60:立て
「私は進み続けました」
相手の息遣いすら聞こえない静けさの中……ソフィネア・モリアデスは、ただ淡々と話す。
「シュレッケンに着いても、私は安心できなかった。通り過がりの女の子が誤魔化してくれたとはいえ、死体が無いんですから。ライは血眼になって私を探そうとするはずでした」
時間を稼いだだけであり、追手がいずれシュレッケンに及ぶことは容易に想像できた。音楽の街は賑やかでとても安心感のある場所だったが、ソフィはそこに定住する決断はしなかった。
細い足腰に鞭打って、何日も移動を続けた。物乞いのように、旅人や立ち寄った村から食べ物を受け取り何とか命を繋ぎ止める日々。
ビートグラウズまでの道のりでは、シュレッケンの時と違い、時折野党らしき人物に出会うこともあった。ソフィが痩せ細っており、金目の物を持っていなさそうなことが功を奏したのか、直接襲われることはなかった。ただ、もし人攫いにでも会っていたらと考えると肝が冷える。
過酷な環境に晒され、街に辿り着く頃にはソフィは心身共に弱り果てていた。
「そういえばあの時は、まだゼノイさんがリーダーだったんですね。みすぼらしい格好で歩いてると、役所の人に呼び止められて……」
もう朧げな記憶だが、身分確認などが行われた気がする。本名を言うわけにはいかず、かと言って偽名も特に決めていなかった。
結局家族がいないことなど当たり障りのない話をしてから、どこかに連れられる前に隙を見て逃げ出したのだ。
「そこまで行ったら、目指す場所は一つでした」
リンドラ公国。何事も無ければ、いつかソフィが訪れたい思っていた場所だ。
「でも近づくにつれて……リンドラに行けば安全なのかって、すごく不安になったんです。だってライは私の夢を知ってて……あいつなら、国境も超えて私を捕まえにくるんじゃないかって……」
崩れかけの精神は、限界だったソフィの肉体にも致命的なダメージを与えた。
それは、ビートグラウズを出て半日ほど経った時のこと。
「……私は力尽きました。もう無理だと思って、辺境の村に着くなり倒れ込んだんです。そして私は、リンドラを目前にしたその村で────」
運命の出会いを果たした。
「フレーとザンは、今でも昔と変わりません」
膝に顔を埋め、ソフィはくぐもった声を出す。
「フレーったら、初対面の私にすごい勢いで詰めてきたんです。私、テンパって泣いちゃって。しかも、違う名前に勘違いされて……」
「…………」
「ホメルンはあったかい村でした。フレーたちにとっては退屈な所でも……私は、自由気ままに生きられるあの場所が忘れられない」
村人たちは、帰る所が無いならここで暮らせば良いと言ってくれた。孤児院という居場所もあって、手続きを終えたソフィはそこに置かれることとなった。
リンドラに行ったところで、逃げ切れるかわからない。しかしホメルンならば身を隠せるかもしれない。ライグリッドとて、まさか自分が目的地直前の辺境に留まっているとは思うまい。
ソフィは生まれ変わった。エーネことエディネア・モイスティとして、フレーたちと共に生きる道を選んだ。
「生い立ちは言えなかったけど、魔法のことも話しました。私なりの、せいいっぱいの信頼の証です。フレーたちのためなら何だってできる。私に居場所をくれた、大好きな仲間たちだから……」
それから八年後、ソフィは再び村を出た。捨て切れぬ夢を追うために。愛するフレーの望みを叶えるために。
ビートグラウズを通り、シュレッケン経て、そして……
「それで……私はまた、全部失ったんです」
手足に付けられた鎖が重い。自由でない体に、あの時以上の重みを感じる。
「ライはもうすぐ、私を殺すと思います。それもきっと、見せしめみたいな方法で。今でも時々夢に見るんです……嫌いな父さんと母さんの血だらけの姿」
あれはきっと明日の自分だ。シュレッケンからこの里はとてつもなく遠く、万が一フレーたちが助けに来てくれたとしても、死に目に間に合いすらしないだろう。ライは謎の力で、ここまで一瞬でソフィを運んできたのである。
「一度は捨てた命です。わかってはいるんです。でも、私っ……やっぱり、こんなの嫌ですっ……!!」
あの時自分を救ってくれた、名前もわからぬ少女。彼女の厚意を無駄にしてしまった。里に近づくにつれ濃くなった弟の気配から、逃れることは叶わなかったのだ。
もう泣き声を隠すこともできない。
「ごめんなさいっ……! 私の弟が……私があの日、倒せなかった悪意が……グレイザーの道も阻んじゃった……!」
何度も嗚咽を上げ、肩を震わせる。その場にいない幼馴染の代わりを、かつて敵だった男に無意識に求めてしまう。
きっと彼だって泣きたいはずだ。人外、ライグリッド・モリアデスは全てを奪うのだから────
「くだらん」
それはいつか聞いた、低く冷め切った声だった。
「……え……」
「求めていた情報がまるで無かった。お前の泣き言の中に、有益な話はゼロに等しい」
「なっ、あ……!?」
脳が理解を拒んで、溢れ出ていた涙が止まる。
まともな言葉を発せないソフィに、グレイザーはなおも続けた。
「この場所を知っているんじゃねェのか。俺が聞きたいのは、状況を打開する方法だ。それを、モリアデスが怖いだの、全部失っただの、どうにもならん泣き言ばかり……」
「だって、さ、さっき……後悔してるんじゃって、言ってくれたから……!」
「俺とて、傷心中の小娘に合理的になれとは言わん。だが話を聞いてやるからには、役立つ情報の一つでも話すのが筋だろうが」
「────っっ!!」
思わず顔が熱くなる。フレーたちと過ごしていて、こんな感情になることはめったになかった。
やはりこの男は……!
「誰の、ためだと……!」
「あァ?」
「私たちがシュレッケンで戦ってたのは、元はと言えば、ぐ、グレイザーのためでもあるからっ!! わかってますか!?」
捕らわれた人間たちがソフィの声に反応する。迷惑かもしれなかったが、言わずにはいられない。
「元々シュレッケンに着いたら、フレーの方針を立てるのを手伝って、街をすぐ出るようにそれとなくお願いして……さっさとこの里を通り過ぎる予定だったんです! でもビートグラウズを助けるために、騒ぎを起こしてまで戦ったの!」
「恩着せがましいやつだ……もう忘れたのか? お前らの村も奴らのターゲットの一つだった! ビートグラウズが陥落すれば、すぐにでも支配下に置かれていたに違いねェ! 知りうる限りの情報を伝えてやったのは、誰だと思ってやがる!」
「うっ……そ、そうだ、ポイズン・ガールズがどうなったか、知りたいですか? 気になってますよね! 言っとくけど、協力するはずなのに真っ先に捕まって、何にもできてないグレイザーの方が、ずっと、ずっとっ……だ、だ、ダサいんだからっ!!」
「おい、うるせぇぞ!」
「ご、ごめんなさいっっ!!」
案の定隣から怒鳴られて、ソフィは縮こまる。心の黒いものを一気に吐き出したら、突然我に返った。
そう、相手はあのグレイザーだ。正確無比の投げナイフを得意とし、フレーの奥義をもってしてようやく倒せた男である。
(殺されるっ……!?)
「……お前は、やはり不思議な女だ」
「え……?」
怯えて気配を消していると、彼は独り言のように言った。顔を上げると、遠くで蒼色の髪が揺れるのが見える。
「気弱な癖に、スイッチが入ればあれこれ言いやがる。思えば、俺に最初に啖呵を切ったのもお前だったな」
「……い……言い過ぎました、かも……」
「はっ……そんな話はしていない。こちとら、お前に落ち込まれている暇なんざ無いからな」
格子の向こうのシルエットが、想像していなかった形に変化した。先ほどまで座っていたように見えた彼が、まるでゆっくりと立ち上がるような……
「改めて俺から問おう。お前は、この場所を知っているな?」
金属が弾かれるような奇妙な音がした。それから何かが引っ張られ、ちぎれる音も。
(ま、まさか……!)
「エディネア・モイスティ。質問に答えろ」
グレイザーは格子の前まで来ていた。それはソフィには到底不可能な動きである。
彼のように、手足の鎖を引きちぎりでもしない限りは。
「おい、何をぼうっとしている」
「あ、あ、ええっ……!?」
「答えは」
「あ……し、知ってます。た、多分……昔の連絡通路を改造したもので……下に行ったら峰のふもとに出て、上まで行けば里に……」
「なるほど、な」
グレイザーは目の前の格子を掴んだ。鉄が軋み、真っ直ぐだった棒があらぬ形に歪む。
「ここは恐らく中層程度だが、下方から外気を感じねェ……奴が塞いだのだとすれば、出口は上にしかないということだ」
破壊された鉄格子の隙間から、グレイザーは音も無く前進する。あっけにとられるソフィの前に、彼はついに姿を現した。
少し乱れた蒼色の長髪に、所々が汚れた衣服。しかしその長身と射殺すような鋭い目つきは、紛れもなく自分の知る守護者のものだ。
(いつでも、脱出できたの……?)
「お前は……ビートグラウズを救ってくれたんだな」
遥か上からソフィを見下ろすグレイザーは、少しだけ口角を上げる。
「え……な、何で……」
「口ぶりでわかった。俺を誰だと思ってやがる」
そう言いながら、グレイザーはソフィの格子にも手をかける。力む様子も見せず、それを左右に引っ張り────
「この時を待っていた」
もはや原型をとどめないほど、乱暴に引き裂いた。
「行くぞ、モイスティ」
「え……ええっ……!?」
「立て。お前の力が必要だ」
晴れた視界に差し出された手は、ソフィのものよりずっと大きく、そして力強い意思に溢れている。
「あの男を……ライグリッド・モリアデスを、俺たちの手で打ち倒すぞ」
意味がわからない。話を聞いていなかったのか。
ライグリッドは化け物で。
自分を殺そうとしていて。
誰よりも強くて。
しかしここにいれば、自分に未来は無くて……
「…………」
「…………」
グレイザーはソフィを見ていた。ソフィもじっと、グレイザーを見返す。
守護者であり侵略者でもある、カリスマ溢れるこの益荒男が……何故だかフレーの影と重なった気がした。
口では説明できないけれど、きっとそれがきっかけだったのだろう。
全てを諦めかけていたソフィが、恐る恐る彼の手を取ったのは。




