始まりのお茶会(2)
ルルアンナに声をかけてきたのは、未来の皇太子妃として多くの社交場に顔を出している彼女も見たことがない令嬢だった。年齢はルルアンナよりいくつか年下に見える。
恐らく今までこのような場に出ることはほとんどなかったのだろう。幼さを滲ませた愛らしい顔には、無知さゆえの無邪気な笑みが浮かんでいた。
「まあ、なんて不躾な!」
「初対面でルルアンナ様に先に声をかけるなんて…」
彼女の社交界でのマナーを無視した無礼な振る舞いに、ルルアンナと親しい令嬢達が不快感を示す。
基本的に貴族の間では高位の者が声をかけ、それに応える形で下位の者の発言が許される。誰かから紹介を受けたり、相手と親しい間柄であればその限りではないが、自分より上の相手に先に声をかけることはマナー違反なのだ。
ルルアンナと少女は親しいどころか知り合いでもないうえに、誰かの紹介を受けてもいない。周囲が眉を顰めるのも当然のことだった。
しかし、ルルアンナが気になったのはそこではなかった。
「そのうえ、フェリオルド殿下を様付けでお呼びするなんてとんでもないことですわ」
そう、かの令嬢はこの国の皇太子をフェリオルド様と呼んだのだ。そのことがルルアンナの胸をざわつかせた。
もし相手が一族の当主であるとか、自分の家より上位の貴族であるという場合には様付けでかまわない。しかし皇族相手となれば話は違ってくる。この国の頂点に位置する彼らは他に並ぶ者がない尊き存在だ。そのため彼らにしか使うことを許されない「陛下」や「殿下」といった敬称を使わなければならないのだ。例外として皇族を様付けで呼ぶことができるのは、彼らと非常に親しい間柄であるか、本人から直々に許可をもらった者だけである。
婚約者であるルルアンナは当然そう呼ぶことを許されており、そしてそれは自分だけの特権だと思っている。そこに図々しくも割り込んでこようとする存在を面白く思うはずもなかった。
しかしそのような心の内は綺麗に隠し、ルルアンナは落ち着いた笑みを浮かべてみせた。
「ええ、その通りです。ルルアンナ・シャレットと申します。あなたは?」
「私はエリザ・ハンネスです」
周囲の様子など目に入らないのか、その令嬢は満面の笑みで答える。
すると、その様子を不愉快そうに見ていた令嬢の一人がエリザに声をかけた。
「あなた、先ほどからルルアンナ様に対してとても無礼ですわよ。社交のマナーを知らないのかしら?」
その言葉にエリザは驚いたように目を見開く。
「え、そうなのですか?私、領地から出たのは初めてで、家族や親戚の人としか会ったことがないのです。特別なマナーがあると知らなくて…すみませんでした」
しょんぼりと頭を下げるエリザに、思っていた反応と違ったのか苦言を呈した令嬢がポカンとする。
するとルルアンナのすぐそばにいた一人がこっそりと耳打ちしてきた。
「ハンネス伯爵家の一人娘ですわ。体が弱くてずっと領地で療養していたそうですが、最近になって快復したからと帝都に戻ってきたのだとか」
ハンネス伯爵の名前は聞いたことがある。特に有能というわけでもないごく普通のいち貴族としてだが。
情報通らしい彼女にそっと視線で礼を伝えると、ルルアンナはエリザと名乗った令嬢に向き直った。
「そう、知らなかったのなら仕方ありませんね。今日学んだことは次に活かせばいいのです」
「そ、そうですわね。次からはきちんと気を付けなさいな」
ルルアンナに同意するように頷く令嬢に、エリザはパッと笑顔になった。
「はい、ありがとうございます!」
その無邪気な様子は、どこか幼い雰囲気と相まって妹のような印象を抱かせる。先の発言に顔を顰めていた周囲も、仕方ない子を見るような少し柔らかい視線になっていた。
「社交の場に出るのなら、常識やマナーを学ぶのは当然のことですわ、それと、暗黙の了解というものもございます」
「苦労するのはご自身ですから、きちんと身につけなければなりませんわ。分からないことは聞けばよいのです」
病弱だったという背景もあり、無知ゆえの無礼だったのだろうと周りの令嬢達が年下の子に諭すように教え始める。その様子をルルアンナは笑顔を浮かべたままジッと見つめていた。
確かに一見すると世間知らずで無知なだけの可愛らしい令嬢に見える。しかし、いくら領地から出たことがないからといって、ここまで物を知らないものだろうか。貴族令嬢、しかも伯爵家ともなればそれなりの教育は受けているはずだ。余程甘やかされて育ったか、領地から出ることがないと考えて教育を二の次にしたか。
ルルアンナにはどうにも違和感が拭えなかった。
「それで、エリザ様。私に何か聞きたいことでもおありなのでしょうか?」
「あ、そうでした!」
エリザが思い出したというように両手を合わせる。
「実は気になっていたことがあって……。お二人は小さい頃からの婚約者というのは本当ですか?」
「ええ、本当ですわ」
「どうやって出会ったんですか?」
「皇太子の婚約者候補として、お茶会で顔合わせをしたのが最初でしょうか」
「それでそのまま婚約者になったんですか?」
「ええ、両家の同意もあってすぐに婚約しました」
「そうだったんですね!」
エリザの質問の意図が分からず内心首をかしげていると、彼女は再びとんでもないことを言い出した。
「でも、それってつまり、本人達の意思ではない政略結婚ってことですよね」
あまりに失礼な物言いに周囲が絶句していると、エリザは物憂げな表情を浮かべながら言葉を続ける。
「いくら皇子様だからって、小さいうちに勝手に相手を決められて、愛のない結婚をしなくちゃいけないなんてかわいそうです。ルルアンナ様もそう思うでしょう?」
その決められた相手であるルルアンナに同意を求めるとは、どういう神経をしているのかと疑いたくなる。しかし彼女の言葉はまだ終わらなかった。
「私、ずっと領地にいたので先日お母様に連れて行ってもらった夜会が初めてだったんです。そこで少しですがフェリオルド様をお見かけして…。あんなに素敵な人は初めて見ました。」
うっとりとした表情でそこまで言うと、チラリとルルアンナに視線を向けてくる。
「それからあの方のお顔が頭から離れなくて……。私なら、冷めた政略結婚なんかじゃなく、温かい愛に溢れた結婚にしてみせるのに」
「…………」
つまり、ルルアンナではなく自分の方が皇太子の婚約者にふさわしいと、エリザは遠回しに言っているのだ。
そんなエリザの一方的な主張を聞きながら、ルルアンナは口元の笑みは保ったままでわずかに目を細めた。これほど堂々と喧嘩を売られるのは本当に久しぶりのことだ。
そう、彼女はルルアンナに宣戦布告をしているのだ。やはり先程の無邪気を装った無礼な態度はわざとだったのだろう。しかし詰めが甘すぎる。こんなに早く本性を現しては、世間知らずな箱入り娘のふりをした意味がない。まあ、世間知らずはふりではないかもしれないが。
もう何度かお茶会を重ね、確実な味方を作ってからであったならば、今回のような行動をとっても周りの反応はもう少し違うものになっていたかもしれないのに。
とにかく、ルルアンナが見るにエリザはあまり頭が良くないようだ。にもかかわらず、ルルアンナの愛する人を身の程知らずにも奪おうとしている。
彼女のような人間は婚約者となってから山ほど見てきたし、その度に持てる力をもって排除してきた。ならば、彼女にも己の立場というものを分からせなければならないだろう。
チルルル、と囀る鳥の声に一瞬だけ視線を向けると、ルルアンナは傷ついたように俯いてみせた。
「そんな、愛のない政略結婚だなんて…」
「ルルアンナ様…」
すぐそばから気遣わしげな声がかかる。
「確かにこの婚姻に政略的な意味があることは事実ですが、私は出会った日からずっとフェリオルド様をお慕いしていました。そして少なからずフェリオルド様からも同じような気持ちを感じていました。ですが、周りの方々には私達の関係は冷たいものに見えていたのですね。かわいそうと言われるほどに……」
苦しげに胸を押さえ、わずかに潤んだ瞳を伏せると、周囲にいた令嬢達が肩や背中を支えるように手を添えた。
「決してそのようなことはありませんわ!お二人が仲睦まじいことはこの国の皆が知るところですもの」
「そうですわ。私達にとっては憧れの理想のカップルですのよ」
皆が口々にルルアンナを慰め、エリザに厳しい視線を向ける。一度は緩んだ空気が、さっきよりも張り詰めたものに変わっていた。
「あなた!なんて失礼なことを仰るのかしら。先程の発言、知らなかったからでは済みませんわよ」
「一度ならず二度までもルルアンナ様に対するその無礼な態度、目に余るものがありますわ」
当のエリザはというと、ルルアンナの反応が予想外だったのか驚いたような表情を浮かべていた。
「…怒って暴言でも吐いてくるかと思ったのに」
「何をブツブツと仰っていますの?」
「い、いえ、何も。だって皇太子とその婚約者の仲が良くないとイメージが悪くなっちゃうから仲良いふりをしてるんじゃないんですか?そう見せてるだけで本当は表面上だけのものなんでしょう?さっきチラッと聞こえましたけど、フェリオルド様にあげるって言ったその刺繍だって正直すごく地味じゃないですか。婚約者にあげるなら普通もっと見栄えがする綺麗な花を選びますよね。手抜きって感じがします」
自分だけ色々言われるのが納得いかないのか、少し不満そうな顔をしてエリザはルルアンナの手元を見た。確かにスズランの花は可愛らしいが華やかさには欠けるし、あまり男性向けのデザインではない。しかし何の関係もないはずの彼女になぜここまで言われなければならないのか。
「手抜きだなんて、心を込めて縫ったのに酷いですわ…」
とうとうルルアンナの瞳から涙の粒がひとつ、ポロリと零れ落ちる。萎れた花のように儚げなその姿に周囲の者達は我が事のように胸を痛めた。
そこへ慌てたように一人の女性がやってくる。
「エリザ!」
「お母様?」
どうやらエリザの母親のハンネス伯爵夫人のようだ。息を切らせて娘の元へとやってきた彼女はその場の雰囲気に気まずそうな顔をしてルルアンナに向き直った。
「ご、ご無沙汰しております、ルルアンナ様。うちのエリザが何か粗相を…?」
その言葉にルルアンナの周りにいた令嬢達が目を吊り上げる。
「まあ!夫人、ルルアンナ様のお労しい姿が見えませんの?そちらのご令嬢の心無い言葉のせいで傷ついていらっしゃるというのに」
「あのように無礼で品のない振る舞い、私初めて見ましたわ」
口々に非難され、ハンネス伯爵夫人は顔色を悪くして深々と頭を下げた。ついでにエリザの頭も下げさせる。
「も、申し訳ございませんでした。娘は昔から病弱だったせいで領地から出たことがなく、世間知らずなもので…」
「ちょっと、お母様!」
「あなたは黙っていなさい!」
無理やり頭を押さえられ抵抗しようとするエリザをハンネス伯爵夫人がぴしゃりと叱りつける。
「世間知らずで許されるようなレベルではありませんでしたわよ」
「いったいどのような教育をなさったのかしらね」
「返す言葉もありません。きつく言って聞かせますのでどうか今回は…」
懇願するようにハンネス伯爵夫人に見つめられ、様子をうかがっていた周りからもルルアンナへ視線が集まってくる。それらから逃れるように両手で顔をそっと覆ったとき、彼女にとってとても馴染みのある声が聞こえてきた。
「ルルアンナ?」
振り返った先には、驚いたように目を見開くフェリオルドの姿があった。