53:運命のモリアデス
「…………っ!!」
フレーは駆け出した。後から二人も付いてきてくれることを信じて、ひたすらに地面を蹴る。半ばパニック状態で噴射は行えなかったが、体感ではそれと同じくらいのスピードが出た。
もう眠気など吹き飛んでいる。今フレーを突き動かしているのは、本能的な恐怖だ。
(何あれっ、何で、何で……ッ!?)
戦わずともわかる。あの少年の強さ……きっと自分が何人かで束になっても、容易に返り討ちにされるという事実が。
逃げなければ。今すぐ全員でここから離れ────
「傷つくなぁ」
「……えっ……」
少年は目の前にいた。全力で走っているはずのフレーの前で、構えも取らずに棒立ちしていたのだ。
「そんなことされたら、強制的に連れてくしかなくなるじゃない」
突如、空間が歪む。立っていられず、フレーは思わず地に手をついた。何かに振り落とされそうな気がして、その場から動くまいと必死に体を強張らせる。
次に周囲に現れたのは、先ほどと変わらぬ星空と、四方八方に掲げられた橙色の明かり。
そしてフレーたちを取り囲む、見るからに屈強な人間たちだった。
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「ん…………」
言いようのない不快感の中、エディネア・モイスティは目を覚ます。
何だか辺りがかび臭い。例えるなら、シュレッケンで最初に使った、手入れのされていないベッドのような。
次に感じたのは、お尻の冷たさと凝り固まった体の感覚だ。朦朧とした頭で、とりあえず伸びをしようと万歳の姿勢を取る。
その途中で、両手が何かに引っかかって動かないことに気が付いた。
(え……)
手だけでなく、足もだ。体の様々な自由が制限されている。
「は、え……!? 嘘……!!」
思考が鮮明になると同時に、胸の奥が冷たくなる。
自分が石畳の上に座らされていること、手足を鎖に繋がれていること、目の前には鉄格子があること。
そして、自身の最後の記憶……
(あぁ、そうだ……)
全てを思い出すと、不思議と気分が落ち着いた。来るところまで来てしまったという諦めと、表しようのない絶望感が胸中を満たす。
「……私は、あの部屋であいつに……」
そこは牢獄だった。耳を澄ますとわずかに他者の息遣いが聞こえてくる。真っ暗闇の中で、顔は認識できないけれど……同じく捕らわれた人間たちが怨嗟の呻き声を上げていた。
「あう……ううっ、ひぐ……」
涙と嗚咽が溢れてきた。迷惑にならないよう、なんとか声を押し殺す。
髪も乱れ、目も酷く腫れ……きっと今の自分は酷い顔だ。涙が体に落ちた時、唯一服装だけがあの時のままだと気が付いた。
(何回見ても、恥ずかしい格好……)
皮膚に張り付いた生地はとても薄く、少しの外気も通してしまう。ぬるい空気を纏う空間が、急に極寒の地のように思えてきた。
寒い。身も心も震える思いだ。
「フレー、ザン……マインド……」
鎖を引っ張り、そっと自分の体を抱く。愛するホメルンで、大切な仲間たちと一緒に育ってきた体だ。
フレーは出たがっていて、ザンも退屈だと言っていたけれど……エーネはあの村がとても好きだった。
「お願い……どうか、お願いですから」
消え入りそうな祈りを込める。
「どうか最後にもう一回……フレーたちに────」
「おい」
それはどこか聞き覚えのある、腹に響くような低音だった。
自分の世界に入り込んでいたエーネは、突然話しかけられた驚きに息を詰まらせてしまう。
「お前、今何と言った?」
「な、何って……」
「質問に答えろ。誰の名を呼んだ」
威圧するような、有無を言わせぬ口調だった。選択の余地無く、エーネは正直に答える。
「わ、私の……友達の名前です。フレー……は、あだ名、なんですけど……」
「……そうか。そういうことか」
鎖が持ち上がる音がした。暗闇に慣れてきたエーネの瞳が、格子の奥で揺れる誰かの姿を捉える。
「その髪、見覚えがあると思っていた。勘違いではなかったようだ」
「…………!!」
「数日ぶりだな……エディネア・モイスティ」
蘇る様々な記憶。エーネはこの男を知っている。
それどころか、看病をしたことさえも。
「互いに、年貢の納め時というわけか」
「…………そう、みたいです」
エーネは小さく笑った。見知った人間に巡り合えた安心感と、彼さえもここに捕らわれているという、逃れようの無い事実に打ちのめされながら。
「久しぶりですね……グレイザー」
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「……は……?」
その呟きは、先ほど後方にいたはずのザンのものだった。慌てて体を捻ると、自分と同じように座り込む彼とマインドを視認できた。
三人を取り囲む群衆の向こう側に、フレーは確かに建物を目にした。レンガ造りの、どこか古典的に思えるそれらは……
(あれ、い、家……?)
突然出現した明かり、人間、建造物……先ほどまでの平原は見る影も無かった。
「あの場所が何か変わったわけじゃないよ。君たちが移動してきたんだから」
フレーの心中を察してか、少年のそんな声がする。少し間をおいて、彼はフレーの正面に出現した。
「空間移動。体験するのは初めてでしょ?」
ザンが抜刀し、フレーとマインドが腕を掲げる中、少年はまた笑った。今度はくつくつと含むような笑いだ。動けない三人に、彼は懐から取り出した玉のようなものを見せ付けてくる。
「これ、魔道具なんだ。王都でしか使われてないけど、僕は特別に譲り受けたんだよ。すごいでしょ? 魔力が込められていれば、魔法使いじゃなくても使える……その本人が行ったことのある場所に、一瞬で移動できるんだ」
フレーはやや遅れて気が付く。この地の空気の薄さ、肌寒さ……そして遠方に立ち込める濃い霧の匂い。
────地上から大きく突き出た岩地……陸の孤島に居を構える、戦闘民族の里。
言葉よりも先に感覚で理解した。ここがいかに、地上から離れた場所であるかを。
「んんー? お姉さん、何か聞きたいことがありそうだねぇ」
「……どこに、いるの」
フレーは震えを押し殺し、必死に声を絞り出した。
「エーネは、どこにいるの……!!」
「ん、ふふ……っ」
お面の少年は体を揺すり、顔を俯かせる。
彼が次に発したのは、それまでよりも一段階低い声だった。
「エーネ、エーネかぁ……慣れない呼び名だね」
「し、質問に答えて! エーネはどこ!! お願い、顔が見たいの……!」
フレーたちを囲むギャラリーは、真剣にこちらを見ている者、逆に目を合わせようとしない者など様々だった。
共通しているのは、誰一人として身動きを取らないということ。そしてその目にどこか、畏怖の感情が宿っていることだ。
フレーの哀願を受け、少年は自分のお面に手をかけた。
「ふふ、うふふふっ……そのエーネって子は、もしかして……」
少年の素顔が露わになる。汗一つかいていない、その涼しい顔面を見た時────
フレーは思わず、目尻に涙を滲ませた。
(エーネ……っ)
一体今まで、どんな思いで。
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グレイザー・ザ・フェンダー、群都市ビートグラウズの守護者。自分たちと共に、ポイズン・ガールズを打ち倒すはずだった者。
暗闇越しに薄っすらと彼のシルエットが見えた。エーネと同じように鎖に繋がれ、胡坐をかいたグレイザーは、相変わらずの印象的な長髪を垂らしている。
顔は判別できないが、じっとこちらを見ているのは何となく感じられた。
「……あの、グレイザー」
「何だ」
「み、見えてますか? こっちのこと」
こんな状況でも羞恥心は働くらしい。目下のエーネの疑念は、同じく捕らわれた彼が、どのようにしてここで生きてきたかではなく……
彼がザンのような暗視能力をもって、エーネの際どい服装を認識していないかだった。
「何故そんなことを聞く」
「そ、その……私今、ちょっと服が……」
「……それは、今言うべきことか」
棘のある声に、エーネは押し黙る。こんな話でもしていないと、泣き出したいのを堪えられないのだ。
「お前から話があると思ったんだがな。その様子じゃ、まともな判断力も失ったか」
「……判断って、何の話です? 今できることなんて何も無いのに」
水を操ったとて、せいぜいこの汚れた床を掃除できるくらいだ。ここから出られるわけでもなければ、出たところで未来があるわけでもない。
何故そう断言できるのか。それはエーネが既に、自分の状況を完全に理解しているからだ。
「気付いて……ますよね?」
「…………」
「どうして私だけがここにいるか。何で……戦う力もほとんど無い私が、わざわざ捕らえられたのか」
「はっ……」
グレイザーは鼻で笑って、壁にもたれかかった。
「貧弱そうなお前のことだ。大方奴に襲われ、一人だけ逃げ遅れたんだろう」
「……ぐすっ……」
「おい、冗談だ」
泣き出したエーネに、グレイザーがいっそう低い声を出す。煮え切らない態度を取る自分にイライラしているようだ。
「お前、後悔しているな」
それは非常にシンプルで、ストレートな表現だった。
「言うべきことを言わなかった。その結果、取り返しのつかねェことになった。だからそうして泣くことしかできないんだろう」
「ど……どうして、それを……」
「答える義理は無い」
「……グレイザー、私……」
両手を合わせ、太ももの上で強く握る。
改めて自分の感情を認識すると、その言葉は思いの外スムーズに出てきた。
「怖いんです」
守護者は何も言わない。そこには、エーネのための時間があった。
「色んな事が怖いんです。痛い思いをするのも、高いとこに上るのも……私の過去を、知られるのも」
「…………」
「フレーとザンは、きっと受け入れてくれるってわかってる。でも、ずっと話せなかった。思い出すだけでも、嫌だった」
震えながら息を吐いて、エーネは体の力を抜く。
「……なんていうのも、本当は建前なのかもしれないです。私が話せば、向き合わなきゃいけなかったから。今でも時々夢に見る……私の恐怖そのものと」
「数奇なものだな」
グレイザーの感想は短かった。
「誰もが羨む魔法……それをもってしても、何一つ手に入らなかったというわけか」
「……はい……」
「して? もう終わりなわけか」
涙に濡れた顔で格子の奥を見やる。彼の猛禽類のような目が、鋭くこちらを捉えている気がした。
「……グレイザー、励ましてくれてるんですか……?」
「変なところで前向きな女だ」
「……縋りたいだけです。でも……」
まさか……最初に話すのが彼になるなんて。昨日までは夢にも思っていなかった。
「せめて最期に、聞いてくれませんか? 私の秘密……今までずっと、隠してきたこと」
右目に手をかざし、顎を引く。
かつて両親に教え込まれたあるべき作法。エーネは精一杯不敵に笑いながら、忠実にそれを再現した。
「まずは改めて、自己紹介しないとですね。八年間、偽名で通してきたから」
「お前……! その、顔は……っ!!」
「……これが、人間関係か」
ザンがこめかみに青筋を立て、マインドが小さく俯く。
フレーの涙に向け、右目に手をかざした少年は……不敵な笑みを浮かべた。
「大げさだなぁ、みんな。君たちは選ばれし客人なんだ。穏やかにさ、自己紹介と行こうよ」
さっぱりした銀の髪に、色違いの金の瞳。
もしも髪型が同じだったなら……きっと誰もが見紛うことだろう。
「初めまして、炎のお姉さん。僕の名は、ライグリッド・モリアデス」
「こんばんは、グレイザー。私はソフィ……ソフィネア・モリアデス」
それは奇しくも、同じ夜、同じ時の出来事だった。
「ようこそ、我らがソールフィネッジへ」




