58:さらば永遠に
「ごめんね、驚かせちゃった? でも安心して……決着はついたんだ」
物も言えず尻餅をついたまま後ずさる姉に、まるで嘲るように口元を歪めたライは、徐に右目に手をかざした。
「これからは僕が首領だ。祝福してよ、ソフィ。君の人生を狂わせた両親はこの通りさ」
まるで楽しくて仕方がないといった様子だ。再び頭が真っ白になり、ソフィは掠れた声を出すことしかできない。
「な、ん……で……」
「二人はね……僕たちを裏切ったんだよ。ソフィを縛り付けておきながら、結局ポリシーを破ったんだ。こんなの許せないだろ?」
「!? な、何言って……」
「んふふ……」
ソフィは壁にもたれかかった。正常な思考が働いていない。
けれど、とりあえず。とりあえず助けなくては。憎くて恐ろしい両親だけれど……命を救わなければ。
「ああ、でも」
朦朧とする意識の中、再び治療に取り掛かろうとしたソフィに、ライは思い出したように言った。
「一つ仕事が残ってたね。さっきの話は父さんたちだけの決定事項だし……このままじゃ、僕が首領だって認めてもらえないかも」
ライは舌なめずりをする。まるで獣が獲物を見つけた時のような仕草だった。
「まだ一人残ってるよね、本来の首領が」
「…………え」
「みんなの中では、後継者はソフィのままだ。僕は決闘に勝ったけど、急だったし信じてもらえないかも。ねえ、ソフィ……」
同意を求めるように近づいてくる弟から、ソフィは全力で距離を取った。とはいえ尻餅をつきながらなので、その実ほとんど動けていない。
「改めて僕と戦ってよ。勝利条件は……相手を殺すこと」
また一歩、彼は踏み出す。
ソフィは涙を流しながら、潰れそうな声で言った。
「化けっ……物……!!」
「化け物? 失礼だな、僕は嘘を本当にしてあげようとしてるだけさ」
ライは血濡れの手で、いつかのようにソフィの顎に触れた。彼の吐息まで血の匂いがするような気がして、ソフィは本格的にパニックを起こしそうになる。
「こうなった以上、すぐにでも決めないといけないんだ。君が勝てば、君が首領だ。治癒師にでもなんでもなるといい。でも僕が勝ったら……父さんたちの言葉の解釈通り、君を殺さないといけない」
「う、嘘……と、父さん、たちが……そんなっ……!!」
「ふふ、うふふふっ……怯えた目が一番可愛いよ、ソフィ……」
もう何も信じられない。何一つ考えたくない。
「哀れなソフィ。君は結局、何一つ得られなかった。そんな君に、僕が最後のチャンスをあげるよ」
彼は耳元で囁くように言った。
「弱い君にハンデをつける。今から三十秒数えるから……戦いやすい場所に移動してごらん?」
三十秒。
……三十秒……?
(え……?)
三十秒経てばどうなるのか。何が起こるだろう。
ソフィの視界に物言わぬ両親が映る。カウントを始めようと、指を立てる弟が映る。
────私は、遠くない内にこの里を出たいです。
自分は何を言っていたのだろう。
もう全部、終わりじゃないか。
「どうしたの、ソフィ? 動かないの」
けれどそれでも……本能が叫んでいる。
死にたくない。
そうだ、まだ死にたくない。死にたくないのだ。
だからこそ……
「────ッッ────!!!」
逃げなければ。
それは基本的に鈍重なソフィの、人生における最高の走りだった。数秒足らずで玄関に辿り着き、勢いを殺さぬまま魔法を放つ。
弱いなりに全力を尽くした結果、鍵のかかっていないドアは、水流によって勢い良く吹き飛ばされた。
「うぐっ!!」
水に足を取られて頭から転ぶも、そのまま流れに乗って敷地の外に出た。
いつもと変わらぬ夜の里。時間帯的に子供は多くなかったが、大人はまだそこそこの数が往来していた。
ソフィは走る。刃物のような殺気を背後に感じながら、血に濡れた状態で走り続ける。
そして、喉が枯れるほどに叫んだ。
「だ、誰かっ……誰かあああああああっっ!!」
死の淵からの絶叫を聞き、次々と大人たちが飛び出してくる。中には武器や飛び道具を持った者もいた。
「あれは、モリアデスさんの……!」
「ソフィネア!? ち、血がっ……! 一体何が!」
そこにはかつて、ソフィに勝負を仕掛けてきたオーヴェンたちもいた。
回らぬ舌を必死に動かし、ソフィは状況説明を試みる。
「ら、ライがっ……! と、父さんたちを……私を……!!」
その時、表に出ていた全住民が見た。
モリアデス邸の壁が木っ端微塵になると同時に……中から稲妻の如き速度で飛び出してくる少年を。
「……ら、ライグリッド!?」
「ふふ、うふふふっ……」
広場の中心に降り立った死神。その瞳は、最も遠くに位置する少女を捉えて離さない。
「ここでいいんだ?」
「ひっ……!?」
「ああ、ちょっとまだ不利かなぁ……じゃあ、この里から相手を突き落とすのも勝利条件だ。生きては戻れないし、これなら君も水で何とかなるかもね?」
ライは手についた血を舐め取り、にやりと笑う。ひたすら走り続けるソフィに向け、まるで友人を遊びに誘うような口調で言った。
「じゃあ始めよう。今度こそ、勝者が……この地を統べる長になる」
「────皆、ライグリッドを止めろ! ソフィネアを守るんだ!!」
誰かが叫んだ。ライの異様な出で立ちから状況を理解した者たちが、一斉に彼に掴みかかる。
「あ、あぁっ……!」
「ソフィネア、話は後だ! 急いでモリアデスさんたちのところに!」
「ち、違うっ……父さんたちは、もう……!!」
「ぐああああっっ!?」
ライの周囲で悲鳴が上がった。次の瞬間、一人の大人が勢い良く吹き飛び、近くの塀に激突する。
「う、嘘だ……」
「邪魔するの? この僕の」
「うぐうっ!?」
「見えないよ。ねえソフィ、そこにいるよね……?」
一人、また一人と倒れていく。
隣から絶叫に近い怒号が放たれた。
「ソフィネア、逃げなさいっ! 遠くに……この里の外にっ!!」
「っっ!!」
ソフィは再び脱兎のごとく駆け出した。
目指すは里の端にある……たった一つの連絡通路だ。
「に、人間じゃない……!」
誰かがそう言った。可哀想なほどに震えた、今にも消え入りそうな声だった。
「なんだこいつはっ……視界から消え────ぐっ!?」
「飛び道具だ! 遠くから攻めろ!」
「……小賢しい。邪魔だよ、ねぇ……これは僕とソフィの戦いなんだ!!」
ライが腕を振るうと、飛んできた矢や槍が弾かれる。跳ね返されたそれらを食らい、盛大に崩れ落ちる大人たち。
群がる誰もが、彼に傷一つ付けられない。
「ぎゃああああっ!!」
「ソフィ……どこに行くの? 逃げられると思ってないよねぇ……?」
ついに包囲網を突破したライグリッドは、姉に向けて侵攻を始める。
一方。住民たちの助けの甲斐あって、随分と距離を取ることのできたソフィは、連絡通路の入口まで辿り着いていた。
(こ、これで……っ)
ここに転がり込めば、この里から逃げられる。ソフィは助かるのだ。
(でも、みんなが……!!)
自分のために傷ついた住人たちが気がかりで、ソフィは背後を振り返る。誰もこちらに来てはいない。
このまま逃げても良いのか。そう疑問に思った時、先ほどの大人の言葉が脳内で再生された。
────ソフィネア、逃げなさいっ! 遠くに……この里の外にっ!!
そうだ、彼の狙いはソフィ一人。ここに留まることこそ、人々の身を危うくする行為である。
覚悟を決めたソフィは、床に設置された鉄の扉に手をかけ────
「ダメじゃないか、逃げたりなんて」
耳元で、玉を転がすような声がした。ひゅっとか細い息が漏れる。
ライグリッドが隣にいた。ソフィが振り返り、そして再び前に向き直ったこの一瞬の間に、彼は……
「外の人間になんか頼らないでよ。だって僕たちは、最強でなければいけないんだ。だからね、ほら────」
ライは五指を思い切り扉に突き刺した。衝撃で凹んだそれを見て、ソフィは入口が使い物にならなくなったことを悟る。
「さあ、ソフィ。雌雄を決しよう」
「う、うっ……うああああああっっっ!!!」
後退しながら、やぶれかぶれになって魔法を放った。力の限りを尽くし、勢いをつけて水の塊を飛ばし続ける。
「ふふ……」
ソフィの渾身の攻撃を、ライは歩きながら平行移動して避け続けた。
そこには一切の予備動作も無い。こちらから目を逸らさぬまま、残像だけを残して進み続ける。
「あああっ……!」
「弾切れかな? いいよ、次は?」
「…………ッ!!」
残りの魔力を総動員し、今度は大きめの水流をぶつける。ライの体ごと遠くへやってしまうという寸法だ。
しかし彼は微動だにしなかった。水は確かに彼の体に干渉していたが……勢いや力、何もかもが足りていないというように、それはまるで存在しないかのように扱われる。
「そ、んなっ……!!」
策を失い、ソフィは再び背を向けて駆け出す。
行く当ても無く来た道を戻ると、案の定絶望的な光景が広がっていた。
「ううっ……」
「ぐ……っ、う」
倒れ伏す数多の大人と、呆然とする子供たち。
皆息はあるようだったが、もはや立ち上がることはできない様子だ。
「安心してよ」
瞬きの間に、ライはソフィの正面に移動していた。背後には里を囲む断崖絶壁だ。そこは奇しくも……かつて夕焼けの中、弟に自分の思いを伝えた場所だった。
「この人たちは殺さない。だって僕の大切な部下になるんだ」
「た、たす、けて……」
命乞いをしながら、じりじりと後退する。背中が柵と隣り合ったタイミングで、床にへたりこむオーヴェンたちと目が合った。
「お、オーヴェン君……カイル君……お、お願い……」
「……っ……ソフィネア……」
「あ、ああああっ……」
ソフィは一人だった。里では知らぬ者のいない名家に生まれ、これだけ多くの人間が自分を知っている環境でも、今や一人なのだ。
「違うよ、ソフィ」
まるで心を読んだかのように、ライグリッドが口角を上げる。
「生まれた時から、君はずっと一人だ。誰ともわかり合えなんてしなかった。もしかしたら……僕が一番君のことを思いやっていたかもしれない」
「…………」
「魔法が使えると知った時、僕も含めてみんなが期待した。今度こそ……と思っただろうね。でも誰よりも君を見ていたから……僕は一番最初に気が付いたよ」
姉からこぼれる一筋の涙を見て、ライは嗤った。それは今までソフィが見た中で、最も醜い笑顔だった。
「ああ、愚かなソフィ……君には無理だってわかっていたよ」
ここまでだ。もう、何もかもおしまいだ。
「……ライ」
涙声で弟を呼んだ。額に貼り付く髪の隙間から見た彼の顔は、自分と良く似ており、まだまだ幼い。
「ライのこと……私は愛してました。大切な家族だって、思ってた……」
「僕は今もそう思ってるよ」
「……きっとソールフィネッジは生まれ変わる。前よりもずっと強くなって、誰にも負けない場所になる……」
ソフィは背筋を伸ばした。いつ喉元に迫るかわからぬ攻撃を受け入れるのように、無防備に立つ。
「でも……私はそんな里を見ることはない……」
「当然だろう?」
それがこの世の摂理であるというように、ライは言った。
「君はこれから死ぬ。残念なことに、父さんたちの言葉がそうさせたんだ。責任は取らないとねぇ?」
「ふ、ふふふ……」
固まった唇で無理に声を出す。ライが真顔になったのを見て、ソフィは右目に手をかざした。
「ライの作る里なんて、こっちから願い下げだから……」
「…………!」
「里のみんな……今まで、ありがとうございました」
それは、ライグリッド・モリアデスによる唯一の油断だった。臆病な姉にそんなことができるはずがないと、たかをくくっていたのだろう。
彼に殺されるくらいなら。
最期くらい、勇気を出して見せよう。
「永遠に……さよならです」
ソフィは笑顔で両腕を広げ、後ろに倒れ込んだ。そのままだと柵に引っかかるので、最後の力を振り絞り、水の力で身を浮かす。
軽い体は簡単に持ち上がり────
「しまった……!!」
彼の人知を超えた動きでも間に合わない。自らとどめを刺さんと伸ばされた手は、ソフィの体に届くことは無かった。
浮遊感。そして視界に映る夜空。今宵は星がくっきり見える日だ。
「ソフィーーーーっっ!!」
霧の漂う戦闘民族の里、ソールフィネッジ。
その地を冠した名を付けられながら、最後まで力の及ばなかった少女は、自ら外の世界へと飛び出す。
前後もわからぬ濃い霧の中。悔しそうな弟の顔を見届けて……ソフィネア・モリアデスは無限の闇へと落下していった。




