不穏な夜(2)
笑みを浮かべてこちらを見る相手に、ふぅ…とルルアンナは溜息を吐いた。せっかくの心地良い夜の空気が台無しである。
「何か私に御用でしょうか?」
ルルアンナの表情も、その口調も、明らかに歓迎していない様子にも関わらず、アイヴァンは気にした様子もなく笑みを浮かべる。
「何って、いつも言っているではないですか。あなたに会いに来たのですよ。今宵もとても美しいですね、ルルアンナ様」
「そこまであなたと親しい間柄になった覚えはないのですが」
「本当につれない人だ。まだ私の言葉を信じて頂けないのでしょうか」
ルルアンナにそっけなく対応されても彼は態度を変えようとしない。その様子にルルアンナは重い息を吐いた。
「信じる信じないの問題ではありません。私は皇太子殿下の婚約者なのです。このような真似はおやめください」
普段は向けないような厳しい視線を向けるルルアンナに、アイヴァンは肩を竦めてみせる。この男こそ、ルルアンナの最近の悩みの種であった。
フェリオルドの仕事が忙しくなったことで、ルルアンナが一人でパーティ等に出席することが少し増えた。するとこの男は、ルルアンナが一人で参加する時を狙って毎回声をかけてくるようになったのである。
最初は何の用かと訝し気にしていたルルアンナも、彼の目的を知ってからは塩対応をするようになった。しかし、どれだけ冷たくあしらわれてもアイヴァンはルルアンナに声をかけるのをやめようとしなかった。いつも人目が少ない絶妙なタイミングで来るものだからたちが悪い。
とにかくこの男の姿が視界に入ることがルルアンナにとってはストレスとなっていた。
「固いですねぇ、ルルアンナ様は」
そんなルルアンナの態度も笑顔で流し、アイヴァンは不躾にズイッと身を乗り出して顔を近づけてくる。思わずのけ反るルルアンナだが、後ろはバルコニーの手すりのためそれ以上下がることはできない。
「まだ婚約者でしょう?結婚したわけでもないんですから、今のうちに少しくらい火遊びしたっていいではないですか」
「そのような不誠実な考えは嫌いです」
「別に珍しいことじゃないですよ。政略結婚であれば特にね」
まるでルルアンナの方が変わっているとでも言いたげな態度である。己も決して褒められる部類の人間ではないが、このクズ男よりは数倍ましな自信がある。
「あなたがどのような人付き合いをしようが勝手ですが、そこに私を巻き込まないで頂きたいですわ。私は婚約相手に誠実でありたいので」
ジロリと睨みつけるように見上げてくるルルアンナに、アイヴァンは不満そうに片眉を上げてみせた。
「私の言葉や態度を軽いもののように思われるのは心外です。あなた様を想うこの気持ちは本物ですよ。だからこうして僅かなチャンスに縋っているのですから」
「まぁ」
呆れて物も言えないくらいだった。なんと押しつけがましい感情なのだろうか。
「本当に私を想ってくださっているのなら、その気持ちはそっと胸に秘めたままでいてほしかったですわ。どう考えたって応えられないのですから」
溜息を吐いてアイヴァンの体を押しのけようとするルルアンナの腕を、彼の手ががしりと掴んだ。
「何を…」
「秘めたままでいられる程度の想いではないのですよ」
急に今まで浮かべていた笑みを消して見つめてくるアイヴァンに、ルルアンナは驚いたように息を呑む。
「あなたを初めて見たとき、一瞬で目を奪われた。欲しいと思った。なのに、既にあなたは別の男のものだった」
さっきまでの軽薄さが嘘のように、悔しさ、苛立ち、様々な負の感情がその瞳には渦巻いていた。ルルアンナの腕を掴む手に力がこもる。
「しかも相手は皇族だ。どうあがいてもどうすることもできない。出会ったその時から報われない想いを抱いてしまった、私の気持ちが分かりますか?」
感情任せにぶつけられる言葉に、ルルアンナはらしくもなく少し戸惑った。自分もフェリオルドに出会ったその瞬間に恋をしたという似たような経験があるからかもしれない。
しかしどれほど想いを伝えられたところで、ルルアンナにはどうすることもできない。その想いを受け入れることは状況的に不可能だし、彼女にそのつもりもない。彼とは出会うのが遅かった。縁がなかったのだ。
「…そこまで想って頂いていることは光栄に思います。ですが何度も言うように、あなたの想いに応えることはできません。私の身も心も全て、あの方だけに捧げると決めているのです。申し訳ありませんが、どうかこれ以上私に構うのはおやめください。それがきっとお互いのためです」
あくまで冷静に対処しようとするルルアンナに、アイヴァンは酷く苛立ったようだった。
「それだけの誠意を向ける価値がある相手なんですか?」
「…どういう意味でしょうか」
ルルアンナの問いにアイヴァンは意地悪くニヤリと笑う。
「あなたにこうして私が声をかけているように、あなたの婚約者だって誘いをかけられているでしょう。皇太子という身なら尚更だ。彼があなたの知らないところでその誘いに乗っていないとどうして言い切れるでしょうか?ばれないように遊んでいるに決まっています」
「言葉を慎みなさい」
アイヴァンの言葉に被せるようにルルアンナが声を発する。その強い口調には明らかな怒りが滲み出ていた。
「あなたのような程度の低い人間と一緒にしないでください。殿下に対する酷い侮辱ですわ。あの方が今どれほど忙しくしているか、その中で私たち二人がどのように過ごしているか、あなたは知る由もないのでしょうけど。この国のために、人々のために身を削って尽力する殿下に対して、よくそんな発言ができますこと。伯爵家の人間ならば、もう少し社会のことを勉強なさってはいかがですか?」
痛烈な皮肉にアイヴァンは一瞬言葉に詰まるも、フンと馬鹿にしたように。鼻を鳴らす
「同じですよ、男なんてみんな。ルルアンナ様が婚約者に夢を見たい気持ちも分かりますがね。表で良い顔をしている奴ほど裏では何をしているか分からない。皇太子殿下など正に当てはまるのでは?強い権力もお持ちなわけですしね」
弁解するでもなく開き直るようなその態度に、ルルアンナはこの男にどれだけ言葉を重ねたところで無駄だと悟る。これ以上は時間の無駄でしかないし、ルルアンナもこのような男を視界に入れていたくもない。
「…あなたのような人間がこの帝国にいるなんて嘆かわしい。せめて何か揉め事を起こしてこちらの手を煩わせるようなことはしないでほしいものですわ。そして私の前に二度と現れないでください」
バシリと強く彼の腕を払いのけると、今度こそルルアンナはアイヴァンを押しやり、一瞥すらすることなくその場を後にした。
◇◇◇
一人残されたアイヴァンは苛立たし気に舌打ちをした。
「チッ……この俺の誘いを何度も何度も断りやがって」
さっきまでの慇懃無礼な口調はすっかり崩れ、粗野な雰囲気が露わになっている。
伯爵令息であり、見た目も悪くないと自負しているアイヴァンは、女にすげなくされたことなどなかった。歯の浮くような台詞と共に少し優しくしてやれば、女という生き物は簡単に手の上に落ちてくる、取るに足らないような存在だった。彼は女性というものを見下していたのだ。
最近一人で夜会にいるのを見かけるようになったルルアンナは、以前から彼が目を付けていた相手だった。皇太子の婚約者という普通の令嬢よりハードルの高い相手ではあったが、手に入りにくいものほど熱が入るというものだ。自分が本気で口説いてやればすぐ落ちてくると思ったし、気に食わない皇太子の鼻を明かしてやれると思った。この国の誰より美しい女を手に入れれば、最高の気分になると思っていたのに。
肝心のルルアンナは何度アイヴァンが声をかけても全くなびく様子もなく、こちらが気のある素振りを見せてもむしろ一歩引いて距離を保とうとしてくる始末だった。
今までのように上手くいかないことにアイヴァンは意地になり、気が付けばルルアンナを振り向かせようと必死になっていた。遊びのはずだった相手に、いつの間にか本気になっていたのだ。
それに気づいたアイヴァンは酷くプライドを刺激された。こんなに自分が求めているのに振り向かないルルアンナに酷く苛立った。
「皇太子の婚約者だか知らないが、お高くとまりやがって。俺を馬鹿にしてんのか…っ」
知らない間に抱いていた恋慕の感情は怒りと憎しみで濁りきっていた。
異性を見下し、本当の愛情を抱いたことがないアイヴァンにはそれが分からなかった。分かるのは、ここ最近ずっと胸に蟠っている不快な感情だけ。
「俺を拒んだこと、後悔させてやる」
低く唸るようなアイヴァンの呟きは、誰もいない夜の空間に溶けていった。




