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Cross×World  作者: シクル
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明日のアップルパイ

 永久が空を飛べる以上、一々塔の下から丁寧に登る理由はない。永久は既に、ゲイルの大まかな位置を感知出来ている。

 ゲイル達がいるのは塔の最上階。窓は見当たらないが、ないならぶち破るだけだ。

「ちょっと危ないからしがみついててね」

 少し怯えた様子でしがみつく和葉と、やや遠慮がちにしがみつく家綱を確認して、永久は眼前にそびえ立つ塔の壁を見つめる。

 そして深く息を吐くと、永久の上で眩い光が発生する。それはみるみる内に巨大な剣の姿を形成した。

「め、めちゃくちゃだな……アンタ……」

「最近特によく言われるようになったよ……」

 苦笑する永久とは裏腹に、剣の方は凄まじい勢いで塔へと向かっていく。剣が塔の壁に突き刺さったのを確認すると、永久はすぐに数メートル壁から離れた。

 次の瞬間、剣が轟音と共に爆発する。

 その衝撃で塔の壁は粉々に破壊され、内部が顕になった。

「ゲイル!」

 壁の向こうは大広間になっていた。

 床には正体不明の魔法陣が描かれており、不規則な突起をもつ壁と天井からは淀んだ薄暗い光が発せられている。

 床の魔法陣を囲むような形で、三人の男女が立っている。ゲイル・トワイライトと鯖島勝男、そして日知梨衣だ。

 梨衣と鯖島は驚いた様子で永久達を見ていたが、ゲイルは驚くどころかニヤリと笑みを浮かべた。

「そちらから来ていただけるとは。招待の手間が省けて助かるよ、アンリミテッドクイーン」

 ゲイル達の出方を伺いつつ、永久は広間の中に入って着地すると、和葉と家綱をそっとおろした。

「鯖島ァ!」

 着地した途端、家綱はそれなりの剣幕でそう叫ぶ。

「九号……! お前、何故こんなところまで……!」

「お前だけは絶対ェに逃さねえよ……!」

『……家綱、すぐに捕らえるぞ……! 奴だけは許してはおけん』

「安心しろよセドリック、必ず捕まえて、お前に一発ブン殴る機会をくれてやる」

 鯖島勝男という男は、それほど特徴のある男ではなかった。

 どこにでもいそうな中年男性、という見た目で、白衣を纏っていること以外に特筆すべき特徴はない。

 だが恐らく、その顔に刻まれたシワの内いくつかは、邪悪で下卑た笑みによって刻まれたものだろう。そう思わせる何かが、鯖島勝男にはあった。

「梨衣! やめて! どうしてこんな教団に入っちゃったの!?」

 問いかける和葉を一瞥して、梨衣は小さく鼻で笑う。

「理由がわかったら説得出来ると思ってるんだ? 教えてあげようか?」

「梨衣……!」

「私ね。和葉みたいな人全員に死んでほしいの。希望をたっぷり持った温室育ちの皆に死んでほしい。もちろん私も一緒に死ぬからね」

 梨衣の言葉は、まるで下から響いてくるかのようだった。

 もう見ているものが違う。

 愛され、救われ、未来を見つめる和葉。

 遺され、救われず、全てを呪う梨衣。

 こんな二人が話し合って、一体何が変わるというのか。

 そう思ってくじけそうになる心を、和葉は自ら叱咤する。

 話をするって決めた。手を差し伸べるって決めた。早坂和葉がそう決めた。

 ならもう、迷うべきではない。

「梨衣! もっと話をしよう! 梨衣の気持ち、私聞きたい! 私の気持ちも、もっと聞いてほしい」

「はぁ……。そういうとこなんだよ、和葉。そういうところがもう受け付けないんだって、なんでわからないの?」

「……わからないよ。わからないから、教えてほしい」

 和葉のその言葉に、梨衣は顔をしかめる。そのまましばらく梨衣が和葉を睨んでいると、ゲイルは梨衣の肩にそっと手をおいた。

「……ゲイル様」

「話をしてあげればいいじゃないか。そしてこの世界が如何に無価値であるかを、教えてあげればいい」

 ゲイルが言い放った”無価値”、という言葉に、永久はピクリと反応を示す。

「おや、気に触ったかなクイーン。あなた程の方なら、もうとっくに気づいているものだと」

「……そうだね。結構前に気づいたかな。世界に意味なんてないって」

「ほう……」

「でも残念だったね! 私はもうその先を見てる」

「では教えてもらおうか。その先とやらを」

 ゲイルがそう言った瞬間、塔が――――否、世界が揺れる。

 ぐにゃりと視界が歪んで、その場にいたゲイルと永久以外の全員がよろめいた。

「何を――――」

 永久が口を開いたその時には既に、広間には永久とゲイルの二人しか残されていなかった。

「儀式は既にほとんど終了している。あとは仕上げをするだけだよ」

「みんなをどこにやったの?」

「私とあなたが戦えば巻き込まれてしまうだろうからね。大事な信徒をこれ以上減らしたくはない。一時的に隔離させてもらったよ……それに彼らには因縁があったみたいじゃないか。私は機会を与えたんだよ」

「優しいんだね」

「余裕だな」

「難しくないからね。あなたを倒してみんなを助けに行くことくらい」

 永久の物言いは挑発的だったが、ゲイルに動じる様子はない。しばらく静かに対峙していたが、最初に動いたのはゲイルだ。

 右手を永久へかざし、小声で正体不明の呪文を唱え始める。

 すると次の瞬間、永久の身体が黒い炎に包まれた。それは激しく燃え盛り、永久の身体を焼き尽くさんと踊り狂う。

 しかし焼かれている当人は、さして気にする様子もない。

「……!」

 永久が右腕を横に薙ぐと、永久を包んでいた黒い炎は一瞬にして姿を消す。

 そしてそれと同時に、永久の姿はその場からかき消えていた。

「言ったでしょ。難しくないって」

 ゲイルには視認出来ない速度だった。

 両手にショーテルを握りしめた永久が、ゲイルの眼前に迫っている。

 そのままゲイルは、永久のショーテルで袈裟懸けに切り裂かれた――――かに思われた。

 永久のショーテルが、見えない障壁に防がれる。

 ゲイルの身体は無傷だった。

「さて、踊りましょうか」

「そうだね。あなたがついてこられるといいけど」

 ギロリと睨みつける永久の双眸に、ゲイルは薄ら笑いだけを返した。



***



 気がつけば和葉は、塔の外に出ていた。

 状況が理解出来ずに辺りを見回しても、そこにあるのは瓦礫の山ばかりだ。その上、例の塔はどこにも見当たらない。

「ここは……?」

 どこか遠くへ飛ばされてしまったのだろうか。

 状況を飲み込めない和葉だったが、前方に人影を見つけて身構える。

「そんなに話がしたいなら、少し付き合ってあげようか」

「……梨衣!」

 そこにいたのは、日知梨衣だった。

 彼女は和葉と正面から向き合うと穏やかに微笑んで見せる。

「さあ、どうぞ? 言いたいことがあるなら好きなだけ言ったら?」

 言葉だけだ。

 梨衣はもう、和葉の言葉を聞き入れるつもりなんてない。

 口ではどれだけ和葉の言葉を促していても、梨衣の表情にははっきりと拒絶の色が見て取れた。

「……梨衣、こんなことやめよう! 梨衣は本当に、世界を壊したいの!?」

「壊したいよ?」

「どうして!」

「辛いだけで意味がないから」

「……そんなことない! 今は辛いかも知れないけど、生きていればきっと――――」

「ないよ」

 ピシャリと。遮りながら言い放って、梨衣は深く溜め息をつく。

「そんなに言うなら想像してみてよ。私と似た人生を」

「え……?」

「途中まではそこまで変わらないよね。じゃあその後から。浸さんとかいう人に会えないまま、家族が全員亡くなった早坂和葉の人生を想像してみてよ」

 雨宮浸と出会えず、家族のいない早坂和葉。

 毎日霊に怯えながら、バイトを続けて生計を立てる毎日。

 きっとたくさん食べたりなんて出来ないだろう。

 自分の霊能力を疎み続けて、失敗を繰り返して。

「少しはイメージ出来た? 和葉がどれだけ幸せ者なのか」

 そう、早坂和葉は幸せなのだ。

 父も母も和葉を愛してくれている。自分を救ってくれた恩人であり、目指すべき目標である雨宮浸がいた。

 朝宮露子は離れていても友人であることに変わりはない。

 城谷月乃は頼ればいつでも力を貸してくれる。

 他にも、和葉を助けてくれる人達は何人もいる。

 疎んでいた霊能力は、自分を肯定する力となり、かけがえのない財産となった。

 過去も、未来も、そして現在も、全てが担保されていた。

「知らないと思うけど、世の中のほとんどの人はそんなに持ってないからね? 和葉。そんなあなたに未来と希望を語られたって仕方がないんだよ」

 梨衣の言葉に、和葉は押し黙る。

 彼女の言う通りなのかも知れない。

 未来を、希望を語るには、早坂和葉は持ち過ぎている。

 そんな和葉が、持たざる者に何を言ったって仕方がないのも道理なのかも知れない。

「ねえ、もしかしたら和葉はさ。今日までの間に同じようなこと言って誰かを傷つけてるかも知れないね」

 梨衣の言葉に、和葉はぞわりと怖気だつ。

「そう……かも……知れない……」

 和葉の無神経な言葉が、どこかで誰かを傷つけていた?

 考え始めればキリがなくなる。

「そうそう、その顔。昔の和葉みたいでいいと思う」

 そっと、梨衣は和葉に手を差し伸べる。

「大丈夫。私は許してあげるよ。正直、救われている和葉を見るのも、話を聞くのも辛かったけど、全部許してあげる」

 見るのも、話を聞くのも辛かった。

 救いたいと思っておきながら、和葉はいつの間にか梨衣を傷つけていた。

 知らず知らずの内に。

 きっと、過去も、どこかで――――

「浸……さん……」

 あの日。

 あの雨の中。

 和葉の言葉を浸はどう受け取った?

 己の無力を知り、ゴーストハンターを辞めようと決意した浸を引き止めた和葉の言葉を。

 雨宮浸は強く、底抜けに優しい女だ。

 例え傷付いたとしても、和葉を傷つけるような言葉は言わないだろう。

 あの日あの時、早坂和葉は雨宮浸を元気づけたつもりになっていた。

 実際に彼女の原動力にはなったのかも知れない。

 でもそこに、無数の擦り傷が伴っていたかどうかなんてもうわからないのだ。

 まして、友人の気持ちすらわかってやれないような和葉には。

「誰だって間違えるよ。私だって間違えてきた」

 膝から崩れ落ちそうになる。

 自分の言葉が、今まで誰かを傷つけていたのかも知れないと思えば何もかもを後悔したくなる。

「だから、消しちゃおう。全部リセットして、なかったことにしようよ。和葉」

 ああ、そんな風に思っていたこともあった。

 いつだって霊に苛まれて、友達も出来なくて、塞ぎ込んで、親の言葉も拒絶して、閉じこもって。

 自分も、それ以外も全部嫌いで、何もかも消えてしまえば良いと。そんな風に思っていたこともあった。

「でも……それで、いいの……?」

「ん?」

 うつむいたまま問いかける和葉に、梨衣は首を傾げる。

「間違えたからって、辛かったからって、全部なくしちゃってそれで終わりって……本当にそれでいいの?」

「いいと思うよ。全部なくなって、自分も消えればいいと思う」

「……ううん、違う。それじゃダメなんだ」

 ふらつきそうだった足に、グッと力を入れる。

 間違えたかも知れない。

 誰かを傷つけたかも知れない。

 この先も、どこかで誰かを傷つけるかも知れない。

「後ろを振り返り続けたってどうにもならないよ! 私は誰かを知らずに傷つけていた、梨衣のことだって……! でもだからって、全部消して終わりになんて出来ない!」

「えぇ……? じゃあ何、誰かを傷つけておいて平気で生きるってこと?」

「違う! 間違えたなら、間違えた分だけ償って生きるしかないよ! 死んで消えれば楽になると思ってるの!? そんなことない……死んで、未練を残して……呪いのように世界に残り続けてしまうことの方がずっと辛い!」

 死んで終われば楽だなんて、そんな逃避を和葉は認めない。

 未練を残して死んでしまった魂は、終わることが出来ないのだ。

 前に進めないままずっと立ち止まることしか出来ない。淀み続けて、悪霊になるしかない。

「生きている限り前には進める! 間違えても、誰かを傷つけても、私はもう立ち止まらない!」

「生きてる方が幸せな人は良いよね。いつまでも希望を吐き散らかせるんだから。生きてても死んでても辛いって話なら、いっそ全部巻き込んで死んじゃっても良くない?」

「そんなの自分勝手だよ! 梨衣の言ってることは絶対間違ってる!」

「じゃあ……じゃあどうすればいいわけ? ほら教えてよ」

「……ずっと言ってるよ。こんなことやめようって。後ろを振り返って、ずっと立ち止まったってどうにもならないよ」

 雨宮浸が亡くなった時、一度和葉は立ち止まった。

 もうどうしようも出来なくなって、そこから動けなくなって、何も考えられなかった。

 何かを喪えば、立ち止まることもある。

 歩けなくなることも、立てなくなることさえもあるだろう。

 だけど何をしたって、喪ったものは二度と戻らない。戻ってはいけない。それは和葉が誰より理解している。

「梨衣、あの時の話の続き、聞いてほしい」

 和葉の言葉に、梨衣は応えなかった。

 それでも和葉は、梨衣の言葉を待たずに続けた。

「私を救ってくれた浸さんは、もういない。院須磨町を守るために、死んだんだよ」

「……」

「浸さんだけじゃない。三年前、院須磨町を守ろうとして何人もの人達が死んだ。私だって、いくつも喪ってきたんだよ」

 梨衣にとって、和葉は眩しかっただろう。

 何もかも持っていて、幸福な人間に見えただろう。

 だけど和葉だって、何かを手に入れ続けて生きてきたわけではない。

 喪ったものはいくつもある。

 それでも。

 それでも。

 それでも、早坂和葉は立ち止まることをやめた。

「過去を見続けたって、今を壊したって、何も戻ってこないよ……梨衣」

「……耐えられない」

 ここで初めて、梨衣の瞳に悲しみの色が宿る。いや、今宿ったのではない。ようやく和葉にも見えたのだ。

「……耐えられないよ、私。もう何もない……和葉だって私を置いていった」

 立ち止まっていたから。

「梨衣……」

 住み慣れた場所を離れ、母を亡くし、なんの展望もないまま続く貧困生活。それがどれだけ梨衣の心をすり減らしてしまっていたのだろう。

 空虚な胸の内に、そっと入り込んだ教団に利用され、梨衣はこんなところまで来てしまっていた。

「梨衣の好きな食べ物って、何?」

 不意にそんなことを問う和葉に、梨衣はわけもわからず呆けてしまう。

 だがふと思い返せば、学生時代は何故かそんな話さえしていなかったように思う。

 ただ傷を舐め合うだけの毎日だった。

 今も、未来も、語らないまま。

「…………アップルパイ。お母さんが、昔焼いてくれたから」

 梨衣がそう応えると、和葉は今までの深刻な表情が嘘だったかのような笑顔を見せた。

 その弾けるような笑顔に、梨衣は戸惑う。しかしそんな梨衣に、和葉は勢いよく近づくとその両手を強引に握りしめた。

「アップルパイのおいしいお店、知ってるよ!」

「は……?」

「ねえ今度食べに行こうよ! 私奢る! 何個でも奢る!」

「奢るって……ちょっと、いきなりなんなの。こんな時に」

 和葉の妙なペースに乗せられかけていたが、梨衣は慌てて和葉の手を振りほどこうとする。

 しかしその手は、思った以上に強く握りしめられていて振りほどけなかった。

「食べたくないの!? 今まで食べたことのない極上のアップルパイだよ!?」

「何言ってんの? 大体、お母さんのアップルパイよりおいしいやつなんか知らないんだけど」

「どうかな~!? わかんないよ!?」

「……言ってくれるね。いいよ、じゃあ奢ってよ」

 梨衣がそう言った瞬間、和葉は屈託のない笑顔を見せた。

「……ほら、未来の楽しみって、簡単に作れるよ」

 包み込むように、そっと抱きしめる。

 冷え切った梨衣の身体を、ほんの少しだけでも温められるように。

「楽しいことがないなら、作ろう。ちょっと寄り道して、見つけようよ」

「和葉……」

「私、食べるのが好き。大好き。食べるって、生きてるって気がするから」

 おいしくて、満たされて、それが力になって。

 和葉にとって生きるということは、食べるということだ。おいしいということだ。

「梨衣の心は死んでないよ。お母さんのアップルパイの味、覚えてるんでしょ? 梨衣は生きてるよ。食べようよ、生きようよ」

 じわりと。梨衣の瞳に涙が滲む。

 溜め込んでいたものが、溢れ出してしまう。

 それを和葉は、しっかりと受け止める。

「食べ……たい……」

「うん……」

「アップルパイ……食べたいよ……」

 子供のように泣きじゃくる梨衣を、和葉は優しく抱きしめる。

 梨衣にとって必要だったのは、教団でも、破壊でも、終わりでもない。

 ただ優しく抱きとめてくれる誰かだった。

 生きたいと思える理由だった。

「食べに行こう、絶対」

「うん……!」

 泣きながらうなずいて、梨衣が強く和葉を抱き返した――――その時だった。

 ぞわりとした悪寒が、和葉の背を駆け抜ける。

 それと同時に、梨衣の額の傷口がギョロリと開く。

「っ……!」

 醜悪な黄色い目玉が、梨衣の額で不気味に蠢く。目玉が動く度に、梨衣は耐え難い程の苦痛に見舞われた。

 梨衣は和葉を突き飛ばしながらその場に崩れ落ち、その苦痛にうめき声を上げる。

「梨衣!」

 すぐさま梨衣に駆け寄る和葉だったが、梨衣の身体から伸びる蔦が和葉に迫った。

「そんなっ……!」

 咄嗟に回避して、和葉は梨衣の様子を見る。

 苦しみ悶える梨衣の身体に、無数の蔦がまとわりついていく。これではまるで、あの怪物達のようだった。

 蔦は梨衣の顔をも覆い、やがて顔のあった場所に真っ赤な花を咲かせた。血のように赤い花弁の一つ一つに、苦悶する人間の顔を刻んで。

「梨衣……! 梨衣!」

 もう、和葉の言葉は届いていなかった。

 梨衣が右手をかざせば、そこから蔦が和葉へと伸びる。すぐに青竜刀で切り裂く和葉だったが、今度は左手から伸びた蔦が和葉を絡め取った。

「くっ……!」

 やっと。やっと少しわかり合えたと思ったのに。

 梨衣の気持ちが伝わって、和葉の気持ちも伝わった。そう思ったのに。

「梨衣! ねえ梨衣! 返事してよ!」

 もう、何も伝わらない。

 返事の代わりに、和葉の身体はギリギリと締め上げられていく。

 気がつけば、周囲を怪物達に囲まれていた。

「梨衣っ! 梨衣!!」

 ぐにゃりとした気色の悪い感覚を伴って、空間が歪んだ気がした。

 それと同時に、周囲の怪物達が数を増していく。

 身動きの取れない和葉に、ゆっくりと梨衣が歩み寄る。

 集まってきた怪物達が、和葉を取り囲んでいく。

「アップルパイ……食べに行こうよ! 明日行こう! ねえ、梨衣!」

 眼前に迫った梨衣が、左手を振り上げた。

 その、瞬間だった。

 突如、和葉の後方からバイクのエンジン音が聞こえてくる。

「え……?」

 怪物達を蹴散らしながら、真っ白なスポーツバイクが和葉の元へ走ってくる。

 ソレは地面にタイヤをこすりつけながら派手にドリフトし、梨衣の身体へ体当りした。

 その衝撃で吹き飛ばされると同時に、和葉を捕らえていた蔦の力が一気に弱まる。

 解放された和葉は、その場に一度倒れ込んだ。

「君、大丈夫?」

 バイクに乗っていたのは、一人の男だった。

 ヘルメットを外すと、まだあどけない少年の顔が心配そうに和葉を覗き込む。

「……あなたは!」

 和葉はその顔に見覚えがあった。

 ここにいるハズのない。決して二度と会うハズのないその少年を、和葉は知っている。

『どうやらグリッチではないようだ。どうする?』

 突如、何もなかった少年の右腕に白いブルーレイドライブのような装置が現れる。そしてその装置からは、耳に心地の良い渋い男性の声が聞こえてきた。

「俺、オタクだけどヒーローだからさ……グリッチだろうとなんだろうと、こういうのは見過ごせない」

『……それでこそ”拓夫”だ!』

 少年は……拓夫は腰のホルダーから一枚のディスクを取り出す。そして右腕の装置――ハックドライバーの上蓋を開けると、すぐにそのディスクを装填した。

『Now Loading……』

 ハックドライバーから無機質な電子音声が鳴り響き、拓夫はすぐに上蓋を閉じる。

『Install……』

 再び電子音声が鳴り響くと、拓夫と和葉の周囲にホログラフィック映像のような壁が出現する。その壁は怪物達の侵入を拒み、弾き飛ばしていく。


『Set up! Hack!』


 ホログラムの壁が拓夫に迫り、拓夫の全身を包み込む。

 そして次の瞬間には、拓夫の姿は全く別のものへと変化していた。

 白を基調としたメカニカルなスーツに白いヘルメットのようなマスク。その姿は正に、ヒーローと呼んで差し支えない。

「拓夫……さん……?」

「君の明日のアップルパイ、俺が守るよ」

 超人ハック。次元を越えて、今ここに見参。

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