陽だまりの時間(2)
皇城の奥にひっそりとある裏口から、さらに先へと続く長い吹き抜けの廊下を進んでいくと、皇族所有の地であるイレーネ湖がある。周囲を森に囲まれた湖はそれほど大きくはないが、他にはない珍しい植物や色とりどりの花々が咲き誇り、澄んだターコイズブルーの湖面と相まって非常に美しい風景を造りあげている。これらを可能にしているのはもちろんナルシッサの加護の力である。
ぐるりと辺り一面を見回したルルアンナは見事な景色に感嘆の声を上げた。そのまま大きく深呼吸をして清々しい空気を体全体で堪能する。
「とても綺麗な空気と景色…。ここに来るのはいつぶりでしょうか」
「そういえばしばらく来ていなかったな。ルルは昔からここがお気に入りだったね」
ルルアンナの手を引いて歩きながら、フェリオルドが懐かしむように遠くを眺める。
彼の言うように、ルルアンナは城の裏に静かに存在しているこの場所が好きだった。まだ二人とも幼かった頃、フェリオルドが今のようにルルアンナの手を引いて城の中を案内してくれたことがある。その時に皇族しか入れないというこの場所を教えてくれたのだ。静けさの中に広がる美しい自然の景色に、まるで自分とフェリオルド二人だけの秘密基地のようだと幼いルルアンナは胸を高鳴らせた。
その後もたまにではあるが時間が空けば、自然の美しい季節が来るたびにフェリオルドはルルアンナを誘ってこの場所へと連れてきてくれた。ルルアンナにとっては色々な意味でとても大切な場所だ。
「ここは私にとってフェリオ様との大切な思い出がある場所ですから」
「そうか、最近はあまり連れてきてあげられなくてすまないね」
「いえ、いいのです。最近は特にお忙しいのでしょう?」
「毎年この時期は仕方がないのだけどね」
手を引かれるまま湖へと近づいていくと、ポツンと小舟が一隻だけ小さく作られた桟橋に泊められているのが見えた。青と白でカラーリングされた品のあるおしゃれな船だ。
「誰もいない湖にこんなものを置いておくわけがないから、多分母上のご厚意ってところかな」
「ナルシッサ様が?」
「楽しんで来いと言っていただろう?二、三人いるはずの管理人の姿も見えないし、準備と人払いは最初からしてあったってことだよ」
思わぬプレゼントにルルアンナは驚きと共に心が浮き立つのを感じた。大好きな相手と二人きりで水上デートができるのだ。
改めて近くでボートを見てみると、余計な装飾のないシンプルな形ながらも重厚でしっかりした木材で造られており、かなり質の良いものであることが分かる。
「せっかくだから湖の真ん中まで行ってみようか」
「フェリオ様が動かすのですか?」
「はは、僕だってこんな小さな船を漕ぐくらいはできるさ。ほら、手を出して」
危なげなく船に飛び移ったフェリオルドの差し出した手に掴まり、ルルアンナも恐々と小さく揺れる船に乗り込んだ。小さめながらしっかり造られた船は思った以上に安定感があり、座ってしまえばそこまで揺れも感じない。ルルアンナが落ち着いたのを見て、フェリオルドがゆっくりと櫂を動かし船を進める。
少しずつ周りの景色が後ろへと流れていき、水と青々しい香りを含んだ爽やかな風が全身を撫でていく。森からの木漏れ日が水面に反射してキラキラと煌めき、それらを背景に優雅に船を漕ぐフェリオルドの姿は神聖な一枚の絵画のようだった。
思わず瞬きも忘れて見入ってしまうルルアンナに、フェリオルドはフッと優しく微笑みかけた。
「ようやくルルと二人きりになれた」
「………っ…」
その視線に溢れるほどに込められた彼の想いに、言葉を詰まらせたルルアンナはただただ頬を染める。
誰の前でも、どんな演技をしていても、心の中では落ち着いて物事を考えられるルルアンナも、フェリオルドの前でだけは余裕なんて失われてしまう。愛しい人の言動に一喜一憂し、何をすれば彼に喜んでもらえるか、ルルアンナをもっと好きになってもらえるか、そんなことばかりを考えてしまう。
そして、そんなルルアンナに不安な思いをさせないようにと、フェリオルドはいつも言葉で、態度で、彼女への愛情をきちんと示してくれる。だからこそルルアンナも、自分の気持ちは出し惜しみせずに彼に伝え続けようと決めている。
「私も…フェリオ様とこうして二人でいられることが嬉しいです。フェリオ様を独り占めしているみたいで」
ナルシッサ達と過ごす時間もとても楽しいけれど、大好きな恋人と過ごす時間というのもまた格別なのだ。
「良かった。僕ばかりがルルを求めているのかと思った」
「そ、そんなことありません!」
慌てるルルアンナにクスリと笑ってフェリオルドはその小さな手を取る。船はいつの間にか湖の真ん中で停止していた。
「分かってる。ルルはいつも僕のために一生懸命なことも、頑張り屋なこともね。最近はあまり一緒にいる時間を取れていなかったから、無理をしていないか心配だったんだ」
「そんな、フェリオ様こそとても多忙で大変なのではないですか?次から次に仕事が舞い込んできて休む暇もないとお兄様が仰っていました」
「最低限の休憩は取っているから大丈夫だよ」
それは逆に最低限の休憩しか取れないということでは、とルルアンナは不安になる。
なぜそんなにも最近の彼が忙しいのかというと、国の大事な行事が控えているからだ。
「春の感謝祭はもうすぐだからね。今は色々な最終確認で追い込みの時期なんだ」
冬から春に移り変わるこの時期には、毎年春の感謝祭という祝典が行われる。長い冬を乗り越え、命の芽吹く春を迎えられたことを祝うもので、皇族が主体となって行う国の大切な行事だ。春を象徴するものとして帝都中が花で飾り付けられ、女性達も花や植物でより華やかに身を飾り立てる。
ルルアンナにも役割はあるのだが、まだ正式な皇族ではないため、関わる範囲はフェリオルド達よりも少ない。忙しそうにしている彼らを手伝えないことが歯痒くもあった。
「私の心配など不要でしょうが、どうかご自愛くださいませ」
「不要だなんてことはない。ルルに心配してもらえることは素直に嬉しいよ」
右手は繋いだまま、左手でルルアンナの髪を撫でる。光に透けた白銀の髪がシルクのようにサラサラとフェリオルドの手を流れていった。
「感謝祭のドレスはもう決めたのかい?」
そのままクルクルと指に髪を絡ませながら聞くフェリオルドにルルアンナは小さく首を振る。
「いえ、ですがだいたいの候補はもう絞ってありますわ。ラベンダーとクリームイエローのもので迷っていて、もう一度お店で吟味して決める予定です」
「そうか、ルルはどちらの色も良く似合うだろうから悩んでしまうね。着飾った君を見るのが今から楽しみだ」
感謝祭当日は絶対に最高の自分を演出して見せようとルルアンナは決意した。
そんなルルアンナの内心はつゆ知らず、愛おしそうに彼女を見つめていた瞳に憂いの色を乗せてフェリオルドは小さくため息を吐いた。
「はあ…、今日が終わってしまったらまたしばらくルルに会えない日が続くのか」
「フェリオ様…」
ルルアンナと会えないことを残念に思ってくれることは嬉しいが、元気のない様を見るのは胸が痛む。ルルアンナ自身もフェリオルドと会えない期間が長く続くのは寂しい。皇族としての責務である以上仕方のないことではあるが、彼らだって人間なのだ。時には疲れて弱音を吐きたくなる時だってあるだろう。
ふとルルアンナは丁度良さそうなものがあることを思い出した。
「あの、両手を出していただいてもいいですか?」
「うん?」
突然の言葉に不思議そうにしつつも差し出されたフェリオルドの手に、淡いブルーの小さな布を乗せる。それは前回のお茶会でも話題になった、ルルアンナがフェリオルドのために刺繍したポケットチーフだった。左下には白いスズランの花の刺繍が施され、さらに小さく金色の糸でフェリオルドのイニシャルが刻まれている。
「これは…」
驚いたように手の上のものを見つめるフェリオルドに、ルルアンナは照れたように俯いた。
「フェリオ様に何かして差し上げられることはないかと思って。大したものではないのですが、以前スズランの花が好きだと仰っていたのでチーフに刺繍してみたんです。これなら何枚かあっても困らないですし、会えない間もフェリオ様に身に着けて頂けたらいつも一緒にいる気持ちになれるのではと…」
言っているうちに段々と恥ずかしくなってきたのかルルアンナの視線はますます下がり、声も尻すぼみになっていく。しかし全てを言い終える前に伸びてきた腕にギュッと抱き締められた。
「あ~もう……どうしてそんなに可愛いんだ。愛しいルル、僕はおかしくなってしまいそうだよ」
「えっ」
言われた言葉に慌てるルルアンナを見てクスリと笑うと、フェリオルドはなおもその華奢な体をぎゅうぎゅうと抱き締め、艶やかな髪に頬をすり寄せる。
「ありがとう。まさかこんな嬉しいサプライズがあるなんて思わなかった。辛くてももう少し頑張れそうだ。肌身離さず持っておくよ」
「喜んでいただけて良かったです」
笑顔が戻ったフェリオルドを見て、ルルアンナの口元も自然と緩む。彼には穏やかに笑っている表情が似合っている。
「母上達が来たときは正直どうなることかと思ったけど、こうしてルルと最高の時間を過ごせて良かった。疲れた心が癒されたよ」
「私もフェリオ様と二人で過ごすことができてとても幸せでした」
「日が沈むまではまだ時間がある。もう少しだけ湖上の景色を眺めてから戻ろうか」
「はい」
前髪の上から優しく額に口づけられ、嬉しさと恥ずかしさにうっすら頬を染めながらもルルアンナはフェリオルドにそっと身を寄せる。ときおり聞こえてくる鳥のさえずりと、葉が擦れ合う木々のそよめきに包まれて、まるで世界で二人だけになったかのようだ。
やがて日が傾き辺りが陰り始めるまで、ルルアンナとフェリオルドはお互いだけを視界に映しながら長い時間を寄り添い合っていた。