45:私の全て
何一つ成し遂げられなかった。全てを変えられると思ったのに、結局昔のままで────
そんな思いを抱えながら宙を舞うペトレを、急速に接近してきた自分より大きな何かが鷲掴みにする。ここが空中であることを認識し、その出来事にぎょっとする頃には、ペトレは地面へと叩き付けられていた。
痛みはなかった。自分に抱き着いた何かが、あらゆる衝撃を吸収してくれたからだ。
「……ママ?」
草木が生い茂る薄暗い森林の中、掠れた声で尋ねると……
屋上から飛び降り、娘を守ろうとしたらしいレイティ・ロベインは、事も無げに起き上がった。
「怪我は無いですか、ペトレ」
「……最悪なことにね」
歯ぎしりして毒づきながら、ペトレも体を起こす。潤んだ瞳でこちらを見る母親に、憎しみを込めた視線を向けた。
「あのまま死なせてくれれば良かったのに……ママってほんと、最後まで最悪。最低」
「そんなこと、できるわけありません」
「何でっ……何で余計なことしたのっ!!」
立ち上がって、唾を飛ばしながら叫んだ。落下の時の恐怖がまだ残っていて、足元がふらつく。
「私は大罪人なのよ! これから生きてく方が辛いの! ママやベネツィアに頭を下げるくらいなら、今ここで死んでやるっ!」
「ペトレ、落ち着いてください。何故助けたか……そんなの決まっています」
レイティは涙を拭って、不器用に微笑んだ。
「あなたが私の娘だからです」
「なっ……うっ……!」
その笑みに、先ほどの幻視が蘇る。
幼き頃。鍛え抜いたゴツゴツした手で、頭を撫でてくれた母の姿……
すぐに、違うと思い直す。死の恐怖から解放され、心が弱っているだけだ。
「は、あははっ……」
ペトレは、母にも父にも似なかった乾いた笑い声を上げた。
「都合の良いことばっかり……! あれでしょ? 私を見捨てたら、市長としての体裁が悪くなるものね? ママったらすごいわ! あの一瞬で先を見据えて……私には到底真似できないわ!」
「ペトレ」
「それでどうするわけ? 自分の身を守るために、全責任を私に押し付ける? 実際ママは何も悪くないものね。どうやったら私だけに批判が集中するか、何なら一緒に考えてあげ────」
ペトレの言葉は最後まで続かなかった。自分でも何を話しているのかわかっていない娘を、レイティが強く抱きとめたからだ。
「あ…………」
「ペトレ、ごめんなさい。ごめんなさいね」
固まったペトレの耳元で、レイティは囁くように懺悔する。
「私の責任です。あなたの気持ちに気付けなかった。誰にも負けない強い子に育てようとするあまり……母親として、大切なものを見失っていた」
「や、やっと気付いたわけ……? は……離してよ。人が来るかもしれないでしょ」
「いいえ、離しません。今度こそ、あなたに寄り添うと決めたのです」
レイティは娘の後頭部に触れる。見慣れたお団子がそこに無いことに違和感を覚えながらも、ゆっくりと髪を撫でた。
「指導者となって街を導くことになった時……幼いあなたを、その娘たる人物にしなければと思いました。敵を作りかねない立場になるから、と。それに何を隠そう……私は昔、同年代に酷くいじめられていたのです」
「えっ……ま、ママが……!?」
衝撃的な告白に、ペトレは素に戻って聞き返した。
「はい。私に味方はいなかった。両親は働き詰めで体も弱く、私に構っている余裕は無く……結果私は、一人で戦うことしかできませんでした。格闘技を身に着け、政治を学び、心身ともに誰にも負けない自分を作り上げることでしか……身を守ることができませんでした」
「…………」
「だから私は、あなたにもそれを強いた。けれど、それが大きな間違いだったのですね」
レイティは再び涙声になった。ペトレは今日この日まで、完璧超人である母が泣いているのを見たことが無かった。
「あなたは私とは違う。一人で戦う必要は無い。そう強いられるいわれも無い。あなたは私よりもずっと、ずっと……戦いを好まない、心優しい子だから……」
「な、何が……何がわかるっていうのよ……」
「わかりませんでした。わかろうとしませんでした」
ペトレの問いかけに母は低い声で答える。それはとても自罰的な物言いだった。
「全てが手遅れとなったあの日……自我を失うまでの間、私は後悔でいっぱいでした。エーション姉妹に連れられ、怨念を纏い街に牙を剥くあなたを見て……もう一度話がしたい、ただそう願っていました」
そして、再びその時はやってきた。
レイティはそう言って一度手を離すと、次の瞬間、覚悟のこもった声を発した。
「ペトレ……私は市長を辞めます」
「…………は!?」
流石に驚きを隠せず、ペトレは大声を上げた。
「な、何で……! ママ、今までずっと頑張って……!」
「今回の件……全ての責は私にあります。その責任を取って辞める、ただそれだけのこと……それに……」
レイティは娘の目尻をそっと拭う。
「今度こそ、私はあなたを守ることができる。市長としてだけでなく、母として……だからペトレ、あなたはこの先の人生を歩むのです」
「そ、そんなの……そんなのって……」
「私は生まれ変わります。一人の人間として、何よりも母として。だからペトレ」
レイティは涙にまみれた顔で、娘にとびきりの笑顔を向けた。
「完璧でも何でもない、愚かな母を許してください。そして共に、生まれ変わりましょう。今度こそ、私は真に娘のために生きる。あなたも自愛して生きてください」
最強の指導者は、今一度そっと娘を抱きしめた。今度は、ペトレは拒むことができなかった。
穏やかな沈黙が流れた後、少女は小さく口を開いた。
「……私、本当は歌い手になりたいの。歌が好きで……それで……こっそり、曲作ったりとかして……」
「はい」
「お、オシャレだってしたい。この先好きな人ができたら……で、デートだって、してみたいし……」
「……はい」
「……いっぱいいっぱい、やりたいことあって……でも、ママがやらせることも、ちゃんとやってて……ママみたいに上手くできないけど…………わ、私、ママに褒めてほしくて……」
何を言っているのだろう。十四にもなって、こんな恥ずかしいこと。
そう思えど、言葉が止まらない。
「私、頑張ってたのよ……!? 毎日ちょっとでも上達しようと思って、色んなこと……ママの見てないところでも、ずっと……!!」
「私は本当に、言葉が足りませんでした。知っていたのに……それを伝えられていなかった」
レイティは抱きしめる腕により強く力を入れ、一言ずつ重みを込めて言った。
「頑張りましたね。偉いわ、ペトレ」
「……っっ!! ひぐ、ぐすっ……!! 何よ、何よぉっ……!」
ペトレは力無く、母の大きな背中を拳で叩く。
「毒親のくせに……っ、仕事ばっかだったくせに……! 私の事、見向きもしなかったくせにぃ……!!」
「ごめんなさい。至らぬ母で、ごめんなさい……」
親子共々、声を上げて泣いていた。そんな中、レイティは娘を抱ける喜びを噛みしめながら告げる。
「でも、どうか忘れないで。愛しています、ペトレ。あなたは私の全てです」
「うう、ママっ……ママぁ…………!!」
押し込めていた想いが堰を切って溢れ、ペトレ・ロベインは泣き叫んだ。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい、ごめんなさいいいぃ……!! 後先考えずに、私、私ぃ……!!」
「良いのです。良いのですよ……!」
屋上からじっと事態を静観していたフレーと仲間たちは、互いの顔を見合わせてその場を去る。
シュレッケンに巣食う最古にして最後の毒が、ようやく消え失せた瞬間だった。




