52:懐かしき出会いの日
「はあっ、はあ……」
日が沈んでから数刻。
一面に続く平原に疲労困憊となり、額に汗を浮かべたフレーが膝を掴むと、マインドがこちらを振り返った。
「フレー、発汗と動悸がすごい。特に動悸……二人とも、多分心理的要因から来るものだ」
「ま、マインド……エーネに言ったら怒りそうだから、やめてあげてね?」
本当はまだまだ進むつもりだったが、こうも的確に分析されては敵わない。今日はここいらが潮時だろう。
「ただでさえ寝てないからな。この辺は岩場が多いし、安全そうだ」
そばに来たザンがシートを広げ始めた。フレーは手伝おうとするが、彼に手で制される。
「お前は休んでおけ。万が一の時には、お前の噴射が必要になるんだ」
「うん……ありがと、義兄さん」
「都合の良い時だけやめろよ、気持ち悪い」
「え、ひどっ」
そんなこんなで火に当たると、少しずつ体が解れてくるのがわかった。
人数は以前と変わらぬ三人だ。しかし、エーネはここにはいない。
────フレー、私たちはやるべきことがあるでしょ! このまま寝る気ですか。
(水浴び、したいな……)
二人で裸になって大慌てしたあの夜が、遠い昔のようだ。
「ねえ、二人とも」
フレーたちの暗い心情を慮ってか、マインドが小さく言った。
「聞かせてよ、エーネのこと。僕の知らない話、いっぱい……」
「……エーネのこと、か」
ザンは思い起こすように目を細め、視線を星空に向ける。
「割と見たままだけどな。臆病で鈍くて、でも心優しい……そんなやつだ」
「んふふ……初めて会った時はね。全然喋らなくて、いっつも泣きそうな顔してたんだよ」
────私、フレイング・ダイナ! フレーって呼んで! そっちはお名前何て言うの?
────えっ…………ィネ……ぁ、あの……
────エ、ネ? エーネ?
────あ、えっと……
────エーネちゃん、初めまして! ちょっと待ってね……ザン、ザーンっ! なんかボロボロの子がいるー!
「あの時のお前は酷かった。何かと思って駆けつけたら、お前が見たことの無い銀髪の子を指差してて。実際ボロボロだったし、急に叫ばれたその子は泣いてたし……」
「ご、ごめん……今思うと、結構最悪だよね……」
村の大人たちから、どこから来たのかを問われる。口を閉ざしたまま、幼いエーネはビートグラウズの方向を指差した。
村人たちの驚き様は凄かった。何せ当時既に治安は良くなく、非力な少女が一人で街から渡って来られたのは、とても幸運なことだったからだ。
「結局エーネはそのまま村の子になったんだけど……何か時間かかってたよね」
「手続きだな。見るからに逃げてきた感じの子でも、勝手に住まわせるのはまずいって判断なんだろ」
「そっか、確かビートグラウズに手紙を送って……」
当時の市長はまだゼノイ・グラウズだろう。大人たちの反応を思い出すに、結局エーネの身内とはコンタクトは取れなかったらしい。それならばと、彼女はホメルンの住民として登録されたのだ。
何らかの理由で親に捨てられたのか、それとも元から身寄りが無かったのか。
いずれにせよ、エーネはビートグラウズ周辺から来た孤児……それが最近までのフレーたちの認識だった。
────フルネームはなんだ?
────ふ……フルネーム?
────ああ、苗字は無いのか? それと、例えばフレーの本名はフレイングだし、そっちももっと長い名前があったりしないかなって。
「あの頃から変わらないよね、ザンの圧迫面接」
「うわぁ……」
「おい、そんなに怖くはないだろ。変なことを教えるな」
エーネはたじたじになっていたが、確かにフルネームはフレーも気になっていたところだった。
彼女は何度か吃りながら、改めて名前を教えてくれた。
────え、エディネア。エディネア、も……モイスティ。私の名前……
────エディネアって強そう……! でもあだ名が可愛いから、やっぱりエーネちゃんって呼ぶね。
────そうだな。改めてよろしく、エーネ。
────お、教えた意味……
やや呆れながらも、エーネは笑った。彼女の笑顔を見たのはそれが初めてだった気がする。
エーネが孤児院に入り、フレーたちと遊ぶようになってしばらく経った頃。
何やら覚悟を決めた様子の彼女から、二つの衝撃的な事実を告げられた。
────あのね、フレーちゃん。話があって……
────話?
────二人とも、私のこと小さい子みたいに扱うけど……わ、私ちょっと前に、十歳になったんです! だからその、一応はお姉さん、というか……
フレーもザンも、あの時は開いた口が塞がらなかった。
その時点でフレーは八歳、ザンは九歳だ。エーネはまさかの最年長者だったのである。
「背は若干エーネの方が高かったけど……痩せててびくびくしてたから、余計年下に見えたのかな」
「そっか……じゃあ、エーネは随分成長したんだ」
「な、何でだろう……ただの感想なのに、悪意があるように聞こえる」
────びっくり……だけど誕生日おめでとっ、エーネちゃん! あとでプレゼント買ってくるね!
────えっ、あ、ありがとう……じゃなくて! き、聞いてた……?
────俺より年上なのか。エーネ……さん。あの、お前とか言ってすみません。
────あ、それは全然気にしてな……違う! ねえ、次が本題なんです。先に進んで良いですか……?
フレーとザンはふざけるのをやめ、彼女に向き直る。
エーネは青い顔で深呼吸し、手を胸の前に持ってきた。そして彼女が左腕を横に払うと、突如として、空中に水の塊が生み出されたのだ。
────二人には言っておきたくて……私、魔法使いなんです。でも全然力は無くて、むしろ……
その澄んだ水に目を奪われ、フレーはしばし呆然とした。次の瞬間出てきたのは、歓声に近い声だ。
────すごい! すごいすごいっ!! ザン、見た!? 水出てたよね! 水の魔法使いだよ!
────ああ……驚いた。珍しいんじゃなかったのか……?
────め、珍しいとは思います。一応治癒の力もあって、で、でも全然強くなくて……がっかりかもしれないけど……
────気にするのそこ? てか二つもあるんだ! じゃあ見て見て、えっと……あの切り株!
興奮したフレーは、村の広場にあった切り株に手のひらを向けた。目を瞑り、じっと意識を集中させて叫ぶ。
────ラン・フレイム!
────ええっ!?
宙を走る炎。一瞬で燃え上がった切り株を見て、今度はエーネが声を上げる。
フレーがどや顔をしている間に、気が付けば火は隣の木に燃え移りそうになっていた。
────あ、やばっ!
────このアホ! 村の中でぶっ放すなって前も……!
────だ、大丈夫です、ほら……
エーネが言うと、先ほどより多めの水が切り株に向けて落ちてきた。即座に鎮火が行われ、フレーは胸を撫で下ろす。
────さ、さっきもだけど、遠くからやれるの……!?
────う、うん……というか、私以外にも魔法使いが……それも、同じくらいの年の……っ!
そこからエーネが泣き出すのに時間はかからなかった。訳がわからず、二人でおろおろするばかりだったことを覚えている。
「そこからだよ。エーネのほんとの性格が見えてきたの」
「色々とすっぽり収まるんだよな、あいつがいると」
────水に乗って丘から下る!? そ、そんな怖い遊び絶対やらない!
────何故です! 三人もいて、全員料理が下手なんてことある……!?
────フレー、その膝……
────あ、うん……ちょっとぶつけちゃって。気にしないで。
────そう言っても、血出てるじゃないですか。ほら、座って。
エーネはフレーに寄り添い、そっと手のひらを膝にかざす。温かい感触が、痛む足を包み込んだ。
────えへへ、気持ち良い……
────もう十二歳でしょ、フレー。ちょっとは気を付けないと。
────ごめんごめん。エーネが治してくれるから、つい。
────……普段は水にしか注目しないくせに。本当に、落ち着き無いんですから。
エーネは呆れたように言ってから、仕方ないなという風に笑う。
その顔は……初めて見た笑みの何倍も眩しく、そして可愛らしかった。
────でもきっと……私たちはずっと一緒にいる。だからフレーの傷は、これからも私が治します。何があっても必ずねっ!
「会いたいよ……」
フレーは、いつしか自分の頬に涙が伝っていることに気が付いた。急いでそれを拭うも、一度決壊したら止まらない。
「フレー……! ごめんね、泣かせるつもりじゃ……」
「ううん、私こそごめんね。眠いから、ちょっと弱ってて……」
マインドが切ない声を出す中、ザンが背中に手を置いてくれる。涙がこぼれないよう空を見上げると、そこには満天の星が輝いていた。
フレーはふと、人生で最も星に近づいた日のことを思い出す。
「リアンさんのことを想うグレイザーも、こんな気持ちだったのかもな」
フレーの考えを代弁してくれたのはザンだった。彼の手による温もりと、体は冷たいマインドの暖かな優しさに触れ、本格的に眠気が襲ってくる。
「……そろそろ横になろっかな。体も拭けないし、やることないもんね」
「はは……風呂に拘るあいつの気持ちもわかるな。ここから十日はきつそうだ」
「女子としては最悪だよ。マインド、前も言ったけど……絶対余計な事言わないでね」
「うん、黙って記録だけにしとくよ。シーネから、人間の生態は逐一調査するよう言われてるんだ」
「だからそれが余計なことなの!! そのシーネって人は何なの!?」
疲れる会話だったが、この日常こそフレーが大事にしているものだ。またエーネに加わってもらうためにも、今は。
今だけは……
「パンパカパーン!!」
突如聞こえた場違いな掛け声。それはこの中の誰とも異なる、陽気な少年の声だった。
あまりの驚きに、フレーは思わず飛び上がりそうになる。今にも手を叩きそうな物言いが、暗い夜の雰囲気と合っておらず、余計に困惑させられた。
「おめでとう、君たちは記念すべき人間だ! この僕が言うんだから間違いないよ」
「……っ!? 誰だ!!」
全員で弾かれたように立ち上がり、背中合わせになる。しかし三方向から見ても声の主は見つけられなかった。
「マインド、探知は!」
「引っかかってはいる。でも、途切れ途切れに……」
「ノーブル・フレイムっ!!」
フレーは即座に火柱を作り出した。野盗に見つかる恐れよりも、マインドが探知できないという存在があまりにも異質で、迷っている時間すら惜しかったのである。
「うーん、そんなに警戒しなくても。ここだよ、ここ」
そんな言葉と共に……突如として謎の人物が、まるでそれまで透明だったかのごとく眼前に出現した。
「こ、こいつ……どこから……!」
「何でかなぁ。最近みんな、僕を見る目が怖いんだよねぇ。お面を付けてきても意味ないや」
少年はとても小柄だった。フレーより若干高い程度で、ザンとはしっかり差がある。声も高く物言いも子供のようである一方、大人びた灰色の服に気品のあるマントを身に着けており、あまり年齢が低いようには感じられない。
何よりも目を引くのは、顔全体を覆う獣のお面だ。見慣れない動物を象ったそれは、彼の口の動きに合わせてカクカクと上下する。既に消えかかっていた火柱の残り火に照らされ、あたかも物の怪のような様相だった。
「っ…………」
「あれ、お姉さん怖がってる? 大丈夫、僕たちは全てを受け入れるよ! だから君たちにも全てを受け入れてほしいんだ!」
「……君は誰? 何が目的?」
「そんなの決まってるじゃない。PRだよ、PR! 僕らの里は現在、危機的状況なんだ」
そこまで言うと、彼はふと視界から消えた。フレーたちがその事実に気付くと同時に、背後から声がした。
「悪い噂を流した人がいてさ。すっかり人が寄り付かなくなったんだよ」
「っ!?」
(い、今の一瞬で……!?)
「今の僕は観光大使だ。少しでも良さを知ってもらって、また近くに来てほしくてさ。でもいきなりよそ様の街に行ってもあれだと思って、一計を案じたんだよ」
少年は指を立て、楽しそうに言う。
「次通る人を、街に招待しようと思って! 滞在期間は数日、その間はご飯も寝床も何もかも無料! どう? 楽しそうでしょ」
彼はまたしても視界から消えた。再び、フレーの背後に姿を現す。
「終わったらまた元いた場所に送り届けて、周りに里の良さを伝えてもらうんだよ。できれば偉い人がいいな。そうしたらまた良い噂が流れて、どんどん人が寄ってくる!」
「…………」
「ああ、でも適当に選んでるわけじゃないよ? ちゃーんと条件があるんだ」
少年は笑う。それはどこかくすぐったそうな、不思議と聞き覚えのある笑い声だった。
「僕の里に訪れる人は、ある程度強くないとね。弱い人間に……価値なんて無いし」
夜風が肌に染みる。一日中歩いてかいた汗はすっかり引いて、ただ冷たさだけが体を覆う。
「安心して。君たちはその条件に合致したんだ! だからほら、おいで……」
少年は手を差し出してきた。フレーはその場から動けず、ただ唇を震わせるばかりだ。
「一緒に来て、共に最高の時間を過ごそう! ね……フレイング・ダイナさん?」
「……フレー」
そんな自分を正気に戻してくれたのは……こちらを見ることすらできないザンが、かろうじて発した言葉だった。
「逃げろ……ッ!!」




