68:決戦 ライグリッド・モリアデス
「俺も、人のことは言えない」
それはソフィが今だかつて聞いたことのない、グレイザーの物静かな声だった。
「俺の人生には……後悔と恐ればかりだ」
彼の表情は見えなかった。しかしその弱々しい声色は、ソフィが目を丸くするのには十分である。
「お前は確かに、リアンに似ている」
「…………!!」
「口調だけだがな」
本当に口調だったのか、と考える間も無く彼は続けた。
「敬語とそうでない話し方が混在している。あいつほど顕著ではないが……ただそれだけで、お前にあいつの影を求めてしまった。そのことは否定できない」
「…………」
「だが、俺がお前を無意識に気遣ってしまったのは、きっと別の理由だ」
ソフィの頭に乗せられた手に、少しばかり力が入る。既に若干痛い。
この痛みこそが、彼の不器用さの表れだった。
「ずっとあいつに、こうしてやりたかった。リアンはお前と違い気丈で、誰からも心配されることは無かったが……きっと本心では、甘えたいと思っていただろう」
そんな話、ゼノイ・グラウズの言葉からは読み取れなかった。彼が……グレイザーだけが、気付いていたのだ。
「病に苦しむあいつに、言ってやりたかった。大声で泣いても良い。俺に全てを委ねてくれて構わねェんだと。だができなかった。ひとえに……恐れたからだ」
グレイザーは息をつく。その場の誰もが微動だにしない。
「俺がそれを言えば、リアンは折れてしまうんじゃねェか。あいつを含め、誰もが受け入れたくなかった……死が迫っているという事実。それが現実のものになるんじゃねェか、と。そして俺は最期の時まで……大切なことを、伝えられなかった」
ソフィの瞳に映るグレイザーが、初めて強大な守護者ではなく、等身大の若者に見えた。
もし違う状況だったなら、思わず口にしていたかもしれない。
(グレイザー……)
それは何だか、とても自然なことに思える。
(やっぱり、リアンさんのことが……)
「今のお前は、かつての俺と同じだ」
グレイザーは語気を強めた。
「後悔を抱え、恐れ、逃げ惑い……そして大切なものを手放そうとしている」
「大切な、もの……」
「フレイング・ダイナは強かった。奴の気迫に圧されもした。だが、生まれながらの化け物じゃねェ。奴は……人外には勝てない」
その言葉はソフィの胸億に突き刺さる。同時に、どうしても言わねばならないことが生じた。
「……そんなのっ……グレイザーだって……!」
「はっ……そうだな。俺たちとて同じ状況だ。今度こそ命を落とすかもしれねェ……それは、俺の中にも確かにある恐れだ」
それでも、と一呼吸置き、グレイザーはさらに手の力を強める。
そろそろ、結構痛い。
「俺には守るべきものがある。民を、そして友を。ここで俺たちが倒れれば……モリアデスは、俺にとっての全てを滅ぼす。お前とてそうだろう」
守るべきもの。自分はいつだって、フレーたちに守られてきたというのに。
「今度はお前が友を守る番じゃねェのか。ここに留まり後悔するのか。全てを賭けて、未来のために戦うのか。今が決断の時だ」
心臓が流れるような鼓動を打つ。以前のような、速く苦しい動悸ではない。
「立て、エディネア・モイスティ」
「…………!!」
「後悔と恐怖を超えろ。その類まれなる魔法で……何もかもを救え」
エーネは笑った。口を覆い、嗚咽を漏らしながらも笑った。
場が静まり返る中、やっとの思いで言う。
「グレイザー……手、痛いです……」
「む……」
グレイザーはおずおずと手を放す。エーネは涙を拭い、彼を見上げた。
「まだその名前で……呼んでくれるんですね」
「まだも何も、俺はこれしかお前の名を聞いたことがない。ダイナやセイヴィアも、お前をこの名で呼んでいるはずだが?」
「……ふふ……」
エーネは立ち上がった。背筋を伸ばし、真上を見据える。
地上を覆う炎の圧を感じた。あれらが軒並み消えた時……今度こそ、自分の全てが失われてしまうだろう。
「そんな風に言われたら……何か、本当にやる気になっちゃいました」
「……そうか」
「だから、グレイザー。改めてお願いします」
エーネは彼に向き直り、そっと手を差し出した。
「私に力を貸してください」
彼は歯を見せて不敵な表情を浮かべる。珍しく、芯から嬉しそうな顔だ。
「言われるまでもねェ」
声の低さも相まって、言いようの無い格好良さだ。ビートグラウズの老若男女が支持するわけである……などという考えは、当然口には出せないけれど。
「俺たちも協力するよ」
カイルが得意そうな顔で言った。
「やばい戦いになりそうだ。さっさと出口をこじ開けて、住民を地下に避難させないとな」
「……はい、ありがとうございます」
「しっかりやれよ……エディネア」
オーヴェンの言葉にこんなにも勇気づけられる日が来るなんて、思ってもみなかった。
「あいつに一泡吹かせて……姉としての矜持を見せつけてやれ」
エーネが覚悟を決めると、いよいよその時が近づいてくる。
「……エディネア、か。それも良い名ね」
「我らが娘よ……もう多くは言わん」
両親は頷き、右目に手をかざす。多分元々の作法とは違う意味での使い方だ。
彼らはモリアデスとして。自分は、フレーたちの仲間のモイスティとして。
「頼んだぞ」
「……はいっ!」
エーネはしゃがみ込み、地面に手をかざした。浅く呼吸しながら、すぐ近くにいる親友たちを想う。
と、背中に少し体重がかかった。思わず声を上げてバランスを崩しかける。
「うえっ……!?」
「おい、しっかりしろ。俺とてお前の体になんざ掴まりたくはねェ」
「ど、どういう意味ですか!? もうっ……!」
(き、聞こえてないよね……心臓がすごく鳴ってるの……)
きっと、これから戦いに挑むからだ。そうに決まっている。
エディネア・モイスティは目を閉じ、全身に力を込めた。
今なら飛べる。不可能を可能に変える、魔法の力を持って生まれたのだから。
────フレー、ザン。私は治癒師になりたいんです。応援しててくださいっ!
そして、今ならきっと……奇跡すら起こせる。
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フレーの体を貫かんと、悪魔の拳が迫り来る。もはや動くこともままならない義兄は、ただ手を伸ばすことしかできない。
(エーネ……)
心の奥で、大切な人の名を呼ぶ。
(後悔は無いよ。私は────)
「…………ん?」
ライグリッド・モリアデスは、誰よりも早く異変に気が付いた。
地表で燃え盛る炎に紛れ、本来ありえないはずの……相反する物質が生み出される、奇妙な音がしていた。
「…………水?」
彼がそう呟くとともに、広場の床が貫かれた。首領が驚愕に目を見開く中、フレーは飛び出してきた人物を認識する。
「……あっ……」
それはまるで、夢のような光景で。
「久しいな、モリアデス」
フレーの眼前に着地したのは、かつてしのぎを削り合った相手だった。あの時よりも薄着で、どこかやつれていて……しかしその闘志だけは一切の衰えを見せていない。
彼の猛禽類のような瞳が、今は何より頼もしかった。
「来たんだねぇ、グレイザー」
「あァ……報いを受ける時だ……!」
守護者グレイザーが言い終えても、水はまだ溢れ続けていた。何かを浮かせるために……その勢いはとどまることを知らない。
「……八年。長いようで、案外短かったです」
「あ、はは……ふふふふっ、うふふふふふっっ……!!」
少女の言葉に、ライグリッドは声を上げて笑う。
地表の誰もが、はるか上空を見上げた。水色のドレスの上に漆黒の外套を纏い、毅然とした表情で身を翻す少女。
高所を恐れ、泣いてばかりいた彼女は……
今は悠然と、空を駆けている。
「ここまでです、ライ……!」
「ああ……ソフィ……っ!!」
長きに渡る因縁が、ついに決着を見せようとしていた。
「立派になったねぇ!! 愛しのソフィ、今度こそ……この僕が! ライグリッドが! その身を骨まで食らい尽くしてあげるよっ!!」
「今も昔も、私はエーネ……エディネア・モイスティですっ!! 今日こそ返してもらいますっ……その手で奪った何もかも、全てッッ!!」




