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鏡に呪うよりも  作者: こす森キッド
9/13

鏡に呪うよりも 8.

8.



二〇×四年 八月二十四日(金曜日)


 その日の午後、X高校のグラウンドでは、各組それぞれ、応援合戦の“人文字”の練習が行われていた。

 業者によって設営された階段状の鉄骨スタンドに、応援団以外の生徒たちがそれぞれ所定の場所に整列して腰掛ける。

 そして正面に向かって掲げたパネルを次々めくって色を変えていくことで、全員で大きな文字を表現していく方式のマスゲームだ。

 このスタンドは体育祭期間中、そのまま各組に属する生徒たちの待機場所になるのだが、屋根が設けられておらず、生徒たちは練習中直射日光に晒され続ける形となる。

 八月下旬となってもいまだ酷暑は続いており、熱中症を防ぐため、学校側から生徒たちへ休憩時間は必ず日陰に移って水分補給をするよう、繰り返しアナウンスがされていた。


 混雑を避けるため、各組が代わるがわる休憩に入るよう、スケジュールは調整されていた。

 青組の休憩時間中、乙倉は応援スタンド正面向かい側、校舎側に建てられたテントの下に腰掛け、水筒の中にたっぷり用意しておいた、真水で希釈されたスポーツドリンクを呷る。

 乾いた喉に、深く沁み渡るようだ。

 グラウンドの向こうでは、ちょうど黄組が人文字の練習をしていた。

 さすがに練習が始まってからまだ日が浅いので、チラホラとミスが見受けられる。

「暑くてしんどいかもしれんけど、あと五分集中するよー!」

 首からホイッスルを下げた応援団員が、喝を入れるべくスタンドの生徒達へ大声を上げている。

 マスゲームの宿命として、一人間違えるだけでもそのミスは非常に目立ってしまう。

 白色の半紙に落ちた、一滴の墨汁のように。

 だから、人文字を成功させる上では、全員がノーミスで完遂することが前提となる。

 一応、人文字パネルの裏側にはカンペが貼られているので、意外とミッションそのものは単純作業なのだが、この暑さの下で集中力を保つだけでも難儀なことに変わりなかった。

 

 乙倉自身は特に気にならないが、苦手な人はとことん苦手だろうな、と思う。

 皮肉をこめるつもりはないのだが、この人文字は、この学校に非常によく似合っているように思えた。

 大袈裟な表現をすれば、全ての生徒が一体化、同一化、画一化を要請されるところとか。

 ふと、この場にいない丙児のことが頭に浮かぶ。

 さすがに二学期が始まれば学校にも顔を出すだろうが、そこからこの練習に合流するのは、随分居心地が悪いのではないかと心配になる。


 そんなことを考えながら、校舎の壁掛け時計を見て時刻を確認しようと乙倉が後ろを振り返ると。

 グラウンドと三階建ての校舎との間を仕切る、緑色の高い防球ネット、その向こう。

 スーツ姿の男が一人、目に入った。

 ノーネクタイの白い長袖ワイシャツに黒いスラックス、黒い革靴の男。

 アイロンが掛けられ皺もないワイシャツを、首元のボタンまでしっかり閉じて腕まくりもせず、きちんとした身なりを保って佇んでいるが、その様子はこの酷暑の中ではむしろ異様に見える。

 その視線は黄組のスタンドの方、人文字練習へ向けられているようだ。

 うちの高校の職員ではない。

 夏休みなので、もしかしたら視察か何かに来た他校の先生だろうか。

 この学校に部外者が立ち入る場合には、まず校舎入り口の事務室で受付を済ませるよう決められているが、来賓であることを証明するホルダーは首から下げていないようだ。

 これから事務室に向かうところなのかも知れないが、その佇まいと相まって、男は独特な存在感を醸し出していた。

 訝しみつつも乙倉はその場から立ち上がり、グラウンドからは影になっている校舎軒下、そこに設置されているウォータークーラーに冷水を補充にしに行く。



 列の落ち着いたウォータークーラーにて、水筒を満杯の冷水で満たす。

 そこから応援スタンドに戻る途中、乙倉はグラウンドの端、校舎外の男子トイレに寄った。

 古いコンクリート叩きの手洗い場から中に入ると、一人先客がいる。

 先ほどの、ワイシャツの男だ。

 狭い感覚で三つ並んだ小便器のうちの真ん中、大股開きで使っている。

 もうちょっと足を閉じてほしいなと内心思いつつ、「横すみません」と断りを入れて左隣の便器の前に立つ。

 間もなく男は用が済んだようで、トイレを後にしていくが……。

「えぇ……」

 思わず、男の方へ意識が向いた。

 なんとその男は、用を足したあと手も洗わずにトイレから出ていったのだ。

「うわぁ……」

 手を洗わない人はたまに公衆トイレなどで見かけるが、学校施設で、しかも来訪者がそれをするところは初めて見た。

 もしかしたら教員ではないのかもしれない。

 こういう人が電車の吊革を掴んでいるところを想像すると、ゾッとするよな……。

 しかしその時、ふと、視界の中に異変を感じた。

 トイレの出入り口のところに、濃い青色の、名刺くらいの大きさの花弁が落ちていったのだ。

 というか、視界の隅、“あの男の袖口から舞い落ちた”ように見えた。

 甲田の制服からこぼれ落ちた、あの花びらの軌道と重なる。

「…………」

 乙倉の直感に何かが引っかかった。

 もしかしたら、あの男は甲田の身体に起きた現象と、何か関係があるのかもしれない。

 なんだか不潔な感じがして気が進まなかったが、乙倉は男がトイレの床に落としていった花弁を、こっそり拾い上げてハーフパンツの右ポケットに仕舞い込んだ。


 そのトイレから出ようとすると。

「おっと」

 すぐそこに甲田が突っ立っていた。

 ぶつかりそうになった体を翻す。

 どうやら黄組も休憩に入ったらしい。

 なんだか、浮かない表情をしているように見えるが。

「こんなところでどうかしたのか?」

 ここの屋外トイレは男子用しかない。

 わざわざ、こんなグラウンドの端の方まで来て、何をしているのだろう。

「ううん、何でもない。

 ちょっと休憩場所に、移動してた途中」

 そう言いつつ、先程の男が立ち去った方向をしきりに気にしていた。

 あの男と甲田の間に何かあったな、と乙倉は勘付く。

「もしかして、今このトイレから出てきた男に何か言われたのか?」

「……」

 沈黙が、何より雄弁に肯定を示していた。

 やっぱり、関係があるようだ。

「あとで、話、詳しく聞かせてくれ」

「……うん」

 甲田は何か言葉を飲み込みつつ、乙倉の言葉に頷く。

 おそらく、甲田の身体から生えてくる花びらや葉っぱは、甲田自身の心の中の非常にデリケートな部分と絡み合っている。

 初めは直感的に浮かんだ仮説に過ぎなかったが、昨日顕微鏡で見た裏垢のIDや今の甲田の様子を踏まえ、おそらくその考えは正しいのではないかと、乙倉の確信は深まりつつあった。

 深い話を聞き出すにしても、少しずつ時間をかけた方が良いだろう。

 グラウンドのさらに隅の方へ歩いて行く甲田を見送りながら、乙倉はそろそろ練習が再開されるだろうスタンドの方へ戻っていった。



 その日の体育祭練習も佳境に入りつつあった。

 人文字の練習も一区切り、今は種目ごとの参加者同士集まって各自打ち合わせをしているところだ。

 とは言っても、乙倉が参加する俵リレーはそのシンプルさ故、打ち合わせる内容もほとんどない。

 酷暑の中、高負荷の練習を長時間するわけにもいかない。

 一通り安全上の注意喚起と、本番で使う俵の重量確認をしただけで、種目練習は程なく解散となった。

 今は、校庭隅の木陰で塩飴を舐めつつ水分を取りながら、フォークダンスの練習を遠巻きに見物しているところだ。

 もしかしたら、甲田もあの中に混じって練習しているのだろうか。

 乙倉は無意識にその姿を探していた。


 相手はどんな奴なんだろう……。

 なんだか、放課後デートを繰り返しているうち、自分の中で甲田に対する“彼氏面”の感情がすっかり育ってしまった気がする。

 愛着が湧いたということなのだろうか?

 実態と言えば、大半の時間は特に会話もせず、スマホをいじったり予習をしたりしていただけなのに。

 昔のことを蒸し返されて脅されたり、根も葉もない噂を流されたり、たまたま彼女の裏垢を発見したかと思ったら胸から草花が生えているところを目撃したり。

 碌な思い出がないな?

 もしかして、色んなことが起こりすぎて、頭が勝手にストックホルム症候群的な感情を抱いているのだろうか。

 この分だと、十回目が終わった時に、なかなかの喪失感を抱いてしまうかもしれない……。

 そんなことを言葉にしたら、甲田に呆れられる気がした。


 ふと、先程ポケットに仕舞った青い花弁のことを思い出す。

 取り出して、目の前に掲げて観察してみる。

 やっぱり、甲田のそれと似ている気がする。

 色合いと形状に関しては、全く違う。

 ただ、どちらも太い花脈と人肌に似た触感を有していることが、何よりも他の植物と一線を画す共通点だ。

 男のそれが持つ花脈は甲田のものよりも太くはっきりと浮き出ており、手触りも男性の手のようなゴツゴツ感がある。 

 木漏れ日に翳してよく観察してみると、やはり根本付近、花脈に沿って点々が刻まれていた。

 しかし甲田のそれと比べて、その点々はかなり長く続いており、そこには膨大な情報量が含まれているであろうことが見てとれた。

 おそらくはあの男の個人情報なので、本当は気が進まないが、手を洗わなかったことを見逃した手前、おあいこということで許してほしい。

 甲田が置かれている状況を把握するための何かヒントが得られるかもしれないので、帰宅したら顕微鏡で覗いてみるべく再度ポケットに仕舞う。


 それにしても、日陰にいるのに汗が止まらない。

 連日続く真夏日の中でも、今日はまた一段と暑さが酷く感じる。

 先程の休憩時間で満杯まで貯めた水筒の中身も、気づけばほとんど飲み干していた。

 今日の練習時間はあと少しだが、念のため水分を汲み直しておこうか。

 乙倉は立ち上がり、校舎軒下のウォータークーラーへ向かう。


 その道すがら、休憩中の生徒たちがざわついているのが目についた。

 何事かと視線を向けると、木陰の下、横になった生徒の姿が見える。

 どうやら熱中症を起こしたらしい。

 生徒数人が、教師らに知らせに向かったところのようだ。

 もしかしたら、ウォータークーラーで冷水を汲んで持って来れば、役に立つかもしれない。

 乙倉は横目に一度通り過ぎ、ウォータークーラーに向かう歩調を早めた。


 その道程、今度は乙倉自身の喉がどんどん渇いていく感じがした。

 脈拍もだんだん上がっていってる気がする。

 もしかして、自分も熱中症に陥ってしまったのか?

 水分とミネラルは十分摂っていたはずだったが……。

 他人の心配をしている場合ではなかったかもしれない。

 ウォータークーラーはもう目前なので、とにかくまずは自分の水分補給を優先しなくては。

 なんとか、早鐘を打つ胸を押さえつつ、ウォータークーラーに辿り着く。

 何故か分からないが、近くに人の姿が全く見られない。

 しかし、既にそこまで注意を向ける余裕もなくなっていて、乙倉はただただ噴水口から湧き出る水にかぶりついていた。

 その潤いと冷たさに一時の安息を得た、のだが。

「…………?!!」

 次の瞬間、乙倉は飲み込んだばかりの水を、地面に吐き出していた。

 それは、本能的な危険信号。

 舌から脳、時間差で到達した味覚。

 ウォータークーラーの水、消毒のための塩素がもたらす独特のカルキ臭、その奥に……得体のしれない苦味が潜んでいた。

 これは?

 頭が割れるように痛い。

 空嘔吐きが止まらない。

 胸が、心臓が……、苦しくて、立ってられない。

 耐えられず、ウォータークーラーの真横の地面、仰向けに倒れ込む。

 上体が傾いていくその瞬間、なんだか時間の経過が遅くなっていき、もしかしたらこのまま時間が止まってしまうのではないか、そんな感覚に襲われる。

 恐怖すら追いついてこないような。

 スローモーションの視界の隅、乙倉は見た。

 あの男だ!

 鉄筋コンクリート造りの校舎の壁、その陰から半身を覗かせたあの男が。

 自分を、自分一人だけを、睨めつけていた。

 来賓のホルダーは、下げていない。

 まさかあいつが……。

 何故だろう、乙倉はあの男が一体自分に何をしたのか、分かっている気がした。

 男が、校舎の向こう側へ去っていく。

 甲田が、危ない。

 薄れゆく意識の中で、乙倉は、甲田の身を案じていた。





 校庭の隅っこ。

 私だけが知っている、この学校で一番涼しい木陰、秘密の場所。

 そこで私は独り、マスゲームの予行演習で火照った身体を冷ましていた。

 学校と外との境界線、その鉄製のフェンス際。

 お盆休みのうちに除草剤を撒かれたのだろう、青々とした草むらは見る影もなく、か細い枯れ草ばかりになっていた。

 なんだかまるで、燃え尽きて灰になったお線香が沢山立っているような。

 今の私には、そんなふうに見える。


 背後から、人が近づいてくる。

 何故だろう、それが誰なのか、分かっている気がする。

 その人は、私の背中にこう語りかけた。

「先ほどのこと、お返事は決まりましたか?

 一緒に付いてきてください。

 あなたの為ですよ。

 彼氏さんにも、息災でいてほしいでしょう」

 嗚呼……。

 この男に、今から私は連れて行かれる。


 『制服に着替えてから来ること』という指示に従って、こっそり一人教室に戻り夏用の白いセーラー服に着替えた私は、誰にも気づかれないよう、裏門をくぐり抜ける。

「悪いようにはしないから、安心して」

 すぐそこに待ち構えていた男は私の左耳にこう囁きかけると、乗り付けられていた黒い車の後部座席に私を誘う。

 いつもの通学路が、スモークがかった薄暗い車窓の向こうに流れていく。

 それを見ながら、私は乙倉のことを考えていた。

 こんなことに巻き込んでしまって、申し訳なく思った。

 まさか、ここまでおかしな状況になるなんて、想像もしていなかった。

 私が大人しく付いていく以上、乙倉は無事であると信じたい。

 でも……。

 乙倉と次に会う時、私はもう私ではなくなっているかもしれない。

 そう考えていた。



 街のはずれの洋館に車が着くと、男はその中の一室へ私を案内した。

「君のための部屋を用意してるんだ」

 植物を育てるための用具が一通り揃えられている様子のその部屋。

 南側を向く部屋の窓のちょうど真正面、そこに人ひとりが座りこめるほどの大きさの低い木枠が置かれ、その中に水苔が敷き詰められていた。

 私は、男の目配せに弱々しく頷くと、制服姿のまま水苔の上にペタンと座り込む。


 水苔にはあらかじめ水分が沁み込ませてあって、その冷たさが脚とお尻に不快感を与えていたけれども、私自身の体温によって、徐々に生暖かくなってくる。

 ゴソゴソと、制服の中から音が立ち始める。

 私の内側から、葉と花弁が生え始めたのだ。

 その膨らんだ嵩に耐えきれず破けてしまう前に、スカートと下着を外し、木枠の横に置いておく。

 局部は、既に生い茂った葉で守られていた。

 気づけば、胴体から腕、脚に向かって、アザのような緑色が侵食し始めていた。


 私の着ている白いセーラー服がバサリバサリと蠢き始めた。

 上へ上へと勝手にせり上がり始める。

 襟がひとりでに立ち、真上を向き、私の横顔を包み込むように丸まっていく。

 私の身体と同じようにセーラー服そのものも変質していっているのだろう、私の胴体や肩幅を覆っていた腹回り、胸まわり、袖の部分の面積がどんどん小さくなっていき、対照的に襟がその全てを吸収していくように肥大化していった。

 視界は、顔ごと白い襟に完全に覆われてしまったせいで、何も見えない。

 セーラー服の本体が頭の方へせり上がり縮んでいったせいで、私の胸はその形を露わにしてしまっていた。

 大事なところは生えてきたペタルで隠されているものの、素肌が外気に晒されてスースーする。

 身を捩るとペタルと胸の先端とが擦れ、くすぐったい。

 急激に小さくなったセーラー服本体が脇や背中を締め付けてくるが、やがて私の素肌に馴染んでいくように同化し、皮膚の一部のごとく癒着していった。

 その裾まわりだった物が、いつの間にか花びらの意匠を形成して、白地の先端にかけて淡い赤紫色が沈着したそのペタルが、私の胸の盛り上がりに垂れかかっている。

 完全に私の頭蓋を覆い隠すくらいまで肥大化し、丸まり包み込んできた襟は、花の蕾、筒状花の形状を成していった。

 いつの間にか、手の先足の先まで緑色は侵食しきっていた。

 脚や尻からは水苔に根が張っていき、より効率良く水分と栄養を吸い上げようと、木枠の奥底へ絡みついていく。


 最後の仕上げとばかりに、筒状花にすっかり包み込まれた私の顔が、花の底面、胴体方向へめり込むように沈んでいく。

「あぁ……、いやっ……」

 首、後頭部、上頭部。

 真上を向いた顔だけが、花の底に残る。

 筒状花の花びらの隙間から、部屋の天井がかろうじて見えるのみとなった。

 すると今度は、喉奥から口許に向かって、何かが這い出してきた。

「カハァ……アァ……」

 苦しさはさほど感じないが、それ以上に、自分の中の外に出してはいけないものがまろび出ていくような、そんな嫌悪感に襲われる。

 まもなく、私の口から顔を出したのは、太く巨大な、雌蕊だった。

 人間の、身体の内側のような、薄いピンク色をしている。

 それが、垂直方向、上に向かって雄々しく屹立せんと伸びていく。

 ああ、これは……、私自身だ。

 そう分かった。

 いつの間にか沈み込んだ私の顔は、花びらと同じ白色に染まったライフマスクのようになっていた。

 表情を失った瞳で、口腔からそり立つ雌蕊をぼんやり眺めていたが。

 瞼が、ひとりでに閉じていってしまう。

 代わりに、筒状花の正面、私の顔があった場所の表面に、私の目そのものと眉毛が浮かび上がってきた。

 花びらの瞼を開くと、そこには男によって姿鏡が立てられていて、自分の変わり果てた姿がそこに映っていた。

 私の姿は、まるで人間大の花の化け物とでも言うべき姿に変貌していた。

 両目の形と、黒くクッキリした眉毛、そして全身のシルエットが、人間だった頃の面影として残されていた。


 鏡に映る光景が信じられないような、でもあらかじめ分かりきっていたような、そんな心境で、私は自分の身体を抱き確かめる。

「ようやっと、君に会えたね」

 いつの間にか、私の傍に歩み寄っていた男が、筒状花の中心に聳り立つ雌蕊を、徐に撫でてきた。

「んーっ……!、むーっ……!」

 やめてっ!私自身に触れないで!

 身体の芯、絶対に他人には触らせられない場所を無理やり掴まれているような感覚で、強烈な不快感に襲われる。

 男の手を振り解こうとするが、変化したばかりの身体がまだ馴染まないのか、上手く動けない。

 まるで、眠りながら見る夢の中で、必死に藻搔いているような、そういう感覚。


「まだ不自由に感じているのかもしれないけど、慣れてしまえば極楽だよ。

 その状態こそが、君自身の本来の姿なのだから」

 本来の姿……?

 馬鹿な。

 こんな化け物のような、異形の姿が?

 しかし、私が抱いている拒絶感に反し、身体はだんだんと新たに得た姿に順応しようとしているのが分かる。

「孤独に陥っている人ほど、そういう“クライシス”に見舞われることが多いんだよね。

 君のような、思春期真っ盛りの真面目な若者なんかはまさに、典型例さ。

 だから、僕が保護してあげた。

 仲間だからね」

 男は穏やかな口調で私に語りかけると、もう一度、私の雌蕊を指の先で優しくなぞる。

 すると、先程までは感じなかった、恍惚じみた甘い痺れが、私の神経を這い上がってきた。

「んんっ……」

 ライフマスクの口の隙間から、思わず声が漏れる。

 男は、私の『仲間』だと言う。

 もしかしてこの人も……。


「悪い気分ではないだろう?」

 同志を導かんとするような、その穏やかな語り口。

 しかしその愛おしそうに私を見る表情に、私はやはり恐怖を感じていた。

 私の仲間だ、私の為だと言うのなら、なぜ乙倉にまで手をかける必要がある?

「まだ、納得できていないようだね。

 無理はない」

 男は、私の気持ちなど問題でもないと、立ち上がり部屋から去っていく。

「どのみち、完全に植物の体を使いこなすにはまだ身体が安定していないだろうから、この部屋で養生しながら、ゆっくり考えるといいよ。

 こんなところまで助けに来る相手なんて、いないだろう?

 定期的に水と肥料を持ってくるから、心配しないでね」


 私は部屋に一人、いや一株残された。

 身体はまだ、上手く動かない。

 動いたとしても、根っこが水苔に絡みついて動けない。

 ゆっくりと、絶望が込み上げてくる。

 いつしか、窓の外はだんだんと暗くなっていった。

 堪えてチャンスの時に備えるべく、私は筒状花の花弁を閉じ、花弁に浮かんだ瞼を伏せて、一晩の眠りについた。

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