73:絆
「……ラ、ライ……グリッド……!!」
「あははは、ははっ……ハハハハハハハッッッ!!!」
ライグリッド・モリアデスは、両腕を広げ声高に笑う。一か所に集まっていた群衆が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う中、彼は怒り交じりのダミ声で話し出した。
「やるじゃないかっ! 良いね、君の気概を感じたよ、ソフィ!!」
「…………」
「初めてだ、こんな痛み、屈辱……そして高揚感!」
ライグリッドは未だ右足に刺さっていたナイフを引き抜いた。鮮血が飛び散る中、彼は笑顔で刃の側面を舐め取る。
「動けない状態で崖から落とすなんて酷いじゃないか。僕がとっさに壁を破壊して中に侵入してなきゃ、どうなってたか」
「は……? そ、そんなことって……」
「わけないよ、炎のお姉さん。だってそこから、一直線に天井を突き破ってここまで来たわけだからねぇ」
「ま、マジ……かよ……」
ザンが後ずさった。口元を押さえたフレーは、顔面蒼白だ。
「嘘……噓でしょ……だって、あんなにっ、頑張って……!」
「嘘なものか。だって僕はこうしてピンピンしてるよ。足の傷だって、もう痛みに慣れてきたんだ」
ライグリッドは里全域を見渡した。まるで品定めするように、舌なめずりをしながら。
「さあ、殺してあげるよ……」
確かな殺意を漲らせ、人外は嘲りの表情を浮かべる。
「必要とあらばこの里の人間にも容赦はしない! 弱者の分際で首領たる僕に逆らうなんて、許されないことだからね!」
「ライ、お前は……!!」
「あぁ父さん? 安心して、二人は最後に回してあげるよ……」
ライグリッドの視線は正面からエーネを捉えていた。
「まずは見ているがいいさ。一度見限った娘が、無残に殺される様をねっ!!」
「エーネッッ!!」
フレーとザンが同時に叫ぶ。身動きの取れないマインドも、必死に彼女に手を伸ばしていた。
ライグリッドの拳が迫る。皆が絶望に打ちひしがれる、その一瞬前に。
「ライ……何言ってるんですか?」
エーネは静かに、たしなめるように問うた。
風そのものだった彼の姿が、動きを止めたことで再び露わになる。
「……は?」
「首領だとか言ってるけど……何の権利があって、私を殺そうとしてるの?」
我ながら、やや無理のある低音だ。正直言って心臓が爆発しそうである。この高鳴りや発汗は、普段ならばすぐさま看破されてしまうのだろう。
しかし、今の彼には気付くことができない。生まれて初めて……冷静さを欠いているからだ。
「……何が言いたいの、ソフィ? 最期だってのに随分図が高いじゃないか……みっともなく命乞いでもしたら、楽に殺してあげるってのに」
「…………ふっ」
守護者グレイザーが鼻で笑った。その様子を見て、ライグリッドはこめかみに青筋を立てる。
「図が高い……?」
エーネはゆっくりと彼の言葉を復唱した。
「それはこっちのセリフです。この里の長に向かって、どういう口の利き方なの?」
「お、長……!?」
「さっき何が起こったか、忘れたわけじゃないですよね」
エーネは崖の方角と、ライグリッド自身を指差す。目を細め、慈愛を込めて言った。
「ライはさっき、負けたじゃないですか。八年前、自分で仕掛けた決闘に」
────改めて僕と戦ってよ。勝利条件は……相手を殺すこと。
「何、言って…………」
────ああ、ちょっとまだ不利かなぁ……じゃあ、この里から相手を突き落とすのも勝利条件だ。
「自分の口で言ってたはずです。相手をこの里から『突き落とした』方が勝ちだって」
「…………!!」
「私はずっと疑問でした。あの戦いの勝者が首領になるって話だったのに、何でライが首領をやってるのか。あの日私は、『自分から』落ちて……まだ勝負が終わったなんて、聞いてないのに」
それはきっと、ライグリッドにとっては些細な記憶だろう。
しかしエーネは覚えている。人生の全てが狂ったあの日に聞いた、一言一句を。
「は、はは……ソフィ、チャンスを上げるよ。今すぐ屁理屈をやめれば、いたぶるのは勘弁してあげる……」
「屁理屈……か。別に、そう思ってもらってもいいけど」
エーネは顎を引く。同じ顔をした少年を、冷めた態度で見据えながら。
「そっちがどう思おうと。言葉で決めた以上、首領は私です……ライ」
「ああ、もう……あああああっ! もうっっ!!」
苛立ちが限界まで達したのか、ライグリッドは頬に爪を立てた。
「突き落とすのも勝手に落ちるのも、同じことだ! 良い気にならないでよソフィ……そんな言い訳で、この僕を止められるとでも!?」
目を剥いたライグリッドが、フレーやザンを順々に見回す。その視線は、逃げ惑う里の者たちさえも捉えていた。
「誰が最も強いか、忘れたわけじゃないよね? 君たちの全力をもってしても、僕はこうしてピンピンしてる。でもさあ、もうそっちは余力が無いみたいだよね?」
「っっ……!」
フレーが息を呑んだ。ザンが無意識に、無いはずの刀を抜く姿勢を取る。
もはや彼とまともに渡り合える者は、一人もいない。
「僕がその気になれば、この里の全員を殺すことだってできる! 炎のお姉さんも、剣士さんも、そこに横たわってる機人さんも、グレイザーも……そしてソフィ、君を始めとした、全てのソールフィネッジの人間をね!!」
「……できますか? ライに」
エーネは厳かに尋ねる。きっと自分は、勝ち誇った顔さえしていただろう。
「契約、約束……言われたことが全て。ライがそれを無視すれば、きっと私たちは簡単に殺される。ライにはその力があります。まごうことなき人外……その言葉は、何も間違ってなかった」
でも、と一泊置き、エーネは不敵に笑って見せた。
「私は首領として……そんな化け物に勝った『強者』として、『弱者』であるライに伝えます。そんなことはやめてほしい、って。もしそれを破れば……どうなるかわかるよね?」
「ぐっ、うう……っ!」
「この里にいる全員の血を浴びたライは、その瞬間からソールフィネッジの首領なんかじゃない。ただの、大量殺人を犯した人間です。その先誰を殺しても、誰を従えても……きっとみんな思うはずです」
ライグリッド・モリアデス。彼こそが、最も契約を蔑ろにし、不徳の限りを尽くす男であると。
「ここにいる誰か一人にでも手を出したら、ライはもう、みんなを従える『モリアデス』じゃない。自分で作った信条で……自分にとどめを刺すんです」
「そ、んな、僕は……僕は、っ……!」
「……今日は湿気が多い日です。でもあの日と同じで、きっと夜は晴れ渡ってる。そして今度こそ、本当に……」
もう声も体も震えてはいない。エーネは深く息を吸い、弟に向けて告げた。
「私の勝ちです、ライ」
ライグリッドは崩れ落ちた。それまでの闘志が嘘のように、無表情に萎んでいく。
「…………は、はは……そうか……」
彼は笑った。今までのどの笑いとも似つかない、寂しく乾いた声だ。
立膝を付き、顔を俯かせるライグリッドがそう言った時。
「僕は……負けたのか……」
フレーはようやく、心から安心することができた。
「ねえ、ソフィ」
「は、はい」
「僕は何で、負けたんだろう」
ライグリッドは突然、沈んだ表情でそんな風に尋ねる。
「……へ?」
先ほどまでの雰囲気はどこへやら、すっかり糸の切れたエーネがそんな気の抜けた声を出した。
「僕は無敵だ。今まで傷一つ付けられたことがなかった。軍務長官は強かったけど……一対一なんて挑んでくるものだから、結局一撃も食らうことは無かった」
「……嫌味ですか?」
「ううん、違う」
じっとりとした目を向ける姉に、ライグリッドは無感情に返す。
「今回だって、大して強い人はいなかった。炎のお姉さんは強力な技を使ってきたけど、防げないほどじゃなかったし。グレイザーが僕の動きに対応したのは驚いたけど、まだまだ詰めが甘い。剣士さんも機人さんも、個々として見たらそこまでだ……」
「…………」
「でもソフィ、君には結局、大した傷を負わせられなかった。もし君を仕留めてさえいれば……その後、苦労することなんてなかったのに」
ライグリッドは上目遣いにエーネを見上げた。そこにあったのは純粋な疑問だ。敗北を知らない少年の、無邪気な……
「僕は……」
「……ら、ライ、血が! 血が止まってません!!」
エーネは彼の足元を見ながら叫んだ。グレイザーに刺された場所から未だに血が流れている。
「ほんとだ。こういう時、どうすればいいんだろうねぇ」
「あああ……血の止め方くらい知っといてください……!」
エーネはおろおろしながらグレイザーの方を向いた。この中で彼が最も重症であり、まだ治療が終わっていないからだろう。
グレイザーは目を閉じ、小さく頷いた。今や逃げ回っていた者たちも足を止め、こちらの状況を注視している。
「本当に優しいね……お嬢ちゃんは」
エーネと面識のあるらしい凛とした雰囲気の女性が、そんなコメントを残した。どうやら彼女は逃げることはせず、場にとどまっていたようだ。
「ライ、じっとしててください」
「え?」
エーネはライグリッドの元にしゃがみ込んだ。患部に手をかざし、祈るように唇を結ぶ。
「あ……」
淡い緑色の光が、エーネの指先を中心に生み出された。万物を包み込むようなその優しいオーラに、誰もが見惚れてしまう。
(何回見ても、綺麗……)
あの温かみと、エーネから感じる思いやりの塊。それはフレーに、いつも立ち上がる力をくれる。
「仲間が、いたからです」
徐々に塞がっていく傷口を眺めながら、彼女は呟くように言った。
「私のために、戦ってくれる人がいたから。長い時を一緒に過ごしたフレーやザン。出会って間も無いけど、街を救うのを手伝ってくれたマインド。それに、前に殺されそうになったグレイザーも……私の仲間が、私を信じてくれたから」
「……仲間……」
「ライって、友達がいないでしょ?」
エーネは穏やかにそう聞くと、オーヴェンたちの方に視線を向けた。
「それにふさわしい人もいたはずです。でもライは、仲間を作らなかった。五人がかりで取り囲む私たちに対して、そっちはずっと一人だった」
「だって、僕は」
「そう、ライは最強です。でもね……想像してみて」
治療を終えたエーネは、少し身を引いて体を起こす。
「最強の自分に人が付いてきたら、もっと最強だと思いませんか?」
ライグリッドは目を見開いた。まるで考えたこともなかったというように、そのまま何度も瞬きをする。
「そんな人たちがいなかったから……私たち弱者が力を合わせて、ライを上回れたんです」
エーネは腹の前で手を組み、慈しむように言った。
ライグリッドは俯いたまま、少しだけ口元を綻ばせる。
「僕は、負けたのか」
先ほどと同じ言葉を、自分に言い聞かせるように。
「僕が知らない内に、君が造り上げていた……」
「……うん」
「弱者たちの、強固な絆の力に……負けたのか」
静寂に包まれたソールフィネッジに、小さな笑い声だけが響いている。彼を知る人間は、きっと誰もが驚いたことだろう。
「あはは……そっか……そっかぁ……」
それはフレーが初めて聞いた……森羅万象を凌駕する恐るべき人外の、人間らしい声だった。
「ソフィ……いや」
彼は訂正し、姉を見上げて微笑んだ。
「立派になったねぇ……エーネ」
「私は……ライの姉さんですから」
運命の双子が視線を交わしたその瞬間。
烈嶺ソールフィネッジは、実に八年ぶりの歓声に包まれた。




