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苦悩する心


側近に支えられながら何とか執務室へと戻ったフェリオルドは、崩れるように椅子へと座り込んだ。そしてそのまま拳を強く机に叩き付ける。


「クソッ……!」


「殿下……」


常になく憔悴したその様子を、側近の男は痛々しい目で見つめる。普段のフェリオルドとルルアンナの仲睦まじさを知っているからこそ余計に胸が詰まる思いだった。


「……フィニアンを呼んで参ります」


静かに告げて退室する側近へと返事をすることもなく、フェリオルドは頭を抱えるようにして机へと両肘をついた。その顔は苦悩に満ちている。




フェリオルドが己の異変に気付いたのは、辺境伯を招いた晩餐会から三日ほど後の事だった。

訓練を終え部屋へと戻る途中、城へ来ているルルアンナを見かけた。妃教育に加え、半年後に迫る二人の婚礼のこともあり、以前よりも頻繁に彼女はこの場所へと訪れている。しかしやる事があるから来ているのであって、お互いに忙しい身である彼らは城にいるからといつも一緒に過ごしているわけではない。それでも三日ぶりの愛しい婚約者へ挨拶くらいはしようとフェリオルドが足を向けた時だった。

はっきりとルルアンナの顔を視認した途端に強烈な嫌悪感が込み上げたのだ。咄嗟に足を止めたフェリオルドは、突然のことに混乱した。急に体調でも悪化したのだろうか。酷く気分が悪い。

一度深呼吸をして、再び足を進めようとするが、近づけば近づくほど謎の嫌悪感は強まり、ついには吐き気までしてきたためにフェリオルドは再び足を止めた。


「……なんだ、これは……?」


呼吸は荒く、額にはいつの間にか冷や汗が滲んでいる。

いったい何が起こっているのか。この耐え難いほどの嫌悪感はなぜなのか。自分がルルアンナにそのような感情を?誰よりも愛している彼女に?天地がひっくり返ろうともあり得ない話だ。

しかし現に自分は彼女に近づけないでいる。頭で否定しても、なぜか体が強く拒絶しているのだ。

突然のことに動揺している今の自分では、おそらく上手く取り繕うことなどできないだろう。自分でも何が起きたのか分かっていないのだ。

フェリオルドはルルアンナに声をかけることを断念し、静かにその場を後にした。


次にルルアンナを見かけたのはその二日後だった。書庫から資料を手に執務室へと向かっている時、ふと見下ろした庭園に妹のミュリエルと並んでいるのが見えた。花壇の花を眺めているらしく、式に使う花でも吟味しているのだろうかとフェリオルドは窓へと近づく。さらによく見ようと意識と視線を向けると、再びあの嫌悪感が込み上げてきた。すぐに窓から離れて壁へと寄り掛かる。

やはり気のせいでもただの体調不良でもない。前回ルルアンナを見かけたときと同じ症状だ。彼女の姿を視認した途端、この謎の嫌悪感が襲ってくる。そしてそれは距離が近づけば近づくほどに強まるのだ。


「いったいどうなっている……?」


フェリオルドは自身に起きているこの異常を、親である両陛下と己の側近にのみ打ち明けることにした。とても一人で抱えていられる内容ではなかったからだ。

両親であるダリオンとナルシッサは、すぐにこの件に関して秘密裏に調査すると約束してくれた。また、城内を出入りしている人間についても気にかけておく、とも。

側近達も同様に、空いた時間でフェリオルドのフォローや調査の手伝いをすると申し出てくれたため、フェリオルドは忙しい仕事の合間を見つけては、寝る間も惜しんで自身の異常の原因を突き止めようと必死になった。しかし残念なことにその進捗は思わしくない。

最近自身の周りで起きた出来事や変化、おかしな事がなかったかを洗い出してみても思い当たることはなく、普段と違うことがあるとすれば、辺境伯一行の訪問くらいしかない。晩餐会の日はなんともなかったため、晩餐会の後から三日間までの間に何かがあったということになるのだが、特別気になるようなことはなかった。強いて言うなら晩餐会翌日に辺境伯とその娘を交えてお茶会兼軽い話し合いをしたことくらいである。自身の異常もルルアンナに会ったのが三日後だったためその時に分かったというだけで、実際にはいつからだったのかは不明だ。お茶会の際に辺境伯が手土産に持参したお茶と焼き菓子を口にしたが、しっかりと毒見済みだ。毒見をした者にも特に異常は見受けられなかった。つまり今のところ原因は分からないままなのだ。

そしてこの件をルルアンナ本人に告げるか告げないかという話になり、フェリオルドは告げないことを選んだ。周囲はフェリオルドの意思を尊重したが、ルルアンナの兄であるフィニアンだけは告げた方がいいと言った。しかしフェリオルドは、このことをルルアンナに言って不安にさせるのも、少なからず傷つけるのも嫌だった。その原因が自分となれば尚更だ。大切な相手に、顔を見るだけで嫌悪感が込み上げるなどとどうして言えるだろうか。逆の立場なら自分は酷くショックを受けるはずだ。ルルアンナも表面上は平気な振りをしてくれるだろうが、内心で傷付かないはずがない。

だからルルアンナには事情を伏せて、彼女とのお茶会にも平気な振りをして臨んだ。相手を傷つけたくないという、その想いと気力だけでフェリオルドは襲ってくる嫌悪感を押さえつけ、吐き気に震える手に力を入れ、笑顔で乗り切って見せた。しかし長時間それを維持することは難しく、お茶会の時間は以前に比べかなり短縮されてしまった。頻度も少しずつ減っていき、その違和感に気づいているだろうに何も言わないルルアンナに胸が締め付けられた。

しかし原因究明も上手く進まず、状況が改善しないまま時間だけが過ぎていき、仕事の忙しさに加えて無理を続けたフェリオルドの体はついに限界を迎えてしまったようだった。会いたいと思う心とは裏腹に、フェリオルドの想像以上にルルアンナとの時間はかなりの負担となっていたのだ。

彼女を傷つけたくないからと事情を伏せていたというのに、結果はこのざまだ。一番やってはいけないやり方で彼女を傷つけてしまった。伸ばされた手を避けるなど、彼女自身を拒絶したも同然の行為だ。

なぜ咄嗟とはいえ避けてしまったのか。どうして歯を食いしばってでも耐えなかったのか。この世で一番大切にしたい人を傷つけた自分が許せなかった。




◇◇◇




コンコン、と軽く響くノックの音に沈み込んでいた意識が浮上する。


「殿下、入りますよ」


静かに部屋へと入ってきたのは、先程の側近が呼んだであろうフィニアンだった。彼は机で項垂れるフェリオルドの様子を見ると、小さくため息を吐いた。


「やれやれ、そんなに落ち込まれては何か言いたくても言えやしませんね。色々と苦言を呈そうと思っていたんですが」


仕方のない子供を相手にするような声音に、フェリオルドはのろのろと視線を上げる。


「聞いたのか、さっきのこと」


「ええ、ざっくりとですが」


「……君の、言う通りだった」


上げたばかりの視線を下げて、フェリオルドは小さく呟いた。


「ちゃんとルルアンナにも事情を話しておけばよかった。賢い彼女のことだ、正しく理解を示してくれただろう。そうすれば、急に行動を変えて無駄に不安にさせることも、今回のように最悪の形で傷つけることもなかったはずだ。……多少の衝撃はあれど、受ける傷は今よりずっと小さかっただろう」


片手で顔を覆う彼の声には深い後悔が滲んでいた。


「それなのに、自分が彼女を傷つけたくないからと身勝手なエゴで口を閉ざした。君の忠告も聞き入れずに。私は婚約者失格だ」


ここまで参っているフェリオルドを見るのはフィニアンも初めてだった。皇太子である彼は常に胸を張って前を向いている姿勢を崩さなかったから。

それほどルルアンナのことを想ってくれているのだと思えば、これ以上は何も言えまい。


「妹を傷つけたことについては遺憾ですが、そこまで悔いて下さっているのならば私から言うことはありません。しかし、こうなってしまった以上隠し続けることは不可能ですし、ルルアンナにもきちんと説明をして頂きたい。これ以上あの子が悲しまないように」


「……ああ、もちろんだ」


覇気はなくともしっかりと頷く様子によしと頷き返し、フィニアンは空気を変えるようにパンと手を叩いた。


「では、この話はここまでにして切り替えていきましょう。いつまでもうじうじとしているのはあなたに似合いませんからね。やることは山積みですし」


「……そうだな。反省してそれを活かしてこそ、後悔にも意味があるというものだ」


己に喝を入れるようにパチンと両方を叩いて、フェリオルドは背筋を伸ばした。


「それで、まだ手掛かりは見つからないのか」


「ええ、とりあえず様々な方面から調査に当たっていますが、目ぼしいものは何も。せめて何がきっかけだったかだけでも分かるといいんですが。殿下が触れたもの、身に着けたもの、口にしたもの全て心当たりは調べたのですが……」


そもそもこのような症状が起きた原因事態が謎なのだ。外的要因なのか、違うのか。こんなことを意図的に起こすことが可能なのか。


「まるで呪いにでもかかったみたいですよね。おとぎ話でもあるまいし」


フィニアンの呟きに、フェリオルドは考え込むように目を閉じた。


「今はもうほとんど廃れてしまったが、かなり昔の時代にはそのような呪いや魔法といったものが存在していたという文献を以前見たことがある。内容が内容だけに、歴史を紐解く参考資料程度にしか目を通していないが……」


「まさか、それが今も残っていると?あくまでその文献を信じるならですが」


「分からない。が、今はどんなことでもいいから手掛かりが欲しい。あり得ないと頭から除外せずに調べてみるべきだと思う」


「まあ、そうですね。現にこうして手詰まりになって手をこまねいているわけですし」


ふう、とフィニアンが困ったように溜息を吐く。現状に焦れているのは彼も同じだ。


「それにこの国の加護の力を考えれば、あり得ないと切り捨てることはできないかと。我々だって十分不思議な力を知っていますからね」


「そうだな。加護の力を授かることはあり得て、魔法の存在はあり得ないなどと言うのもおかしな話だ。ところで、お茶会で毒見を担当した者は今どうしている?」


「毒見係ですか?」


「ああ、考えてみたら私の身に起きている異変は毒の症状ではないのだから、毒見をしたところで何も気づかなかったのは当たり前ではないかと思ってな。異変に気付いたのもルルアンナに会ってあの状態になったからであって、そうでなければずっと気づかずに普通に生活していたはずだ」


「それは……確かにそうですね。毒のように口にしてすぐ異変が出るのでなければ、毒見をしても意味はありません。ならば、同じものを口にした者に同じようにきっかけを与えて、異変が起きるか調べてみたほうが良さそうです。しかし、そう仰るということは彼らを疑っていると?」


「いや、まだはっきりそうと分かったわけではないが、やはりこの時期にいつもと違うことがあるとすれば彼らの存在しかないと思ってな」


「そうですね。ではその文献と他にも似たものがないか探しつつ、彼らの動向も密かに見張らせましょう。これまでについても改めて調査する必要があるかもしれません」


「ああ、よろしく頼む」


軽く頭を下げてそのまま出ていこうとしたフィニアンは、ふと足を止めてフェリオルドを振り返った。


「これらのことももちろん大事ですが、ルルアンナへの説明とフォローも忘れずきちんとお願いしますよ。なるべく早く話をしてやってください」


「無論だ。ルルアンナのことを私が後回しにするはずないだろう?心配するな」


その言葉にフィニアンは満足そうに笑い、今度こそ執務室を出ていった。

はぁ、と息を吐いてフェリオルドは背もたれに深く寄りかかり目を閉じる。

もちろん、誰よりも自分が分かっている。傷つけてしまった彼女に一刻も早く謝罪をし、許しを請わなければならないと。誰より大切にしたい存在に、一瞬でもあんな顔をさせてしまったのだ。まるで、表情を忘れたような、心を無くしたような、そんな顔を。

許してくれるのなら、どんなことでもしよう。すぐには許せないというなら、許せるようになるまで請い続けよう。


「ルルアンナ……」


だからどうか、僕から離れていかないで。



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