17:パンを持ってこよう
「お疲れ様です。何やら大変だったようですね」
「……ああ」
これほどまでに腹が立ったのはいつぶりだろうか。舌打ちをしながら椅子に腰掛けると、エルドが気を利かせて茶を置いてくれた。
「いつもすまねェな」
「いえ。これくらい、あなたの頑張りに比べれば」
「……今は二人きりだ。あの馬鹿どもが乱入してくる事も無いだろう……堅苦しいのは無しにするぞ」
エルドはほとんど表情を変えず、しばらくぼうっと立っていた。やがて笑顔になり、手に持っていた台を机に置く。
「君がそう言うのなら」
「おい、何だ今の間は」
「いや、仕事モードとプライベートを切り替えるのには、準備がいるからね」
爽やかな声で言って、エルドは対面に腰掛けた。ここ最近、心が休まったためしが無い。彼と話している時だけかろうじて政務のことを忘れられる。
しかし今日は、そうもいかないようだった。
「グレイザー、考え直す気は無いか?」
「何度も話し合ったはずだ。ランドマシーネへの侵攻……これしかねェ」
「僕は不安でならないんだ」
エルドは俯き、顎に手を当てる。考え込む時の、彼の昔からの癖だ。
「この地の誰も、あの場所のことを詳しく知らない。機人の技術を手に入れる……聞こえは良いが、そもそも勝算はあるのか? 表向きはもちろん交渉だが、突然軍を引き連れていけば、一方的に攻撃される可能性もあるだろう」
「ハッ……! そうなっても良いように、俺とお前で鍛えてきた部隊だろうが」
ハンガーズを結成してから約五年。訓練や士気上げを怠った事はない。二日後のパーティだってそうだ。エルドとてそれは理解しているはずだが……
「そうじゃないんだ、グレイザー」
彼はなだめるように言った。
「人が死ぬんだよ。君を慕い、ハンガーズに志願し、この街に尽くしてくれた人が、勝手のわからない、ほとんど異国のような場所で死ぬんだ。そうなる可能性が大いにあると言っているんだよ」
「……くどい。もはや決定は覆らん」
「人間は……機人には勝てない。もう一度考え直してくれ。君は冷静じゃないんだ」
何故だろう。いつもは極めて頼りになる彼の言葉が、今は無性に癪に触った。それもこれも全て、奴らのせいだ。
あの忌々しい、ダイナという魔法使いの娘。卓越した剣の腕を持つセイヴィアに、弱腰の癖に言いたい事はハッキリと言ってくる銀髪の女。
モイスティ……そういえば奴も魔法使いだったか。
「今日のことだってそうだ」
エルドの訴えるような物言いに、グレイザーの指先が自然と反応する。
今敢えて、その話をするか。愚か者が。
「今日の顛末は映像で見ていた。街中で銃器を乱射するなんて……誰にも当たらなくて、僕がどれだけホッとしたか。今日の君は異常だ。僕とて魔法使いの危険性は承知している……だが、昨日の彼女たちを見ただろう?」
「…………黙れ」
「人を見る目は確かなつもりだ。何を考えてるのかよくわからない子もいたが……少なくとも、この街に危害を加え────」
「黙れと言ってるんだ、エルドッ!」
力任せに机を叩きつける。美しかったガラスにはヒビが入り、手をつけていなかった茶の容器は反動で倒れてしまった。
「…………」
「お前、いつからそんなに偉くなったんだ?」
ゆっくりと、舐め回すような口調で言う。
「今日は随分と饒舌だなァ? そんなに喋りたきゃ、あの路地裏で公演でもするか?」
「……僕を、追い落とすつもりかい? ゼノイさんたちのように……」
「…………ハッ」
馬鹿馬鹿しい。冷や汗を浮かべつつも不敵な笑みを崩さない幼馴染を見て、グレイザーはため息をついた。
「お前無しでやっていけるとは思ってねェ。これ以上、余計なことを喋らないならな」
「わかっているようで良かった。さ、互いに冷静になろう。そっちを拭いてくれ」
「……それはお前の役目だろ」
「今はプライベートなんだろう? 僕はパンを持ってこよう。君が好きだったやつだ」
相変わらず食えないやつだ。汚れた机をその辺の布で乱暴に拭い、グレイザーは腰かけ直す。
見慣れた形状のパンを置き、再び座り直したエルドを見やってから、静かに口を開いた。
「わかっている。俺とてわかっているつもりだ。これがどれほど危険なことか」
「なら……!」
「だが仕方ねェだろう? 他にどんな手立てがある? 今日皆に言った通り……ただ目の前の事態を解決するだけでは、何も見出せない」
拳を握り締め、グレイザーは恨みのこもった声で話す。
「奴らの……現在のシュレッケンの脅威を、『未だに測りきれていない』この状況なら、尚更だ」
「グレイザー……」
エルドは固く口を結ぶ。お互いに思うところは同じだ。
わからないのだ。あまりにもわからない。シュレッケンとランドマシーネ。常識的に考えれば、力の差は一目瞭然の二つの都市。
その片方は今や混沌としており、もはやどちらが安全なのか、どちらが確実なのか、グレイザーの頭脳をもってしても見通せない。エルドはまだシュレッケンの方がマシだと考えているようだが、それは論拠に欠けるものだ。
ならば。国にも見捨てられたこの街が。ただ近くの都市に攻め込むよりも、遥か遠くの技術を持ち帰った方が利益を見込めるならば。どう転ぶかわからないこの状況で、選ぶ道は一つではないか。
そうすることで、この街が死なずに済むのなら。この胸にある確かな目標が、潰えずに済むのなら……
(これが正しい……そう、正しいはずだ……)
誰にも言えない胸の内。しきりに燃え続けている「野望」。この地位に着く以前から、夢見てきた世界。
────頑張ろ、グレイザー! いつか三人で、最強の街を作るんです! あなたと、エルドと、あたし! 楽しみね!
「エルド。頼む」
「……はい」
「付いてきてくれ。この俺に……俺とお前と、あいつが目指した理想の世界────」
見ていろ、リアン。
「何人たりとも、侵すことは許さねェ」