ヴァンパイアのタクシードライバーとアルコール依存症
深夜、飲み会の帰りにタクシーを拾った。帰り道が少々長くて億劫だったから。そんなに酔ってはいなかったのだけど。
タクシードライバーは、僕を一瞥すると行先を尋ねて来た。自宅の場所を言う。無言のまま、タクシードライバーは出発した。気の所為かもしれないけど、馬鹿にされている気がした。タクシードライバーはちょっと不気味な感じがした。どこがと訊かれても困るのだけど、なんとなくだ。
真っ直ぐに自宅を目指すタクシードライバーに僕はふと思い付いて声をかけた。
「少々遠回りをしてくれないか? 酔いを醒ましたいんだ」
するとまるで気に食わない事でも言われたかのような仕草で、タクシードライバーは僕の方を振り向いた。
「もちろん、その分の料金は支払うよ」
文句を言われるのかと思ってそう続ける。ところがそれは無視して、タクシードライバーは「酔いを醒ましたいって、一体、どうしてです?」と尋ねて来る。
「僕のパートナーがちょっとね。アルコールは駄目なんだ」
「アルコール依存症ですか?」
それを聞いて僕は止まった。説明するのも面倒だ。否、説明したって信じてくれるとは思えない。
「ま、そんなところ」
だからそう返した。すると彼は何を思ったのか「実は私はヴァンパイアでしてね」と変な事を言って来たのだった。
「ヴァンパイアっていうと、あの血を吸うってあれ?」
「そうですね。血を吸わないヴァンパイアもいますが」
僕は肩を竦めた。
「だとすると、僕は今危険な立場に立たされているのかな?」
その言葉にヴァンパイアの彼は笑った。
「はっ そうとも限りませんよ。血を吸うことを制御できているヴァンパイアは多いのです」
そのタイミングでヴァンパイアはスピードを緩め、大きくカーブをした。ウィンカーがチカチカと印象的に響く。どうしたのかと思って気が付く。僕が遠回りをしてとお願いしたから道を変えたのだ。
「昔はヴァンパイアになったらもう駄目だって思われていました。自身を制御できず、無差別に人を襲って血を吸いまくるって」
「“昔は”って事は、今は違うのかい?」
「違う場合もあります」
そのままゆっくりヴァンパイアは車を直進させた。
「動物の血や、献血センターから分けてもらう事で血を求める衝動を抑える。もちろん、強い意志の力は必要ですが、そうする事で血の味を楽しみながら、ちゃんと日常生活を送れるようになるんですよ。私自身がその証明です」
「なるほどね」
と言ってから僕は続ける。
「――アルコール依存症も同じだって言いたのかな?」
アルコール依存症の治療はまず何よりアルコールを摂取させない事だと言われている。一滴でも飲ませては駄目。その瞬間、また依存症が始まってしまう。
つまり、一度アルコール依存症になってしまったなら、まるでヴァンパイアのように、もう二度と正常な人間に戻る事はない……
そう考えられている。
「そうですね。私は思うのですよ。確かにアルコールを少しも摂取しなければ、アルコール依存症は再発しないでしょう。でも、それだと本人は二度とアルコールを楽しめなくなってしまうんです。そんなのってちょっとばかり可哀想だと思いませんか? それよりも、ちゃんと制御できるように手伝ってあげるようにした方が良いと思うんです」
僕はそれに何も返さなかった。
彼の意見を完全否定はできない。だけど、彼の意見を肯定もしたくなかったからだ。僕の気を悪くしたと思ったのか、それからタクシードライバーでヴァンパイアの彼は何も喋らなかった。
約束通り、彼は遠回りして自宅を目指してくれた。自宅に着くと僕はお礼を言って料金を支払った。
アルコール依存症に罹った本人は、もう一度正常にアルコールを楽しめる状態に戻れた方が良いと望むものなのかもしれない。その為に、アルコール依存状態に戻ってしまうリスクを承知で、適度にアルコールを飲むトレーニングをしたいとも思うものなのかもしれない。
けれど、アルコール依存症に罹った人間と一緒に暮らした経験のある人は、果たしてそれに同意するだろうか?
昔の話だ。自宅に帰ると、辛うじて簡単な夕食が用意されてあるけれど、部屋の中には干しかけの洗濯物が半分以上も放ってあり、もちろん、掃除も何もされていなくて点けっぱなしのテレビからは、深刻そうにニュースキャスターが少子化問題について語り続けている。
鼾が聞こえ、見るとソファで横になって彼女が眠っている。口元とシャツが赤い。床には赤ワインの瓶が転がっている。
僕はため息をついてから、干しかけの洗濯物を全て干すと、彼女が用意してくれた夕食に手を付ける。
――もうあんな暮らしには戻りたくない。
アルコール依存状態に彼女が戻るリスクを執る気にはなれない…… あの状態に戻るリスクが少しでもあるのなら、適度にアルコールを飲むトレーニングなんかして欲しくない。
否、まだ僕と彼女だけの問題ならば耐えられるかもしれない。
鍵を開け、リビングに行くと彼女が僕を待っていた。実はちょっとだけ、彼女が酒に酔っているのじゃないかと不安だったのだけど、彼女は確りと正気だった。
良かった。
そんな想像をしてしまったのは、きっとタクシードライバーのあんな話を聞いたからだろう。
「お帰り」
彼女はそう言うと嬉しそうに笑った。その口元には隠す気のない鋭い牙が見えた。彼女は続ける。
「約束、忘れていないわよね? 今日はあなたの血を吸ってもいい日よ」
「ああ、」と僕はそれに返す。
「遠回りして酒は抜いて来たよ。そもそも、少ししか飲んでいないし」
「そ」とそれに彼女。嬉しそうにすると抱き付き、僕の首元に牙を押し当てた。
――彼女はヴァンパイアだ。ただし、普段は自分を制御できている。僕の血以外は吸わない。それも日を決めている。ところが酒を飲んだ時だけは別で、酷い酩酊状態になって外に彷徨い出て“何か”の血を吸って来てしまう。
あんな思いをするのはもう二度とごめんだ。誰かに迷惑をかけているだろうし、彼女自身が警察に捕まってしまうかもしれない。
……もし、さっきのタクシードライバーでヴァンパイアの彼がこの話を知ったなら、果たして何と言うのだろう?
偶然ですが、昨日、献血に行ってきました。
「参考文献:依存症と人類 カール・エリック・フィッシャー みすず書房」
この本に載っていたのですが、アルコール依存症が再発するリスクを冒してまで、もう一度、アルコールを正常に飲めるようになるトレーニングをするかどうか。
正直「うーん……」って思ってしまった。
アルコール依存症の人間と一緒に暮らした経験のある人なら、この気持ちは分かってくれると思います。