57:目覚める人外
それは二人が十歳を迎える晩の事だった。
「ソフィ、ライ」
「……? はい、父さん」
「話がある。二人の今後に関わる、大事な話だ」
ここ二年で、父は少し顔つきが変わった気がする。以前の荘厳な戦士の面持ちではなく、何かに悩むような表情をすることが多くなった。
「……ソフィ。悪いが、いつものように食材を買いに行ってくれるか。ライに先に話しておきたくてな」
「わ、わかりました」
ただならぬ雰囲気を感じたが、どうも説教の類ではなさそうだ。
何かが変わる予感を覚えつつ、ソフィは外に出る。屋内には両親と、不思議そうな顔をしたライが残された。
「どうしたの、二人とも? 何だか真剣な顔だねぇ」
「……座りなさい、ライ」
母に促されるまま、ライは二人に面する形で椅子に腰かける。
「本題から言おう」
父は真っ直ぐに息子の目を捉え、重々しく言った。
「ソフィを、首領の後継者から外す」
ライはあんぐりと口を開け、その場に固まった。やや間を置き、母が後を継ぐ。
「常々検討はしていた。けれどこの地のしきたりは重く……その秩序は簡単に蔑ろにできるものではなかった。それでもね、ライ。事情が変わったの」
「事情……?」
「新たなるテンメイ王の治世……端的に言えば、混沌としている。ライウ王子の言葉が嘘だったかのように、王都は我らに……我らのみならず、王都の外部全域に関わろうとしないのだ」
それはソフィやライが最近あまり伝えられていなかった、外の世界の実情だった。
「周辺地域は徐々に荒れ、秩序を失いつつあると聞いた。この状況下で、我らにはより一層の協調、及び権威が求められるのだ」
「……なるほど」
ライは微笑み、頷く。
「ソフィにはそれを推進するだけの力が無いと……そういうことなんだね」
「その通り」
両親も頷いた。そこに一切の迷いは感じられない。
「十年、あの子には教育を施した。しかし残念ながら首領の器にあるとは言い難く、それは武力の有無に限らない。あの子は勘が鈍く、そこまで頭が切れるわけでもない。いたって『普通』の子なのだ……ライ、お前と違ってな」
「…………」
「我らとて悩んだ。ソールフィネッジに根付く伝統……これを覆すのには、多くの理解を得ねばならない」
覚悟を決める時だと言わんばかりに、母は語気を強めた。
「明日にでも住民たちに告知するわ。この里が置かれている現状を説明し、説得する。説得してみせる。無論、この後あの子にも事情を伝えるわ」
ソフィへの告知は恐らく、これほど厳かなものにはならないだろう。
二人ともわかっているのだ。首領の座から降ろされることに、彼女が反発などするはずがないと。むしろそれが本望であると。
「……そっか。そっかぁ……」
ライはこれまでの姉の姿に思いを馳せた。そして、流れるように言う。
「じゃあ、殺す? ソフィのこと」
言葉の意味を理解できずに、両親は首を傾げた。薄暗い部屋の中、二人の動きがシンクロする。
「ライ……?」
「だってそうでしょ? ソフィはこの里を導く者。でも彼女は弱い……だから、それができないって二人は言う。そして、弱い者に価値なんて無いんだ」
それは十年にわたり、ライが受け止めてきた言葉だった。
「だったらさ。もう消すしかないよね。無かったことにするしかないじゃないか」
「お前、何を言って……」
「僕はただ……父さんたちを嘘つきにしたくないだけだよ」
二人は顔を見合わせた。父がやや困惑気味に切り出す。
「……お前たちには苦労をかけた。ソフィだけでなく、ライ、お前にも────」
「でも、大丈夫! これからは僕に任せてっ!」
意気揚々と手を打ち、ライは高らかに言った。
「これからは僕が、ソフィの分まで頑張るよ。口を出すつもりはなかったけど、僕だって一度くらい首領になってみたかったんだ。二人にじきじきに頼まれたら、やるしかないよねぇ!」
「いや、それは……」
「ソフィのことも請け負うよ。殺すのに猶予をつけてあげても良い……彼女にはね、立派な夢が────」
「ライ、話を聞きなさい!!」
父がソフィではなくライに向けて怒鳴るのは、史上初めてのことだった。
すっと表情を消した息子に、彼は神妙な面持ちで言う。
「後継者は……これから決める」
「……え? どういうこと?」
「民意で決めるのだ。選挙を行う……周辺の大都市がそうしているように」
ライは言葉を失った。まるで未来が見えたかのように、その先の全てが繋がった気がしたからだ。
「その際に、モリアデス家は候補から外れる。しきたりを変える責任を、その形で取るつもりだ」
ライは脱力し、椅子に深くもたれかかる。
両親は何も言わない。ただどこかから、歪な笑い声が聞こえてきていた。
「ふ、ふふ……うふふふ……っ」
それが自分のものだと気付く頃、ライの頬には自身の爪が深々と食い込んでいた。
「……わかって、いたじゃないか」
「……?」
「ソフィが首領に向いてないって……そんなの赤ん坊の頃から、わかっていたじゃないか」
力の入らない足で、ライグリッドは立ち上がる。涙に濡れる姉の顔を思い出し、心に湧き上がる黒いものを感じた。
「彼女は泣いていたよ? きっと普通の女の子になりたかったんだ……でも父さんたちは、意味の無い訓練を毎日毎日……もし魔法という特別なものが無ければ、彼女はきっと壊れていただろうねぇ……」
「……私たちは、あの日々が無駄だったとは思っていない。心優しいのは知っているが……人見知りで臆病なあの子には、激しい特訓が必要だったのだ」
「ふふふ……それで、その結果が? 十年やらないとわからなかったの、父さん?」
ライは定まらない視線を両親に向けた。今胸の中で燃えているこれは、怒りではない。
「父さんたちは、嘘つきだよ」
吐息のように切ない声で、ライは吐き捨てた。
「何一つ……守れてないじゃないか。僕たちの人生を決定づけた言葉の数々……僕は、忘れられないよ」
「ライ、落ち着きなさい……!」
「ソフィがこの里を導く。長は最強でなくてはならない。そして弱者に価値は無い……でも、実際はどうだい?」
ライは理解していた。この底知れない感情は……
得も言われぬ高揚感だ。
「ソフィの十年を無駄にした結果、彼女は長から外され……首領は弱い者が選ばれるんだよ。酷い、酷いよねぇ……!」
ライは右目を覆う。それはこの家に刻み込まれた、上に立つ者としての作法だった。
「最強たる僕は、首領にはなれない……! 伝統なんていつだって変えられた。でも父さんたちは、ソフィや僕の気持ちより世間体を優先した!」
ライグリッドは笑った。低く、唸るように。
異様な気配を察知し、両親は顎を引く。
「ねえ、父さん。母さん。僕に最後のチャンスを頂戴」
「……最後の、チャンス?」
「僕と、決闘してよ」
二人のどちらかが唾を飲んだ。長女不在のモリアデス邸に、彼女が最も忌み嫌う空気が流れる。
とめどない、殺気だった。
「……予め言っておく」
父は立ち上がった。親としてではなく、首領として息子に言い聞かせる。
「これは決定事項だ。お前が何と言おうと覆らん。首領としての権限は未だ私にあり……お前たちが口を挟む余地は無い」
「ふふふふっ……嘘つきの癖に……全部手遅れにしたくせに……! 随分、威勢が良いこと言うじゃない……」
「ライ、口を慎みなさいっ! お前は────」
憤る母を父は手で制する。彼は拳を柔らかく握り、嘆くように言った。
「思えば私たちは、この子を調子に乗らせすぎたのかもしれん。子供たちの中では異様な強さを誇るが、大人相手にはまだまだひよっ子も同然だ」
「…………」
「ライ、決闘の申し込みを受け入れよう。庭に出なさい」
流石に浮き足立った母を置いて、父は準備を始めた。ふと違和感を覚え、ライは横槍を入れる。
「ねえ、父さんだけで戦うの?」
「……? 首領は私だ。他に誰がいる?」
「でも全部、二人で一緒に決めてるんでしょ? 母さんだってこの里じゃ無類の戦士だ」
ライは徐に手を差し出した。
「母さんも来てよ。面倒だからさ……二人同時に相手をするよ」
その言葉に、俯き気味だった母はあんぐりと口を開けた。父の目つきが狩人のような鋭いものに変わる。
「ライ……思い上がりは大概にしなさい」
「それとさ、別に庭に出る意味はないよね。部屋の中で良いじゃないか」
「…………」
両親は無言で居間に立った。ライも向かい合うようにすると、ピりつくような気迫を肌で感じる。
「……ソフィに申し訳ないな」
「本当に。帰ってきたら、修羅場だろうから」
「んふ、ふふふ、ふふふふふっ……!」
どんな顔をするだろう。この家でただ一人温厚で、争いを好まぬ少女は。帰ってきた時に何と言うのだろう。
「覚悟は良いか、ライグリッド」
「……信じていたよ、最後まで。有言実行を……僕らの命運を決定付けたからには、相応の成果を出してくれると。なのに……あぁ……」
月の光が体を照らす。姉と異なる黄金の瞳を煌めかせながら、ライグリッド・モリアデスは無表情でこぼした。
「残念だよ」
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「……ただいま。父さん、母さん? ライ?」
ドアを叩いても返事が無かった。遠目に窓を見る感じでは、明かりは消されているようだ。
一体どれほど込み入った話なのだろう。胃が痛くなる思いで、ダメ元でドアノブを回す。
「……! 開いてる……」
先ほどしっかり鍵をかけたはずだが、誰か外出したのだろうか。
考えていてもらちが明かないので、ソフィは家の中に一歩踏み込む。明るい話が行われていることを願いつつ、ふと息を吸った時。
本能で嫌悪感を抱くような異臭がした。
(こ、これっ……もしかして……!!)
一瞬呆然とし、気が付く。間違いなくこれは人間の血の臭いだ。
それも……普段魔法で治す傷とは比べ物にならないほどの、夥しい量の。
「……あ、ああっ、みんな……!!」
ソフィは居間に向けて駆け出した。不審者がまだ潜んでいるかもしれないとか、そんな心配をする余裕は無かった。
そしてソフィは見つけることとなる。ぐったりと力尽き、テーブルにその身を横たわらせた────
父と、母の姿を。
「────っっ!! はっ……!!??」
呼吸ができない。頭が真っ白になって、持っていた荷物を取り落とす。
やがて口から飛び出たのは、自分のものとは思えぬ裏返った声だった。
「父さんっ!!?? 母さんっっ!!!」
床を這いながら両親に近づくと、手にべっとりと血が付いた。胃から全てが逆流しそうになりながらも、ソフィは無我夢中で二人に手を当てる。
「な、何がっ……何が、どうなって……! 二人とも、へ……返事してよぉっ……!!」
未熟な治癒の魔法では、全身に傷を負った彼らを完全に癒すことは叶わなかった。
それでも涙声で呼びかけていると、やがて父の指先が動く。
「はっ! と、父さん! 父さんっ!!」
「そ……ふぃ……」
「な、何が……何があったの!? ライはどこです……! ねえ、父さんっ!!」
彼は腕を持ち上げ、何かを示そうとしていた。それが不可能なことを悟ると、脱力し、浅い呼吸をしながら口を動かす。
「…………ろ……」
「……え……?」
「…………に、げ……」
ソフィが反射的に父から体を離した、その時。
「こちょこちょ~」
それは相も変わらず陽気な声だった。心臓が飛び出そうになり、全身が総毛立つ。
「っぎゃああああっ!!??」
「なーんて、今回は触ってないじゃないか。相変わらず怖がりなんだから」
えずきながら声のした方を向くと……窓から来る月明かりに照らされた少年が、視界の端に浮かび上がった。
そしてソフィはたった一目で理解した。この事件の犯人が誰であるかを。
「おかえり、ソフィ」
ライグリッド・モリアデスは、全身血濡れになりながら……見たことのない満面の笑みをたたえていた。




