救いの手は、今
マンガや小説やドラマの中なら、主人公が困難に陥った時には、必ず“救いの手”が差し伸べられる。
助けてくれる人だったり、苦境を突破するきっかけだったり……。
そういうものなのだと、幼い頃は思っていた。
だけど、私が死にたいくらいに辛かったあの時、救いの手なんかどこにも無かった。
誰も助けてくれなかったし、解決の糸口さえ見当たらなかった。
ただ、耐えて、耐えて、耐え続けて……時間が状況を変えてくれるのを待つことしかできなかった。
救いの手なんて結局、物語を上手く転がすための都合の良い道具に過ぎないんだ。実際には存在しないものなんだ――そう、自分に言い聞かせて、これまでにも数えきれないほど呑み込んできた“悲しい現実”を、またひとつ無理矢理、喉の奥に押し込んだ。
時間の流れは、時にじれったく思うほど、じりじりと遅く感じられたけど、それでもちゃんと流れて、ただ耐えるばかりの日々を終わりにしてくれた。
高校は知人のいない遠い場所を選んで、“中学時代の私”を丸ごと抹消するように、髪型や話し方や持ち物を変えた。
一緒に過ごす友達もできて、今のところは何事もなく、上手くやれていると思う。
だけど、友人たちと別れて一人駅のホームに立つと、急にどっと疲れが襲ってくる。
肉体の疲れじゃなくて、精神の疲れだ。
“今までとは違う自分”を演じていることに、後ろめたさがある。
ボロが出ないように常に気を張って、本当はいつもビクビクしている。
だけど、いじめが無い分、中学時代よりはずっとマシだ。
スマホを出す気力も無く、ただぼんやりホームにたたずむ私の目に、今日も彼女の姿が引っかかった。
時々このホームで見かける、知らない学校の制服を着た、知らない女の子。
同い年か、少し年下くらいの彼女の姿が、何故だかひどく気にかかるのは、たぶんあの子が似ているからだ。
黒いゴムで無造作にひとつに束ねた髪。わずかでも目立つのを恐れるように、どこまでも地味に、無難に整えられた身だしなみ。人目に怯えるようにうつむきがちな顔……。
どこか縮こまって見えるその姿は、かつて私が鏡の中に見ていた“私の姿”そのままに見えた。
「助けて」という一言を口にすることさえできないまま、それでも心の奥底で、もがくように“救いの手”を求めていた頃の私。
“救いの手”が、どこかにはあるはずだと、まだ微かな希望に縋っていた頃の私。
今はもう捨て去ったはずの、中学時代の私の姿……。
これは私だけが感じている、一方的で勝手な親近感に過ぎないだろう。
彼女が“かつての私”と同じような目に遭っているかどうかなんて、分からない。
だけど……彼女を見ていると、いつでも胸がピリリと痛む。
まるで“あの頃の私”が私の中に蘇ってきたようで、行き場のない痛みが内側から胸を刺す。
心の傷口を自分で抉るような、自傷行為に近いものだと分かっているのに……それでも、気づけば目が彼女を探している。
彼女は、今日も陰い目をしている。
何をするでもなく、ただホームに立ち尽くし、表情の無い顔で、どことも知れない場所を見ている。
その表情に同期するかのように、かつて私が胸に抱えていたものが蘇ってくる。
それは、哀しみだとか、怒りだとか、痛いだとか辛いだとか、そんな簡単に名を付けられるものじゃない。
むしろ、そんな分かりやすく名の付いた感情はとっくの昔に通り越して、ただ重苦しい疲労感が身体の全部を覆っている――そんな感覚だ。
――もう、疲れた。何もしたくない。何も考えたくない。
誰か助けて欲しい。……誰も助けてくれない。
どうすれば、こんな毎日が終わってくれるんだろう……。
あの頃の心の声をぼんやり反復し続ける私の耳に、電車の到着を知らせるアナウンスが流れ込んで来た。
その時、電車のドアひとつ分隣にいた彼女が、ふらりと足を踏み出した。
黄色い点字ブロックの線を越えて、さらに前へ。
その先には、何も無いのに。
そこから先へ行っても、待ち受けているのは壮絶な痛みの果ての虚無でしかないのに。
まともに思考を巡らせる暇も無かった。
気づけば駆けだしていた。
自分が何をしているのか自覚さえしないまま、気づけば彼女の腕を取り、引き寄せていた。
今まで話したこともない相手だとか、本当に死のうとしていたかどうか分からないだとか、そんなことさえ頭に浮かばなかった。
ただ反射のように唇を開いていた。
「死なないで」
その声は、駅にすべり込んできた電車の警笛に、ほとんどかき消された。
それでも、目の前にいた彼女には、ちゃんと届いたようだった。
彼女が、それまで無表情だった顔に驚きの表情を浮かべて私を見る。
一瞬だけ、胸がひやりとした。
私は、何かおかしなことをしているんじゃないだろうか、と。
驚きに見開かれていた彼女の目が、すぐに泣き笑いのようにくしゃりと歪められる。
自分がしようとしていたことに今さらながら怯えているようなその瞳に、私は自分の行動が正しかったことを悟った。
「……どうして……」
彼女が、か細い声で問う。
人の乗り降りもまばらな電車を一本見送って、ホームにふたりきりで取り残される。
私は何を言いたいのかも分からないまま、急き立てられるように口を開いていた。
「消えてしまわないで欲しいの。ここにいて欲しいの。……あなたは、私に似てるから」
出てきた言葉は自分でも呆れるほど、脈絡も何もない、意味の分からないものだった。
だけど――その言葉に、何故か胸がきゅっと疼いた。
私によく似た彼女を瞳に映しながら、奇妙な感覚に囚われる。
目の前にいるのは赤の他人だと分かっているのに……中学時代の自分が、ここにいるような気がする。
あの頃の自分に、語りかけているように錯覚する。
……だったら、今の言葉は、私があの頃の自分に言ってあげたい言葉だ。
あの頃の私が聞きたかった――だけど結局は、誰からも言ってもらえなかった言葉だ。
あの頃、私は自分が嫌いだった。「こんな自分、いなくなってしまえばいい」と思っていた。
だけど、本当は、嫌いになりたかったわけじゃない。
その外見や人格や持ち物全てを、要らないもののように捨て去りたかったわけじゃない。
皆がばかにするから――ダメなもののように扱ってくるから、嫌いにならなければいけないような気がしていた。
変わらなければダメなんだと思っていた。
だけど、本当は、未熟なところも、上手く生きられないところも全部ひっくるめて、私という存在を認めて欲しかった。
こんな私でも、この世界にいていいんだと、誰かに言って欲しかった。
私の欲しかった“救いの手”は、きっと、そんな簡単で単純で、ささやかなものだった。
あの頃、望んでも手に入らなかった言葉を、自分の口から聞きながら、今さらのように気づく。
――そうか。救いの手は、ちゃんとあったんだ。
もしも、この世界にたったひとつも救いの手が無かったとしても、私が、そのたったひとつを生み出すことはできる。
実際には、こんなちっぽけな手じゃ、誰も救えないかも知れない。
だけど、誰かを救おうとして伸ばした手が、放った言葉が、逆に自分自身を救ってくれる――そんなことが、あるような気がする。
だって、今の私がそうだから。
かつての私によく似た、まだ名前も知らない彼女に、私は改めて手を伸ばす。
あの頃、未来も見えない日々の中で、縋るように求め続けていた“救いの手”。
それが今、やっと、あの日の私に届いた――不思議と、そんな気がした。
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