2話 現在1
そもそも、手順が違うんじゃあないですかね。
あの日……俺が竜に呪われた日に約束された末路は、『竜と知らずに竜に出会い、しばらく付き合いを深めたあと、竜であることを告白される』というものだったはずだ。
だから、どう考えたって『言えよ!』という俺の主張は筋が通っていると思うのですが……
などとテーブルを挟んで気弱になってしまうのは、あの日の記憶が蘇ったからというだけが理由でもなく、今生の俺たちの関係もまた、あの日、あの時代と同様の力関係が適用されているからなのだった。
すなわち、向こうが上位で、俺が下位。
その関係性は人間力(竜に使うのは違和感があるが)の差、というのか。
内向的であまりハッキリとは自分の意思を言わない『弱々しい俺』と、ハッキリ自分の主張を声高に叫ぶ『強い彼女』とのあいだに生じる必然的な差なのであった。
それは、俺と彼女が『ヒトと始祖竜』ではなくなって、たとえば『ヒトとヒト』になったって変わらない関係性であるように思われた。
思われたっていうか、実際に、変わらなかった。
あの日から数えきれないほどの年月が流れた現代、彼女はどこからどう見ても、ただのヒトになっていたのだ。
「二つ、約束の反故について謝罪をしないといけません」
彼女の表情に浮かぶ屈辱感たるや、『ええ、そんなに俺に謝罪するの嫌なの……?』と悲しくなってしまうほどであった。
彼女の中で『俺への謝罪』というのは、見知らぬ輩に『靴を舐めろ』と言われるのとそう変わらないほどの侮蔑的行為なのではないかという可能性さえ見てとれてしまって、ついつい眉が山の稜線のようなかたちになってしまう。
そうして彼女の口から『謝罪』が語られる━━と思ったその時、とつじょとして家の中より、耳をつんざく大音声が響いた。
そう、俺たちは三人の子を持つ親である。
長女は十二歳になり学園へ寮生活に向かったのだが、その下には十歳の弟と二歳の妹がいる。
特にこの二歳の妹の方が難物で、彼女は往年の始祖竜を思わせる美貌と、遠く歳の離れた兄、姉にまったくゆずることのない、これもまた往年の始祖竜を思わせる高貴なる傲慢さを有しているのだった。
そうして彼女が己の願望を叶えられない時に放たれる大泣きたるや、長男を困惑させ、父母のあらゆる話し合いを中断させ、たまに余波で家の物を蹴ったり投げたりと好き放題荒らしまわる強大な力を有している。
最近ではこの天災の相手にもだいぶ慣れた俺たちではあったが、それは泣き声の大きさと被害の規模から彼女の叶えられなかった希望について推察が適う、という程度でしかなかった。
被害そのものの未然の防止については己の無力さを恥じいる他になく、暴君が時の流れとともに分別を持ってくれることを願うばかりであった。
そんなわけで俺たちは一瞬の目くばせのあと立ち上がり、不意に発生した人類既踏にして解決困難なる冒険に挑まざるを得なかった。
俺たちの冒険は、まず責任感が強い長男の『妹を泣かせてしまったのは自分ではないか』という不安のケアを妻に任せ、そうして被害を撒き散らす怪獣の対処に俺があたる、という役割分担が自然と身についていた。
というのも、二歳児の力というのは案外強く、これが投擲という攻撃手段を手にした時、その破壊力は大人さえ昏倒させうるからである。
これを抑え込むのにはどうしたって腕力と痛みへの覚悟が必要になり、一般的に女性より男性の方が肉体の頑強さで優れる種族である俺たちは、いつでも物理的な痛みの伴う事件において俺が前衛を引き受ける習慣があるのだった。
我が家の小さなドラゴンはひとしきり暴れ回り泣きじゃくったあとに眠った。
無限とも思われる被害をもたらす無双の災害であるこの二歳児にも弱点はあって、それは肉体の未熟さに端を発する体力のなさである。
ひとしきり暴れた後疲労に負けて眠りについた二歳児を祭壇に運んだあと、長男に事情聴取をして予後に備える。
破天荒な姉と暴君の妹に挟まれて育った長男は忍耐強く、責任感が強く、理知的で、しかしちょっとばかり押しが弱い。
けれど状況分析能力には目をみはるものがあり、彼の協力によって俺たちは家中の出来事をつぶさに認識できていると述べても過言ではなかった。
我が家の二歳児が怒った理由は、ドラゴンの御多分に洩れず『宝を奪われたから』であった。
というかまあ、本人が宝であるおもちゃをしまい忘れて紛失したのを『とられた』と思い込んだから、が正確なところのようだった。
再発防止のため二歳児自身に片付けを徹底させるという方針を決定する。
それを最後まで聞き終えたあと、長男は理性的にうなずき、眠れる妹のそばに向かった。
彼には妹の監視業務を望んで行っている様子があり、その暴虐無人さの被害にいつも一番に遭う身でありながら、妹をよくかまい、よく遊び、深く愛している様子が行動の端々から見てとれた。
この信頼できる幼い英雄に妹の監視を任せたあと、俺たちは再びテーブルに対面し、話の続きをすることとなった。
「どこまで話したでしょうか……ええと、そう、二つ、謝罪があるのです」
そう述べる彼女の顔からは、先ほどまでのいかにもな『屈辱です』という表情は見られなかった。
そういう遊びをするための体力が、我が家の小さな暴君にまつわる一幕ですっかり失われてしまったのだ。
しかし先ほどのような災害は少なくとも日に二度は起こる。
我々は日々大きくなる暴君の成長を喜びつつも、日に何度も起こる力のすべてを絞りつくさねば解決できない問題について、日々頭を悩ませ、体力の限界を感じていた。
もう若くないのだった。
俺も彼女も、とうに三十歳を超えているのだった。
ぶっちゃけると、俺たちが約束を交わした時から今にいたるまでのあいだに何があろうが、ほとんど他人事みたいな感じでさえあるが……
俺には、話を聞く責務があって、興味もある。
俺たちは今、幸せだ。それは間違いない。
間違いないのだけれど、その幸せにいたるまでになにがあったのか、それを知ることで、今享受している幸福の味わいもまた変わってくるだろう。
俺は続きを促した。
彼女はちょっとだけ演技をする気力を取り戻した。
だから、彼女は始祖竜だったころのように、俺と己とのあいだに隔絶した存在力の差があるみたいな、人類まるごと見下すような顔を作って、語る。
それはもう、とっくに終わった過去の話だ。
俺の幾度もの前世と、彼女がただのヒトになった、その理由の物語。