかもしれないわ。でも、あなたがいたから、辛いことなんて何もなかったし、毎日、楽しかった。
それは、今も変わらないわ。行彦、あなたには本当に感謝しているの。
お母さんがついているから大丈夫。何も心配いらない。あなたは、ただいてくれるだけでいいのよ」
「お母さん……」
泣くまいと思ったのに、涙があふれる。お母さん。僕の大好きなお母さん。
相変わらず、部屋から出ることが出来ないし、ときどき悪夢も見る。それでも、母と静かに過ごす日々は、行彦に安らぎをもたらした。
毎日、部屋で一緒に食事をし、母が、そばで刺繍や編み物をするのを眺めたり、本を読んだりして過ごす。
ときには、窓から見える景色を絵に描いてみたり、芙紗子が部屋を掃除しに来るときは、恐縮されながら、それを手伝ったりもした。
そんなある日、滅多に来客のない洋館に、タクシーがやって来た。窓から、門の外に停まったタクシーを見て、行彦は、にわかに不安を覚える。
ベッドに腰を下ろして、身を硬くしていると、玄関のチャイムが鳴るのが聞こえた。三階のこの部屋からでは、階下の様子はわからないが、おそらく、芙紗子が対応に出るのだろう。
大丈夫。来客くらいで動揺することはない。
そう思っていたのだが、数分後、部屋の外の廊下で物音がした。誰かがこちらに近づいて来るようで、母のものらしい話し声も聞こえる。
いったい何が? 嫌な予感に、胸の動悸が早まる。
「やめて!」
母が叫ぶのが聞こえたのとほぼ同時に、勢いよくドアが開いた。