帰宅願望、帰り道へと誘うもの
何故老爺は帰りたがるのか?
「そろそろ私はお暇させて頂きます。」
白髪の老爺は上品な笑みを浮かべながら皆に挨拶した。もともと病院であったその施設は壁の色だけが暖色となってはいるものの未だ古い病院の雰囲気を引きずっている、そんな施設のホールにて改めてその老爺は皆に頭を下げた。すらりと伸びた背筋に、しわが寄りながらも整った面立ち、そんな見た目と相反する寝乱れた頭髪とくたびれたパジャマ姿という二律背反がこの人物の違和感を際立たせていた。さきほどまでは他の入所者たちと一緒におやつを食べていたその老爺、ふと天井を眺めるような仕草をして、何かに耳を傾けて始めた。その直後からこの老爺は皆に頭を下げ、帰路に就こうとし始めた。そんな彼が踵を返した先には二人の女性、同じ白いラウンドネックの半袖白衣に身を包み、同じベージュのチノパンを履いたいわゆる介護職員たちが立っていた。立っていたという表現よりは、この老爺が帰ろうとすることを承知の上で行く手を阻み立ちふさがっているという方が正しい。二人の介護職員のうち若い方は老爺の目の前であるにも関わらず眉をひそめながらも舌打ちした。中年の女性介護職員は腰に手を当てながらも言葉だけは丁寧に言葉を発した。
「守さん、そろそろ夕方になりますから。ご飯の時間ですよ。」
守さんと呼ばれた老爺は笑顔を引きつらせながら、
「私は帰らなきゃいけないのです。」
と先ほどよりも語気を強めつつ、二人の間を押し通ろうとする。しかし前方に立ちはだかる中年の女性介護職員に阻まれ、前に進むことが出来なかった。守老人はそれでも中年女性介護職員の腕を振り払い、その腕が痣や引っかき傷で赤くなってきたころ、先ほどまで防戦一方であった中年女性が突然守老人を両腕で突き飛ばした。後ろに転倒しかけた守老人を救ったのは先ほどから姿を消していた若い職員が、守老人の背後にこっそり設置しておいた車いすであった。そして車いすの座面下から守老人の内股をくぐらせ、車いすの背面に通した帯であっという間に守老人は車いすに縛り付けられた。いくら守老人が叫んでも喚いても、介護職員たちを罵ってもその声は彼女たちには届かない。後ろから守老人を車いすに縛り付けた若い職員が息を弾ませながら言った。
「先輩、大丈夫ですか?」
その声は少なからず嬉々としており、文字通り暴れ狂う老爺を首尾よく拘束し、この場を収めた満足感に溢れていた。矢面に立ってひどい目に逢った先輩介護職員はむすっとしてそれには答えず、車いすで身動き一つできない老爺を睨みつけた。後輩介護職員が居なければ罵声の一つも浴びせていただろう、そんな目つきであった。先輩介護職員はふーっとため息をつき、自分の中で怒りをコントロールする魔法、
【1から6まで数字を数える】
を実践した後、
「日直の先生に連絡して、注射の許可もらってちょうだい。」
と後輩に告げた。
「えー、先輩もう鎮静剤のお注射盛っちゃうんですかぁ?」
先輩をからかうように、弾んだ声で後輩が切り返す。車いすを壊さんばかりの勢いで拘束された体を揺さぶり、唾を撒き散らしながら二人をなじる守老人、だが介護士二人の眼中には彼は存在しなかった。守老人を案ずることなどなく、この大暴れする厄介な入所者の取り扱いを二人で論じていた。ここから介護者二人の行動は迅速で、すぐに併設病院の医者から指示を受けた若い看護師が鎮静剤であろう注射薬を持って現れた。先ほどの介護士二人に比べ明らかに経験が浅そうな看護師は、暴れる守老人に対話を試みた。しかし荒ぶる守老人には彼女の話が通じず、仕方なくおどおどした体で拘束されながらも抵抗する守老人の腕に血圧計を巻こうと試みていた。
「ちょっと、早くしてくれないとほかの入所者さんのケアに行けないですけど。」
中年介護士の心無い言葉にびくっと震えた新人看護師は、血圧測定等々の安全確認を諦め、暴れる守老人の肩に向精神薬を注射にて投与した。
「ありがと~、迅速な対応助かるわぁ。」
後輩介護士から向けられたからかうような言葉に
「じゃ失礼します。」
と新人看護師は踵を返した。自身の目から溢れる涙を見せまいとして。
「ぐるぐる巻きに身体拘束して、本人の同意取得やバイタルサイン確認もさせずに向精神薬投与、こんなの虐待だよ。こんな看護したくて看護師になったんじゃない。」
新人看護師は言い返すことのできなかった悔しさを呟きながら施設を後にした。
守老人が注射薬を投与されてから10分ほどでいわゆる不穏せん妄行動は収まりを見せ始めていた。守老人は車いすに縛られたまま施設の出口にむかう廊下を眺めていた。向精神薬の作用が強く、守老人の嚥下機能も一部低下させたようで、守老人は自分の唾液にむせるたびおこりのように体を震わせていた。すでにさきほどの介護士たちは守老人のもとを離れ、他入所者のケアに回り守老人は独りホールから廊下を眺めていた。いや守老人が眺めていたのは廊下ではなかった。守老人の目にははっきりと、若く美しい前妻が映し出されていた。前妻は守老人の耳にしか届かぬ声で囁きながら手招きしていた。
「おうちにお戻りくださいませ、旦那様。」
守老人にしか見えない彼の前妻は優しくも妖しく彼を呼び続ける。それに呼応するかのように、さきほどまで静かになっていた守老人はあらん限りの力で再び体をゆすり、もはや言葉にならない叫びをあげ始めた。結果バランスを崩した車いすが横転し、守老人は車いすごと床に叩きつけられた。その音に気付いた介護士たちが慌てて駆け寄った。
「ちょっと、薬効いてないじゃない。もう一本追加、早く医者に連絡して。」
横倒しになりながら叫び続ける守老人の耳には自分を家路に誘い続ける前妻の声が途切れずに聞こえていた。
「おうちにお戻りくださいませ、旦那様。」
守老人と呼ばれた男は守清文という名であった。彼は田舎生まれでありながらも勉学に勤しみ東京の有名私学を卒業し、何をするでもなく実家のある田舎へと戻った。そこで許嫁として決められていた4つ年下の幼馴染、由乃と所帯を持った。由乃は田舎を出たことの無い垢ぬけない女性であったが、守に献身的に尽くし、なにより若く美しかった。守はその妻に支えられながら、うだつも給料も上がらない立場で、守家母屋の傍に急拵えで立てた離れに由乃と二人で住まい、つまらない田舎暮らしに耐えていた。そんなある日の夕食時、なんとなく眺めていたTVに大学時代の先輩を見つけた。若くして会社を設立、それが急成長と大成を遂げて時の人になり、その成功談がマスコミの目に留まったようであった。珍しくTVに釘付けとなっていた守に、由乃は少々面食らっていた。そんな表情は妻である由乃も見たことが無い、由乃の知らない誰かへの羨望が表情から見て取れた。由乃はずっと知っていた。守が現状に満足していないこと、本当は都会で働きたがっていたことを。だからTVを見ている守を見ていた由乃は切なくて涙が出そうであった。もちろん二人が住むこの場所は守自身の故郷でもあるわけで、そこで暮らすのは地元の人間からすれば当然に思えた。だが守が周りの人間とは違うことを由乃は知っていた。彼は都会を知り、その刺激や興奮を忘れることはないことを。だが彼は戻ってきてしまった、そして自分、由乃という楔を打たれここに縛られてしまった。由乃はそれをずっと心苦しく思っていた。だから守の申し出を二つ返事で了承した。東京で大学時代の先輩に師事し、その会社で働きたい。それが守の申し出であった。だが守の提案の一つだけには由乃は首を縦に振らなかった。
「一緒に東京へ行こう。」
守は諦めずに何度も妻を誘った。しかし由乃は折れなかった。
「私まで東京に行ってしまったら、旦那様と故郷の縁が切れてしまいます。」
由乃は守と地元を結ぶ絆の楔になることを選んだのであった。
守が東京に住み憧れの先輩と一緒に働き始めるとその会社はさらに大きくなっていった。数人で始めたベンチャー企業であったが、いつの間にか数十人を雇用する大手企業となり、守はその副社長として辣腕を振るうようになっていた。この成功が守を変えてしまった。この成功を授けてくれたのは東京、雌伏の時代を守に与えたのは地元の田舎。守の地元への嫌悪はそのすべてに向けられ、由乃も例外ではなかった。守はサイン済みの離婚届を由乃に郵送した。数週間後守は由乃の署名がなされた離婚届を郵便で受け取り、その数日後由乃の訃報を受け取った。由乃は離婚届に自分の名前をしたため、守へ郵送した後住んでいた離れの梁に首をくくったのだと、怒りに震える由乃の両親から告げられた。守には罪の意識が無かったわけではないが、何とも言えない解放感がそれに勝っていた。
それからも守の人生は順調であった。守が新たな妻を娶るまでは。もちろん戸籍をみれば守の婚姻歴は容易に知れるが、新妻にはその経緯は告げず、ただ死別したとだけ話していた。由乃とは違う都会が色濃く匂う新妻と二人、タワーマンションにその居を構えた。新妻の様子がおかしくなったのは、タワーマンションに住み始めた直後からであった。
「誰かに見られている気がするの。」
新妻はこの言葉を頻回に口にするようになっていた。そんなはずはないと守が繰り返し説明するも、新妻は納得できず常に誰かの視線を気にし続けていた。新妻の神経が病むのを危惧した守は住んだばかりのマンションを手放し、違うマンションを新居とした。しかしその後も二人は引越しを繰り返すことになる、それほどまでに新妻は自分に突き刺さるような誰かの視線に怯えていた。ついには居もしない女の影を見るようになり、そしてその原因が守であると彼女の中で結論付けた。結果新妻は守の傍を離れた。そして彼女は有らぬ視線や女の影から解放されたと風のうわさで聞かされた。以後守の傍に寄り付く女はすべてこの視線と女の影に悩まされ続けた。中には帰って来いと囁く女の声を聞くものも現れ、そして誰もが守の傍を離れていった。守の二度三度と続く離婚は彼の社会的信用を下げるには充分過ぎた。いつの間にか会社にも居づらくなり、かと言って地元に帰ることもできず、身寄りのない生活を続けているうちに守は孤独な老人になっていた。
「守清文さんの件ですけど……」
冒頭の中年介護士が眉を潜めながら話し始めた。聞きたくもない不穏患者の話に付き合わされる初老の医者もまた明らかに迷惑そうだ。中年介護士が続けた。
「明らかに幻覚みてますよ、あの人。虚空を眺めて、誰かの声を聞いたあと、そっから強烈な帰宅要求が始まるんです。なんとか薬でコントロールできませんか?」
中年介護士の不満たらたらな報告に、引き気味にではあるが医者も反論した。
「だってあの人これ以上薬増やせないよ。向精神薬が効きすぎて何度も窒息しそうになってるし、先日の肺炎だって薬使いすぎが原因だと思う……。」
中年介護士は医者の机を両手で叩いてその弁舌を阻んだ。
「見てくださいよ、この両腕。毎回めちゃくちゃ叩かれたり、つねられたりであざだらけ、治る暇もありません。」
「まぁまぁ、落ち着いて。でも、守さんはなんの幻覚見てるのかね?」
話題をすり替える医者に飽きれながらも、中年介護士は不満げに呟いた。
「なんか奥さんらしいですよ。おうちにお戻りくださいませ、とか言っているのを聞いた入所者さんがいるみたいで。」
「ほかの人にも見えたり聞こえたりするなら、それって幻覚じゃなくない?いわゆる亡霊的な。」
再び中年介護士が机をたたいた。
「幻覚でも亡霊でもなんでもかまいません。守さんがおとなしくなる薬をお願いします。」
とてもお願いしている人の口調ではない迫力に医者はたじろぎながらも会釈した。やっと部屋から出て行ってくれた中年介護士を見送った後、初老の医者は何もない天井を見上げながら、
「ねぇ守さんの奥さん、これ以上薬増やすと守さん死んじゃうよ。おとなしくここにいるように話してよ。奥さんのところに連れて行かないでよ。」
と幻覚とも亡霊とのわからない何者かに毒づいた。
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