51:幼馴染の行方
それは暗雲立ち込める、湿気で肌のべたつく夜のことだった。
空を切り裂いたような断崖絶壁を背に、少女は彼と対峙する。
戦う前からわかっていたことだ。勝てる未来などありはしないと。少女の水は、彼を押し流すにはあまりに弱く。その治癒は、彼の雷のごとき打撃による傷を、癒すことはできない。
負けたら死ぬ。全てが終わる。それは少女にはあまりに恐ろしく、悲しい現実だった。
だからあの日、ソールフィネッジの頂で。
その何もかもを投げ出した少女は、慣れ親しんだ地表に別れを告げ────
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「本当に行くのか? また、君たちだけで」
これまでのいきさつを聞いたエルディード・レオンズは、事態の重さに手をわななかせていた。
一難去ってまた一難だ。フレイング・ダイナは重たい瞼を擦り、怒気を孕んだ声で言う。
「考えるまでも無いよ」
一晩中エーネを探し回り、全てが徒労に終わった後。正午を回らぬ内に、既にフレーたちは出立準備を整えていた。
「エーネが攫われた。犯人は一人しかいない」
「……気配すら感じなかった」
無表情のままそう言ったのはマインドだ。しかし、声のトーンがやや低い。探知機能をもってしてもエーネを見つけられなかったことに、責任を感じているらしい。
ライグリッド・モリアデス。彼が守護者グレイザーを拉致し、エーネをも拐かした人物であることは、もはや疑いようのない事実だった。
たった一人で王国軍を退けるほどの力を持ち、人外と呼称される男。いくら一人になったタイミングだったとはいえ、全く痕跡を残さずエーネを攫い、誰にも補足されずに街を去るなど、人間業ではない。
腑に落ちないのは────
「何故、エーネを狙った?」
ザンが憎々しげに吐き捨てる。
「奴は『腕に覚えがある者』を狙うと聞いた。エーネに戦闘は不向きだし、恐らくその類じゃない。情報に齟齬があるな、ポイズン・ガールズ?」
「……そんな目で睨んだって無駄よ。その話はとっくに結論が出ているじゃない」
鎖に繋がれたマニー・エーションが、辟易したように言った。
「エディネア・モイスティは、明らかに一人になったところを狙われた。奴ほどの実力があれば、パーティ会場を襲撃することだってできたのに」
「それって……」
「初めから、モイスティだけを狙ってここに来たのよ。つまりそういうことじゃないかしら?」
マニーは続ける。初めからわかっているだろう、と言わんばかりの口調で。
「個人的に付け狙われるような理由が、あの子にはある。つまりモイスティは、ソールフィネッジの関係者。違う?」
フレーは唇を噛んだ。後悔で胸がいっぱいになる。
「……そう。そのことについて聞くために、私たちは昨日エーネを追った。あと少し……ほんの少しだけ早ければ今頃……!」
「だ、ダイナさん、落ち着いて。モリアデスって人は、化け物みたいに強いんでしょ? 鉢合わせてたら殺されてたかもしれないわ」
「……望むところだよ。エーネに手を出してるところを見たら、こっちから攻撃してる」
ペトレがこちらを気遣う声も、あまり耳に入らなかった。感情が昂り段々と抑えが効かなくなる。
「私とザンは、ずっとわかってた。エーネが自分の話を隠したがってること。私たち、もう八年も一緒にいるのに……エーネの故郷のことすら知らないんだよ?」
「…………」
「音楽ホールでパニックになったエーネを見て、ザンは帰ろうって言った……! だけど私は……!」
思い起こされる、エーネの激しい息遣い。怯えた表情。
「私はポイズン・ガールズを……マニーたちを倒すことを優先した! その結果がこれだよ!!」
「ああ、そうだ。だがお前は……!」
「言い訳できないよ……エーネは不安を押し込んで一緒に戦ってくれて、それなのにっ!!」
また取りこぼすのか。この期に及んで、自分はまた……
「冷静になるのです、ダイナさん」
涙が溢れてしまいそうなところに割り込んできたのは、レイティ・ロベインの毅然とした声だった。体の芯を震わせる重厚さに、思わず顔を上げる。
「あなた方のおかげで、我々は救われたのです。モイスティさんがいたから、蘇った私たちはすぐに綺麗な水を飲むことができた。あなたがそれを否定しては、モイスティさんと、何よりあなた自身の頑張りを損ねることになってしまいます」
「……っ……」
「フレー、俺も同じ思いだ。あの時のエーネは心配だったが、今となっては、計画の続行を決意したお前は正しかった。だって……」
ザンはエルドとレイティを交互に見て、力強く言った。
「二つの街を……この人たちが築く世界を、俺たちで守れたんだからな」
彼の言葉で、フレーはようやく落ち着きを取り戻す。
ザンとて今の事態を恐れているだろう。けれど彼が……これまでの全てをフレーと共にした彼が、そう言うのなら。
「じゃあ、頑張ろうね」
マインドが何でもないことのように言った。声のトーンは戻っている。
「人外同士の戦いなんて、燃えるじゃないか」
「……なあ。お前、機人の中ではそこそこってとこだろ? 番号もなんか早そうだし、ぶっちゃけ人間の十倍ってほどでは……」
「あー、それ以上言われると、僕シュレッケンに永住しそう」
他愛のないやり取りに、フレーは思わずくすりを笑う。
話が一段落したのを見て、それまで無言だったピューレが口を開いた。
「じゃあ、あなたたちには、これ」
彼女は姉と同じく鎖に繋がれた手を伸ばし、持っていた黒いカバンをフレーに差し出した。ちょうど先ほどから気になっていたのだ。
「これは?」
「……私たちの、少しばかりの、お気持ち。お姉ちゃんが、あの話をした、責任を感じてて……」
「か、感じてないわよ! 余計なこと言わないでピューレ!」
姉妹の言い合いをよそに、三人は渡されたカバンを覗き込む。
まず初めに、見慣れた武器が目に入った。
「こ、光銃……!?」
「そう。三人分しか、無いけど。特に機人は、エネルギーが切れやすい。ソールフィネッジに、電力は無いから……これ使って」
「ありがとう。助かるよ」
マインドは淀みなく礼を言う。ピューレは目を細め、マニーが少し赤面した。
「ん? こっちは確か……」
引き続き中を見ていたザンが声を上げた。その手には、光銃より小さな黒い箱が握られている。
「それは、通信機」
ポイズン・ガールズ御用達の機器だ。何度か見たことがあるので、用途はばっちりである。
「二組あるわ。もう一個灰色のがあって、そっちはレオンズに預けてる。黒はあなたたち用の予備ね。モイスティと、ついでに守護者を助け出したら、灰色ので連絡しなさい」
マニーの目が、くれぐれも変な気を起こすなと訴えかけていた。フレーはその意図を察し、今一度頷く。
今回の計画は、シュレッケンに潜入した時とは大きく異なる。ライグリッドと戦うのはあまりにもリスクが大きい……よって彼に勘づかれないよう、また勘づかれても誤魔化しながら、上手く二人を救い出すのだ。
後のことは、二人を助け出し、その場を離れてから考えれば良い。
「……馬鹿げてるわ。モリアデスの脅威は説明したはずなのに、三人だけで行こうとするなんて」
マニーの言葉にはれっきとした恐れが滲んでいた。才気溢れる彼女がこうも他者に畏怖の念を示すのは、改めて異常なことだ。
「だって軍を向かわせても危ないだけだし、エルドさんもレイティさんも復興で忙しいし……それにマニー」
フレーは学園の屋上での出来事を思い出し、声を潜めて言った。
「もし妹が同じ目に遭ったら、そっちだってそうするでしょ?」
「…………そうね」
マニーは目を伏せ、自嘲気味に笑った。色々複雑な思いはあれど、責任を感じているというのは本当の話だったようだ。
「それほど覚悟を決めているというのなら、僕は何も言えない」
話しの締めくくりにエルドが口を開く。
「悪いなエルド……また心配をかける」
「二連続というのは辛いね。でも今の僕には、長として街を守る仕事がある。彼がいつ帰ってきても良いように、ね」
エルドはザンに向けて手を差し出した。彼もその手を固く握り返す。
それはかつての敵との、紛れもない友愛の証だった。
「信じているよ、ザン。必ずグレイザーとモイスティさんを……あの魔境から救い出してくれ」
「ああ。今度全員無事で会えたなら、手合わせでもしよう。俺もあの投擲、練習しておくよ」
「僕のアイデンティティだから、それはやめてほしいな」
心を許せる同性との会話に、ザンの顔は輝いていた。それを見て喜ばしく思う反面、エーネの不在を突きつけられているようで、フレーは少し寂しくなる。
そんな折だった。
「ダイナさんっ!!」
「わっ!?」
何やらうずうずしていたらしいペトレ・ロベインが、勢いを付けて抱きついてきた。
「ペトレ! いきなり人に飛び掛かってはいけません!」
「ご、ごめんなさい! でも、最後にどうしても言いたくて」
ペトレは慌てて離れ、フレーと正面から向かい合った。
「ありがとう、あなたは私の恩人よ。ビートグラウズに来たら、是非遊びに来てね」
「うん、ペトレも元気でね。夢に向かって頑張って……って、言うまでも無いか」
「えへへ……ねえ、エーネさんをあだ名で呼んでるから今更だけど……私もフレーさんって呼んでもいい?」
「……! うん、いいよ!」
フレーの事をそう呼ぶのは、今まで村の人間だけだった。これもまた親愛の印だ。
フレーたちが去る前に、皆で最後の一時を過ごす。誰もが漠然と抱いていた緊張が溶けていき、それぞれが思い思いに語らっていた。
「レオンズさん、レオンズさん。この鎖、痛い」
「……黙ってください。もっと厳重にしても良いのですよ?」
「!? 厳しすぎる……!」
「ピューレさん、当たり前よ。私たちが何をしたか考えれば……」
「……でもあの人、ペトレには甘い。きっと、ロリコンなんだ。私の中でペトレは、ギリギリロリ」
「ろ、ロリじゃないわよっ! それにロリコン自体に罪は無いでしょ、多分……」
「聞こえていますよ? ピューレ・エーション、反省の色は無しですか」
「うっ……いつか、もっと柔和な態度、取らせてやる……」
どうしようもない会話が繰り広げられているかと思えば、気になる話も聞こえてきた。
「ロベイン。あんた、ビートグラウズに行ってどうするわけ?」
「何故あなたに話さねばならないのです?」
「……別に。気になっただけよ」
「娘はきっと、何らかの施設に入ることになるでしょう。親として娘の社会復帰を手伝いつつ、見守っていく……今の予定はそれだけですよ」
「ふーん……あんたが抜けたら、この街の市長選は久々に激戦になるでしょうね」
若干気が緩んで、眠気が襲ってくる。不眠だったことを思い出して目をこすると、マインドが話しかけてきた。
「こういう時、あまり会話に加われないのが寂しい」
「そう? マインドってなんか面白いから、きっとみんなウケてくれるよ。それに私も、昔はあんまり話すタイプじゃなかったし……」
「芸人じゃないんだけどね。でも、そっか。フレーも……」
マインドは普段ほとんど動かない口角を上げ、上目遣いにこちらを見てきた。
「何か、親近感湧くなぁ」
「…………!?」
記憶に残る台詞。自然と顔が熱くなり、そして思い直す。
(違う……マインドは、ただの機人……)
「フレー、そろそろ」
「あ……うん」
ザンに呼びかけられる。
「その時」を感じ取ったのか、全員が会話をやめてこちらを見た。
「じゃあ私たち……行ってきます」
様々な想いを込めて、フレーは語気を強めた。
「取り返してくる。大事な人を」
「……何かあったらすぐに逃げてください。無益な戦いはしないように」
「ママがそんなこと言うなんて……」
「あははっ……はい、気を付けます」
レイティの忠告を聞き届け、フレーは門の先を見た。一面に広がる草原。奥の方には、やや枯れた荒地も見える。
ソールフィネッジは遠い。マインド曰く、徒歩だと十日はかかるとか。
「待っててね……エーネ」
シュレッケンに赴く時よりも、はるかに強い焦りを感じる。けれどライグリッドが、一応は生身の人間であるのなら。まだこの近くにいるはずだ。
「大丈夫だ。希望はある」
「……うん」
行かなければ。今度こそ、助けるのだ。
フレイング・ダイナの名に懸けて。
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「お姉ちゃん、良かったの? 言わなくて」
「……言ってもあいつらを不安がらせるだけよ。どっちみち、行くのは変わらないんだから」
ビートグラウズに連行されるまでのわずかな時間。二人きりの留置所で、マニーはため息をつく。
「守護者が攫われたのはここ数日のことだわ。それで、昨日は新たにモイスティを連れ去った。あいつらがどこまで気付いてるかわからないけど……どう考えても、監禁のために里に戻ってる時間は無い。そもそも、ここ一か月の誘拐の頻度は尋常じゃないもの」
「……使ってるよね。キリアさんの、魔道具」
「確実にね」
あれは科学をはるかに凌駕する代物だ。ライグリッドはその持ち手に相応しいだろう。
「それよりも気になるのは、フレイング・ダイナの方だわ」
「フレイング・ダイナ……? 確かに、研究したかった……」
「あいつの魔法ね。まあそれは置いといて」
マニーは少し声を落とす。何となく、誰かに聞かれてはいけない気がした。
「胸騒ぎがするの。言い表せないけど……」
「…………?」
「おかしいと思わなかった? ホメルンだっけ。そんな辺境の場所から都合良く、稀有とされる魔法使いが二人……モイスティは結局、その村出身じゃなかったみたいだけどね」
「確かに……」
ピューレは唸る。天才的な頭脳による理論と、マニーの話す直感とが、彼女の中でぶつかり合っているようだった。
「ただ、確率的には、あり得ないことじゃない」
「そうだけど……科学でも、きっと魔法でも推し量れないこともあるはずよ」
今となってはもう何もできないけれど。マニー・エーションは、その拭い去れない違和感をただ忘れることはしたくなかった。
「私、考え続けるわ。何と言っても、科学者なのだから」
第三章、開始です。この章が物語の一つの区切りになります。




