56:ソフィの願い
「父さん、母さんっ!」
家に駆け込むなり、ソフィは大声で叫んだ。
「……ん? ソフィ。ライは?」
「あ、あの、さっき私たち、男の子に絡まれて、それで……! ら、ライが!!」
「男の子に? なるほど……それでソフィ、お前はどうしたの?」
「えっ……?」
「倒してきたのよね? 弟を守るために」
ソフィは絶句して立ち尽くす。両親が同時にため息をつき、緩慢な動作で立ち上がった。
「……せめてその魔法を使えば良いものを。お前は本当に……」
「あうぅ……ごめんなさい……っ」
母の言葉に深く打たれ、ソフィは顔を俯かせる。
無論魔法を使おうとは思った。しかし対人経験は無くライまで巻き込みかねないのと、何故か彼自身に強く止められたのだ。結局その場を収めることができず、急いで大人を呼びに来た次第である。
ものも言えないソフィが次に聞いたのは、父の意外すぎる一言だった。
「まあ、良いじゃないか。ライのことなんてどうでも」
驚きのあまり、母子共々目を見張る。当の本人は眉をひそめ、困惑顔だ。
「……違う。私ではない」
「こちょこちょ~」
「んぎゃあぁッ!?」
何者かに背後から脇腹を掴まれ、ソフィは悲鳴と共に倒れ込んだ。訳が分からず床にへばりついていると、軽快な笑い声が聞こえてくる。
「あはは、あははははっ! どう、父さんの声真似似てたでしょ? それにしてもソフィ、面白い声!」
「ら、ら、ライっ!?」
破裂しそうな心臓を押さえながら振り返ると、そこには先ほど別れたはずの弟が立っていた。勝ち誇ったようにこちらを見下ろしている。
「な、何で……さっき、だって……!」
「何でってそりゃあ、ソフィを追ってきたんだよ。さっさと帰りたかったし」
「あ、あの二人は? 撒いてきたんですか?」
困惑しつつ、助け起こされたソフィは彼の全身を見る。幸い外傷は無さそうだ。
「うん、念入りに『まいて』きたよ。そんなことよりソフィ、訓練はいいの?」
「あっ……」
「……そろそろ時間だな」
父は徒労だったと言わんばかりに肩をすくめる。ソフィは気まずい思いをしながらも、庭に出ていく彼に追従した。
(大事にならなくて良かった……)
いくらなんでも帰るのが早すぎないかと思いつつも、ソフィは彼の無事に安堵していた。明日の学校は少し怖いが、とりあえず教員に事情を話すとしよう。
そんな流れで、多少ハプニングのあった一日を終えようとしていたモリアデス邸は……ある一報をきっかけに、激しく動揺することとなる。
「……それは本当か?」
「は、はい……二人とも意識が朦朧としており……」
首領である父に仕えている男性が、玄関先で息切れしながら告げた。
「巡回の者が見つけてくれなければどうなっていたことか……ロープでぐるぐる巻きにされて、用具入れに放置されるなんて……しかも────」
全身傷だらけで。
部下を除く全員の視線が、とある少年に吸い寄せられた。彼が姉よりも注目を浴びるのは、これで二度目だ。
「え? どうしたのさ、みんな」
「ライ……まさか、お前が……」
「ん? うん……あ、でも血は流させてないよ? まだ子供だしね」
まるで悪戯っ子のように笑う弟の前で、ソフィは全身から血の気が引いていた。
あの時。あの一瞬で。
ライは、二人を。
「やだなぁ、ソフィ。そんな目で見ないでよ」
そこにあったのは、常々変わらない穏やかな微笑だった。
「教えてあげただけだよ。僕も、モリアデスだってことをね」
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「里を出る前の二年間のことは、正直あんまり覚えてないです」
静かに耳を傾けるグレイザーに対し、ソフィは小さく言う。
「でも一つ確かなのは……あの瞬間から、私の立ち位置が決定づけられたってことです」
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一家のライを見る目が変わった。双子の姉として、ソフィはその事実を痛いほど実感していた。
彼が起こした暴力事件は、結論から言うとお咎め無しだった。喧嘩を吹っ掛けたのがオーヴェンたちだったこと、ソフィやライに非は無いことを、なんと彼ら自身が証言したのだ。
「ソフィ、もう少し速くね」
「は、はい……」
魔法の訓練と並行し、週に数回は武術の稽古も行われる。しかしそこに以前ほどの真剣さは感じられなかった。ミスをしても、これまでのように大声で怒鳴られることは無くなったのである。
実力主義のソールフィネッジで、唯一首領のみ長子が後を継ぐ決まりだ。けれどもしその制度が撤廃されたなら……両親が何と言うか、考えるまでもない。
ついに頭角を現した、のちに「人外」とまで称される少年ライグリッド。彼を前にして、ソフィはとうとう一切の期待をかけられなくなった。
「……付いてこなくて良いって、言ったじゃないですか」
あくる日の下校時、ソフィとライは里の少し外れの方に来ていた。用事は買い出しだ。
「買い出しなんでしょ? 二人で行った方が速く終わるじゃないか」
「頼まれたのは私です。ライは……帰ってゆっくりしてて」
「またまた……あ、そっかぁ」
ライは何かに合点したように手を叩き、ニヤニヤし始めた。
「ソフィ、照れてるんでしょ。もう弟と一緒に歩くのは恥ずかしいんだ?」
「…………そう、です」
思わぬ返答に驚く彼に、ソフィは恥辱にまみれた顔を向けた。
「何故です……今日、何で棄権したんですか」
「え?」
「体育の試合の話ですっ! 私との戦いで、みんなの前であんなことっ……!」
本日、全クラス合同の模擬戦闘大会が行われた。総当たりで対戦を行い、勝ち星が多い者が勝者という形式だ。
事件は終盤に起きた。それまで目にも留まらぬ早業で同級生たちを下してきたライは、ソフィとの一戦が始まるや否や、突如として棄権したのである。
「何故って、未来の首領に膝を付かせるわけにはいかないからね。当然の事さ」
「そ、そんなことしなくて良いッ!」
あの時の皆の冷ややかな目。思い出すだけで震えが止まらない。
「見学しなくなってから長いこと経ってるし、みんなもうわかってるんです。ライが私より……この里の誰よりも、信じられないくらい強いことなんて! それなのに今日みたいなことされたら……私、恥ずかしくて……!」
「…………」
「わかってます、こんなのただの言い訳だって。弱い私が悪いんだって……! でも、私だって今まで頑張ったんです!!」
叫んだ拍子に飛んだ唾がライの頬にかかった。しかし彼はそれを拭うこともせず、ただぼうっと立っている。
まるで……何かに魅入られたかのような表情だ。
「……お願いがあります」
ソフィは少し頭を下げるようにしながら、切実な声で言った。
「父さんと母さんを説得してください。次の首領はライが良いって……しきたりは、ここで変えれば良いんだって。この里は実力主義なんだから……きっとライがやった方が丸く収まるんです!」
自分には耐えられない。
もはや何の期待も希望も無くなった訓練を続け。後ろ指を差されながら、相応しくないとわかっている首領の職に就くことなんて。
そんな先の見えない悪夢よりも……ソフィにはやりたいことがあるのだ。
「ライ……前に私の夢を話したの、覚えてる?」
「うん、覚えてるよ」
「治癒師になる……怪我をしてる人のところに行って、お医者さんとは違うやり方で傷を治す……そんな、人の役に立つお仕事をしたいんです」
はっきり口にしたことで、ソフィの決意はより強固なものになる。
「だから、ライ。私はいつか……この里を出たい」
「……え?」
彼は意外そうに目を丸くした。
「ここよりずっと南に、リンドラっていう国があるみたいです。前に商人さんに聞きました」
「確か、八十年前に大規模な政変が起こった国だよね。医術が盛んなの? 王都でも学べそうだけど」
「色んなことが教えられてるみたい。も、もちろん……一人で勉強しに行くなんて大変なこと、向いてないのはわかってます。でも王都よりは怖くなさそうだし……いつかもっと勇気を出せたら、そこに行って、知識と魔法を磨きたいんです」
それは漠然としていたソフィの夢が、現実的な形になった結果だった。
「だから、ライ……お願いします」
ソフィは今一度頼み込んだ。自分の言葉が届くことを信じ、精一杯の気持ちを伝える。
「私に力を貸してください」
「…………」
ライグリッドは笑った。ソフィは顔を上げ、食い入るように彼を見つめる。が、前髪に隠れて目元はあまりわからなかった。
「しっかり考えたんだね、ソフィ。治癒師の夢が具体的になってて、良いじゃないか」
「……! じゃ、じゃあ……!」
「でも、ダメだ」
ライはソフィの頭に手を置いた。まるで赤子をあやすように、ゆっくりと撫でる。
思わず身震いした。断られたショックよりも、何よりも……
下手な動きをしたら頭を握りつぶされてしまいそうな、そんな想像がよぎったのだ。
「ソフィ、君は首領になるべくして生まれた存在。父さんたちの決定を覆すことは、許されない」
「だ、だからっ、ライが説得してくれれば……!」
「ダメだよ。僕は長子じゃない。許可無く父さんたちに意見することは許されない」
「……っ……!」
たまらず彼の手を振り払う。逃げるように後ずさったが、ライは一瞬で距離を詰めてきた。息を呑むと同時に、背中に固いものが当たる。
「ソフィ、見えるかい? この世界……霧に覆われた、我らがソールフィネッジが」
導かれるように振り向く。ソフィがもたれかかっているのは柵だった。
少し先は、落ちれば二度と戻ってはこられない絶壁。そして眼前に広がるのは、夕日に照らされながらも外界の一切を遮断する濃霧だった。
(高い……っ)
天高くそびえ立つ峰。その頂上にある、自分とは相容れない狭く息苦しい世界。
そこにある全てが、ソフィの未来を阻む。
「君は最強になるんだ。だって、そう定められているんだよ」
ライはソフィの顎に手を当て、たしなめるように言った。
「な、何ですか……最強、最強って、そればっかり……」
「さあ、僕にもわからない。ただ僕は、約束が守られることを望んでいるだけさ」
変わらぬ微笑がそこにある。ソフィにはもう、それが肉親の笑みには見えなかった。
「父さんたちは、幼い僕らに言った。ソフィこそがこの里を導く者。それには強くなくちゃいけなくて、弱い人間に価値なんて無いんだと」
「…………」
「この世が信頼で動いているのなら……言葉通り最強の首領を造り上げ、弱い人間を排除するのが筋だ。そうだろう? 有言実行こそ長にに求められるものなんだ」
だから、それを遵守するために動いているというのか。
ソフィは知っていた。彼はもし機会があるのなら、自分が長になっても良いと考えていたはずだ。そうでなければ、ライウ王子にあんな質問はしないだろう。
けれど何よりも、ライグリッドは約束が果たされることを望んでいる。その執念がどこから来るのか……当事者たるソフィにも、推し量ることができない。
「心配しないで、ソフィ」
ライは体を離し、こともなげに言う。
「君が首領になったら、僕が全力でサポートするよ。治癒師になるのだってそれからで良いじゃないか。共に父さんたちの理想を果たそう。そうじゃなきゃ……意味が無いじゃない」
ソフィはその場に崩れ落ちた。ライはそんな姉を見て満足げな表情をすると、踵を返して歩き出す。
「さ、買い物に行こう。あんまり遅くなると怒られちゃうよ」
頬に涙が伝っていた。結果はどうあれ、全てを吐き出した達成感のようなものと……それを飲み込む不安感が、ソフィの心を覆った。
わからない。これからどうなっていくのか、何一つわからない。
(もし私が、もう少し頭が良かったら……ううん、そもそも武術が出来たら……)
頭が良ければライを説得できたのか。武術が少しできたところで、それが意味を成すのか。
考えても考えても、結局答えは出なかった。




