プロローグ
あなたと初めて会ったその瞬間に、私の心は永遠に囚われてしまったの。
『僕の理想はね、ルルアンナ』
あの日の出来事は今でもはっきりと覚えている。
あなたと出会ってから五回目の、ふたりだけのお茶会。
『自分の意志をしっかりと持った気高くて芯の強い人なんだ。あとは、そうだな…ありきたりだけど、笑顔と優しさを忘れずに相手に寄り添ってくれる人、かな』
あなたにもっと好かれる女の子になりたくて、どんな異性が好きかと聞いた私にあなたは優しく笑ってそう答えてくれた。
『そして、そんな人が悲しんでいる時には誰より早く駆けつけて、手を差し伸べられるヒーローになれたら、とても素敵なことだよね』
少しだけ恥ずかしそうに頬を染めたあなたの言葉は私の心に深く刻み込まれた。
ああ、それがあなたの理想の女性なのね。それがあなたの望む関係なのね。
ならば、私はそんな女性になってみせましょう。そんな関係を築いてみせましょう。
あなたのその優しい眼差しに見つめてもらえるなら、手を差し伸べてもらえるなら、そのくらいわけないわ。
あなたのお気に召すままに、理想の女性になってみせる。
幼い恋心を胸に私は己に誓いを立てた。
◇◇◇
穏やかな朝の陽ざしに照らされた緑あふれる庭園。様々な種類のバラや木々で彩られ、皇城のなかでも特に美しいと有名なその場所をルルアンナ・シャレットは歩いていた。
侯爵令嬢である彼女の後ろには幼いころから仕えてくれている侍女のミレットが静かに付き従っている。
「今日は本当に良い天気ね。お茶会にはピッタリだわ」
「はい、皆様もきっと楽しみにされているかと」
センス良く敷かれたレンガの小道を踏みしめながら、ルルアンナは辺りを見回した。一見無造作に見えて品よく配置されたバラの色の組み合わせも、形よく整えられた庭木も実に見事だ。帝国広しといえど、ここまでのものは他にないだろう。
「さすがナルシッサ様のバラ園ね」
「新種のバラが丁度見頃だそうで、お披露目も兼ねているのだとか」
「まあ、それは楽しみだわ」
あと数時間もすればこの場所は皇室主催のお茶会の会場となる。皇室主催といっても、自分が管理するこの庭園を多くの人に見てもらいたいという皇后の願いで年に数回行われるもので、そこまで堅苦しいものではない。最近は帝国の主だった貴族の令嬢たちが集まって親交を深める交流の場となっている。
しかしルルアンナにとってこの場所はそれだけではない、特別なものでもあった。
「美しくて、とても懐かしい…」
そう、この場所はルルアンナが愛する人と出会い、その人のために誓いを立てた場所でもある。彼女にとってひと際大切な思い出の場所だった。
あれからの努力と苦労の日々を思い、思わず大きく息を吐く。様々な思惑にも巻き込まれ、決して穏やかとは言い難い日々だった。
しかしそれも、全てはルルアンナの心をとらえて離さない彼の人のため。その姿を思い浮かべるだけで、彼女の心は浮き立つような心地になる。ああ、彼に会いたい。
「ルル」
その時、ふと後ろから声をかけられた。ちょうど脳裏に浮かんでいたものと同じ低く穏やかなその声に、ルルアンナはパッと振り返る。
「フェリオ様!」
陽の光に輝くブロンドの髪に、海のように深みのあるロイヤルブルーの瞳。スラリと高い背に引き締まった体躯を持ち、端正なその顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。
フェリオルド・アイン・ヴァイスナー。この国の皇太子であり、ルルアンナの婚約者でもある。
思わずというように小走りで近づいたルルアンナは、すぐに淑女のふるまいではないと足を止める。しかしそれを見たフェリオルドはクスリと笑って大きく両手を広げてみせた。
「今は他人の目もないから気にすることはない。おいで」
その言葉に押されるようにポスリと広い胸に飛び込めば、長い腕がルルアンナを優しく抱き締めた。大きな手に髪を撫でられて、嬉しさと少しの恥ずかしさに目を細める。誰より愛しくて、信頼できるルルアンナの大切な人。
彼と出会った幼き頃にした決意を一瞬たりとも忘れることなく、ルルアンナは己を磨き続けてきた。淑女としてのマナーや知識、美しさを保ち続けることはもちろん、フェリオルドが語った理想の女性に沿うための努力も欠かさなかった。いつも笑顔で寄り添い、時には励まし、慰め、彼の功績は自分の事のように喜んだ。迷惑をかけない範囲で甘え、甘やかした。そんなルルアンナを彼は大切にしてくれた。
そして現状に胡坐をかくことなく、ルルアンナは今もたゆまぬ努力を続けている。何故なら本当の自分はそんな人間ではないからだ。
元々の自分は気が強く、狡猾で計算高い。決して聖母のような女性ではない。故に、家族にさえ本当の自分は見せていない。唯一知っているとすれば、幼少期からずっとそばで仕えてくれているミレットだけだ。
そんなものは偽りだと、相手を騙しているだけの悪女だと言う者もいるだろう。しかしルルアンナはそうは思わない。彼に釣り合う人間になるためにあの日からずっと、血の滲むような努力を続けてきたのだ。
そうやって身につけた姿だって紛れもなく自分自身なのだから。偽善者ぶった他人の言葉などルルアンナには何の意味もない。
彼女の望みは昔も今もたったひとつだけ。愛する人のそばにいること。
「こんな時間に城にいるなんてどうしたんだい?」
上から降ってきたフェリオルドの声にふっと意識を戻す。くっつけていた頬を離して大好きな顔を見上げた。
「今日は皇后陛下の庭園でのお茶会の日ですから」
「ああ、そういえばもうそんな時期だったね」
少しだけ考えるように視線を上げ、しかしすぐに楽しそうにルルアンナを見下ろした。
「しかし、お茶会にはまだ早い時間のようだけど」
恐らく分かっていて聞いているだろうその言葉に、ルルアンナは頬を赤くして俯いた。
「それは、その、こうしてフェリオ様にお会いできるかもしれないと思って…」
もごもごと彼女が言い訳を述べていると、頭を抱え込むようにギュッと抱き締められる。
「ふふ、すまない。少し意地悪をしてしまったね。ルルが可愛くてつい」
その言葉に拗ねたように小さく唇を尖らせてみるも、楽しそうな笑顔を見てしまえばそれも長くは続かない。つられるように笑みを浮かべるルルアンナの手を取って、フェリオルドはゆっくり歩きだした。気づけばミレットは会話が聞こえない位置まで下がっている。
「せっかくルルが僕のために時間を取ってくれたのだから、どこか落ち着いて話せる場所へ行こうか」
「フェリオ様のご予定は大丈夫なのですか?」
「幸運なことに今日はそれほど忙しくないんだ。タイミングが合えばお茶会にも顔くらい出せるかもしれないな」
「まあ、そうなれば私にとっても幸運ですね」
欲を言えば、今この時間も少しでも長く続いてほしい。そう思うほどに楽しい時間というものはすぐに過ぎてしまうのだけれど。とりあえず、今は余計なことを何も考えずにせっかく訪れた機会を楽しみたい。
それは誰にも邪魔されることのない、お茶会が始まるまでのほんのひと時の、でも確かに幸せなふたりだけの時間だった。
初めてのオリジナル小説です。色々至らないところもありますが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。もし興味を持っていただけた場合は、お手数ですが評価をくださるととても嬉しいです!