5:旅立ちの朝に
翌朝、まだ寒気が立ち込める中、フレーは今一度掲示板の前に立っていた。
「やっぱり、案内これだけなんだ……」
改めて見ると、驚くほど簡素で、そして無責任な文だ。どう相手を「打ち倒す」べきなのか、何をもって王都で受け入れられるのか……そういった大事なことが何も記されていない。
それどころか、「特別な規則は無い」とはっきり謳われているのである。
────こんなの王がやっていいことじゃないのに……本当に何考えてるだろ……!
エーネの言葉が脳裏をよぎった。
(不安に思っちゃダメ。もう、決めたんだから)
フレーの出立は、昨日の襲撃の知らせと併せて、瞬く間に村中を駆け巡った。心配する者、激励する者様々がセイヴィア家に押しかけたが、ザンより先に帰っていたフレーは、頑なに彼らとは会わなかった。
会えばきっと、惜しまれるだろう。前日からそんな調子では、明け方に起床することすら困難になってしまう。こんな何も無い村だけれど、そこで全てを忘れ、何もせずに過ごしていくのも、甘い誘惑ではあるのだ。
初めは難色を示していた義両親も、最終的には義娘の選択を尊重してくれた。
「寂しくなるよ」
二人は口を揃えて言った。義母は特に終始泣きそうではあったけれど、仕事が休みだったこともあり、最後の夜のために豪勢な料理を作ってくれた。
役所勤めで、襲撃の後処理で忙しいはずの義父も、出立の準備を手伝うために仕事を早めに切り上げてくれた。
「ザンは? 昼から見てないんだけど……」
義父との買い出しを終え、思い出の眠る大切な場所に行き、軽い散歩をしてから帰ってきても、ザンはまだ帰宅していなかった。不審に思って尋ねると、義母は言いにくそうな表情になる。
「ああ、あの子は、今日は帰らないって。なんでも後処理を手伝って、今日は自警団員の家に泊まるらしくて……さっき知らせきにたのよ」
「……そう、なんだ」
ショックを隠しきれず、フレーは目を見張った。わざわざ自分が不在の時に連絡に来るなんて、よっぽど会いたくなかったのだろうか。今日で最後だというのに……
そんな疑問は、出立間近の時間になっても彼が現れなかったことで、ほとんど確信に変わった。
(エーネまでいない……)
大きな荷物を背負い、フレーは村の出口に立っていた。目指すは王都。それを見送りに来た数多の村人たちの中に、親友二人の姿は無かった。
「フレーちゃんなら、きっと良い旅にできるさ!」
「村は任せて! 帰ってくる時は、また元通りの綺麗な場所にしておくから!」
「無理だけはしないで、体を大事にね!」
そうとは知らない彼らの声援は、底抜けに明るい。フレーは寂しさを誤魔化すように笑い、それに乗っかった。
「自分で言うのもなんだけど……これ、結構危険な旅なんだよ? みんなわかってる?」
「関係ねえ! フレーちゃんに勝てるやつなんざおらんよ!」
昨日敗北を喫したというのに、村人たちのフレーへの信頼はかなりのものだ。自警団の人たちは少し心配そうな顔をしているのを見ると、フレーの面子を慮って、他言しないでおいてくれたのかもしれない。
(もう、今更か)
フレーは考えるのをやめた。ここまで来たら引き返す道などない……そんな思いで、皆との最後の会話を楽しんだ。
そうこうしているうちに、朝日が昇る。村から一歩出て振り返ると、建物の影から漏れた日差しが、フレーの橙色の髪を照らした。
「……それじゃあね、お義父さん、お義母さん」
「行ってらっしゃい! 気をつけてね、フレー!」
義両親に別れの挨拶をする。それからもう一つ、誰にも聞こえない、消えるような声で呟いた。
「それじゃあね、ザン。エーネ」
数日分の食料や衣類、お菓子、資金、大したことは書いていないが、何度も読んで黄ばんだ魔法の指南書や、その他の大事な品も完備だ。何度も確かめたから間違いない。
目指すは王都……とは言っても、当然一朝一夕で行けるような距離ではない。まずは目的地に向かいつつ、道中の街を渡り歩いて、鉄の饗炎の状況を見極めるのが賢明だろう。
「こっから行けそうなのは……『シュレッケン』?」
老人たちから借り受けた古地図には、ホメルン周辺の地理が描かれていた。王都への方角を地図を辿ると、端のギリギリのところに都市「シュレッケン」の文字が見える。
昔聞いた話によると、音楽が盛んで旅行者からの人気も高い、雅な街だ。村から近いもう一つの大都市ほどではないが、人口もそこそこ多い。
「近くで一夜明かすって手もあるけど……寄っても意味ないし、行くしかないよね」
野宿を挟んで歩けば、五日ほどで着くだろう。最近はもっぱら屋内での生活が多かったが、幼い頃は野を駆け回ったものだ。野外での生活の仕方も多少は心得がある。
大丈夫、自分なら行ける。この間のように油断はせず、一歩ずつ着実に進むのだ。
そう決意したものの────
(…………え)
村から出てわずか数刻のこと。フレーは道端で立ち止まった。
目の前には、全く見た目の変わらぬ分かれ道。それも綺麗に東西に伸びている。
地図上ではまっすぐ進めば都市に着くはずなのだが、既に想定外の事態が起こっていた。
「は……? これ、いつの地図……?」
託された大事な地図が、早くもただの紙切れにしか見えなくなってしまった。心細くなり後ろを振り返ったが、当然誰もいない。気がつけば辺りに木々が増えており、まだ日が高くないのも相まって、フレーはその鬱蒼とした雰囲気に飲まれそうになっていた。
(ど……どうしよう)
いっそこの木々を全て燃やしてしまうか。そうすれば道が開ける、などと考えたところで、そんな自然に失礼なことはできないと思い直す。
厳しい二択だった。間違えれば到着が遅れる上に、要らぬ危険に巻き込まれる可能性もあるのだ。
「とりあえず……こっち?」
一旦適当に進み、間違っていそうなら引き返そう。悩んだ末に、おずおずと足を踏み出した時だった。
「おい、そっちじゃない!」
「やったっ、私の勝ちです!」
どこからかそんな声が聞こえて、不意打ち食らったフレーは文字通り飛び上がった。すんでのところで悲鳴を堪えて辺りを見回すも、誰もいない。
「ここだ。下を見ろ」
「えっ……あっ!」
「おはよ、フレー!」
フレーが近くの木陰に視線を落とすと、そこには仏頂面で胡坐をかくザンと、上機嫌で何かを頬張っているエーネの姿があった。