63:私に似た人
「あの、グレイザー……」
拘束から解き放たれたソフィは、守護者に導かれて牢を出た。捕虜たちの視線を浴びながら奥へと進み……
「いつまでこうしてればいいんですか……!?」
延々と続く長い時間を、二人は物陰に隠れて過ごしていた。
「喚くな、あと少しだ。もうすぐ奴らは食事を摂りに頂上へ戻る。見張りがいないのはそのタイミングしかねェ」
「牢屋から出た時が夜中だったら、もう日が昇るくらいの時間経ってます……」
「……お前、中々に優れた体内時計を持っているな。今がまさにその時間帯だ」
「あ、ありがとう……じゃなくて! だったら牢屋で待ってれば……」
おずおずと言うと、立膝のグレイザーがうんざりした表情でこちらを見下ろす。足を崩していたソフィは、慌てて腕で体を覆った。
「それだと機を逃すだろう。見張りを葬るのは簡単だが、モリアデスには勘づかれるだろうからな。その前に一気に頂上まで上り詰める」
「そ、そんな無茶な……!」
回らない頭で必死に考える。無謀な賭けでしかなかったが、既に牢は破壊されてしまっているのだ。この男に付いていく他無かった。
「そういえば、牢屋から見張りまではだいぶ遠かったですよね。何でいない時間がわかったんですか?」
「そんなもの、気配でわかる」
「そ、そうだった……みんな化け物なんだ……」
羨ましいほどに強いフレーやザンだが、彼らはまだ人間の範疇なのだと実感する。とはいえ、ザンも暗視などの謎の技能を持っていたが……
(ぐ、グレイザーに見られてないよね、私の格好……)
改めて心配になった。度重なる発汗で生地はさらに透け、薄汚れてきている。もしこの姿で男性と接触などしたら、それはもう……
「おい」
「は、はいっ!?」
「甲高い声を出すな。見張りが消えた……今が好機だ」
グレイザーの言う通り、通路を塞いでいた二人がいなくなっている。
彼らはソフィと同じくらいの年齢だった。もしかしたら学校の同級生だったかもしれない。
「進むぞ」
「……あ、待ってください」
ソフィは少し捲れたグレイザーのくるぶしを見ながら言った。
「ここ、まだちょっと傷が。じっとしてて」
「…………」
治療を終えたソフィは、大股で移動するグレイザーに追従する。
慎重に階を上がると広い場所に出た。広いといっても、通路は大した幅ではない。
代わりに左右には多くの牢が並んでいた。その全てで、ボロボロの服を着た捕虜たちが座り込んでいる。生気を失った目で格子を見つめていた。
「……っ……」
「無視しろ。解放しても邪魔になるだけだ」
「……は、はい……」
無言で歩くグレイザー。彼らの視線がソフィたちに刺さる。恥ずかしさを覚える以前に、全身にのしかかる重い空気に心を抉られた。
それにしても酷い臭いだ。何日も……下手したら十数日ここに放置され、入浴すら許されていない彼らは酷く汚れてしまっていた。まだ日の浅かったグレイザーは、多少傷が残っていた程度でその容姿にみすぼらしさは感じられない。しかし彼らはもはや助けなど期待できぬ状態で、ずっとここに閉じ込められているのである。
「ぐ、うっ……!」
「あっ……」
ソフィが通り過ぎようとした牢で、男性が呻き声を上げた。思わず足を止める。
年の頃は三十前後だろうか。立派な髭を蓄えた彼は、腹部の大きな傷を押さえ苦しそうに喘いでいた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「おい……!」
グレイザーの呼びかけはソフィの耳には入らなかった。男性の牢の前にしゃがみ込んだのは、ほとんど反射による行動だ。
「ひ、酷い怪我……!!」
近くで見ると、それは見るも無残な光景だった。腹部の肉が一部抉り取られ、血が固まっている。息をするのもやっとという状況らしい。しっかり命を繋いでいるのは、彼の持ち前の強さゆえだろうか。
きっとこの男性は最後まで懸命に戦ったのだろう。雷のように迫るライグリッドに、再起不能になる一撃を食らわされるまで、必死に……
「ごめんなさい……」
ソフィは牢の中に手を伸ばした。男性は虚ろな目でこちらを見上げ、何かを言いたそうに口を動かす。
「せめて傷を治させてください。もう少しだけこっち寄れますか……?」
「お前、状況がわかっているのか」
後ろに立ったグレイザーが低い声で凄んだ。彼の物言いからは、以前よりもさらに強い苛立ちを感じる。
「魔法には制限があるんだろう。ダイナのような無尽蔵の力を持っているとは思えん。ここぞという時のために温存を────」
「どうせ私なんて、水をかけるくらいしかできません……! あの時だってそうだった……」
「違う、お前の水は……!」
「すみません、グレイザー。私に怒るのももっともです。でも……」
ソフィは目に涙を貯め、声を詰まらせて言った。
「でも、放っておけない……! 自分が助かるために怪我した人を見捨てるくらいなら……私は、今ここで死んだ方がマシです!」
「…………っ」
男性は緩慢な動作でソフィに近づいてきた。目を瞑り、彼の腹部に手を当てる。
ゆっくりと癒えていくその傷を眺めながら、グレイザーは小さくこぼした。
「愚かな……力などいくらあったとて、奴の前では足りんと言うのに……」
その時。しきりに何かを言おうとしていた男性が、ようやくそれを形にする。
「あり、がとな……嬢ちゃん……」
ソフィに向け、彼は力なく微笑んだ。少しだけ、先ほどよりも顔色が良く見える。
「これで……ゆっくり、眠れ、そうだ」
「……はい。たくさん休んでください」
その言葉を聞くなり、男性は横になる。すぐに安らかな寝息が聞こえてきた。
ソフィが安堵と罪悪感を同時に抱いていると、背後から女性の声がする。
「あたしからも感謝させてくれ。そいつは多分、この中で一番重傷だった」
立ち上がって見ると、髪を頭の横で括った頑強そうな人物が目に入った。壁にもたれかかり、こちらに向けて微笑む様子からは、この中でも有数の生命力を感じられる。
「これで安心して待てるってもんだ。いつか事態が好転するのをね」
「……どいつもこいつも、綺麗ごとを」
「ああ、そっちの兄ちゃんもさ。あたしから礼を言わせてほしいんだ」
訝しげな視線を向けたグレイザーに、彼女は悪戯っぽい視線を向けた。
「あんた、モリアデスを倒しに行くんだろ? ここから出て……守るべきものがあるって顔してる」
「…………」
「あんたが奮い立たせてくれたから、そっちのお嬢ちゃんもやる気になったんじゃないかな。どう見ても性格合わなそうなコンビだけどさ……あんたら見てると、何か希望が湧いてきたよ」
なんて前向きな人だろう、とソフィは思った。勢いを削がれたグレイザーは額を押さえてため息をつく。
「残念なことに、あたしらはもう弱りきっててね。手伝えそうにない。だからってこれ以上の治癒はいらないよ。その力は……そっちの男のために使ってやりな」
「わ、わかりました……」
「よろしく頼んだよ。頂上はまだ遠いが……あんたらならやってくれると信じてる」
グレイザーは言葉を発さず、顎で先を示した。ソフィは頷き、再び彼の後ろに陣取る。
進みだそうとしたところで、女性がやや遠慮がちな声で言った。
「ところでお嬢ちゃん……その格好というか、露出度は、もーうちょっと抑え気味でもいいんじゃないか……?」
「へっ!? いやっ、あの、こ、これは、そのっ……!!」
真剣すぎて、体を隠すのを忘れていた。いくら薄暗いとはいえ小さな明かりはあり、牢からはこの姿が丸見えだ。
ソフィが手で色々と覆い、真っ赤になったまま動けないでいると、再びグレイザーがため息をつくのが聞こえた。
何を言われるのかと身構えていると、
「────え?」
ソフィの肩に、ふと温かいものが触れた。
「これって……!」
かけられたのは外套だった。それも、自分の体をすっぽり覆えるほどの大きなものだ。
「勘違いするな」
一段階薄着になったグレイザーを見て、それが彼の所有物であったことにようやく気付く。
「お前のその格好は目障りだ。牢にいた時から、この緊急事態にふざけた姿だと思っていた」
「や、やっ……やっぱり見えてたの!?」
最悪だ。ザンをよく知っている分、そのデリカシーの無さに眩暈がしそうになる。
けれど……
「……あ、あり……がとうございます」
ボタン等は無く前まで覆うことは叶わなかったが、それでも凄まじい安心感だ。
ソフィが小声でお礼を言うと、牢の中から女性の楽しげな声が聞こえてくる。
「ははっ、良いもん見せてもらったよ。二人とも、仲良くな」
「う……は、早く行きますよ、グレイザー」
「おい血迷ったか、先頭は俺だ。罠があったらどうするつもりだ」
「…………はい」
ソフィは縮こまり、外套で口元を覆いながら早足に進むグレイザーを追う。背後からの視線が何となく生暖かく感じられ、とても居心地が悪かった。
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「ぜえ、ぜえっ……!!」
「移動が遅い。ちっ……背負うしかねェか」
「まま、待ってください!! ちゃんと歩きますからっ……!」
一体どれほど登ってきたのだろう。空気が薄くなるのに反比例して、足に蓄積する疲労は増えていく。
(ああぁ……全部が想定と違う……)
ホメルンから王都までの旅。過酷になることは想定していたが、これまで何度命の危機に瀕したかわからない。
かなり上の方まで来ただろうか。階段の嵐に一区切りがつき、ようやく休憩が出来そうだと思った矢先。
「…………あ」
きゅるきゅると、ソフィの腹の虫が悲しみの声を上げた。思わず両手で腹を押さえるが、グレイザー相手に隠し通せるはずもない。
「……空腹なのか」
「ぱ、パーティから何も食べてなくて……あ、シュレッケン解放記念のやつなんですけど……」
空腹を自覚すると余計に力が入らなくなってきた。先ほどから魔法で水分は確保しているが、どうしても体が固形物を欲している。
しかし食料といえば、むしろグレイザーの方が心配だ。小食なソフィと比べ、大柄な彼の方が苦しい状態にあるのは間違いない。食事が提供されたのはだいぶ前であろうし、捕虜たちのやせ細った姿を見る限りでは一日一回が限度だろう。
「あの……グレイザーはお腹、空かないんですか?」
「その程度でくたばる軟弱な作りはしてねェ。お前の水だけでどうにかなる」
「や、やっぱり異常……ああ、でも……」
ソフィは何とはなしに口にした。
「ライならきっと、同じことができるんでしょうね」
疑問でならなかった。訓練を受けたことも無い弟が、何故あのような人間離れした動きができるのか。逆に何故自分は、どれだけしごかれてもまともに戦えるようにならなかったのか。
今ならわかる。それは努力云々以前に、どうしようもない才能の差だった。ライは天才で、ソフィは戦闘に関しては凡人以下だ。頭の出来だって彼の方が優れている。
「くだらん」
特に愚痴のつもりはなかったが、グレイザーは以前と同じことを言った。
「お前とモリアデスの違いなど、どうだって良い。全ては戦う意思の強さ……それで決まる」
「こ、根性論って感じですね」
「かもな。だが奴とて、お前の魔法を羨んでいたやもしれん。大体、努力という概念が存在する以上、才能なんざこの世で最も信用できん代物だ」
グレイザーの瞳には、かつての己が映っていた。
「備わった才について考えたことはない。俺は、ただひたすらに己を磨いた。自分なりのやり方でな。そしてまだ……道半ばにいる」
「…………」
ソフィは俯き、少しだけ笑う。彼のどこか遠回しな表現の真意を、肌で感じ取ったからだ。
人は人、自分は自分。だから自分なりの全力を尽くせば良い……そう言ってくれているのだろう。
「グレイザー、やっぱり励ましてくれてますよね」
「知らん。好きに受け取れ」
「変な聞き方かもだけど……その、何で私に優しくしてくれるんですか?」
ソフィは勇気を振り絞って尋ねた。
「私が、リアンさんに似てるから……?」




