理系彼女の屁理屈
「風邪とは、簡単に言えば、ウイルスが上気道に感染することによって生じる、呼吸器系の炎症性の疾患のことである」
「ほう」
「状況によって様々ではあるが、主な症状としては発熱、頭痛、喉の痛み、鼻づまり、倦怠感などがあげられる」
「……それで?」
「私は現在、熱は平常まで戻り、頭痛なども治まった。鼻づまりと慢性的な倦怠感は花粉症によるもの。以上の結果からして私は風邪ではな――あうっ」
「いいから大人しく寝てろ」
ベッドから上半身を起こして、だらだらと屁理屈を並べる彼女の額に軽くデコピンをくらわすと、情けない声を出してベッドに身体を沈めた。大して強く弾いてないから痛くはないはずなのに、必要以上に額を抑えて、俺のことを親の敵のごとく睨んでくる。
そもそも、今日は二人で出かける予定だった。しかし彼女は約束の時間になっても来ないし、連絡もつかない。心配になってアパートまで行くと、着膨れした彼女が玄関の前で倒れていた。とりあえずベッドまで運んで話を聞くと、どうも昨日から体調を崩していたらしい。
そして、俺がこうして隣について看病している現在にいたる。
「風邪ひいたなら、そう言えばいいだろ」
「ひいてないし、もう治ったし。だから行こうよっ」
確かに、さっき熱を測ったときは若干高いくらいだったが、それでもまだ顔が少し赤い。膨らませた頬が林檎のようで可愛く見える。
理系の学部に属しているからだろうか、普段は偏屈な部分もあるが、基本的には知的で物静かな彼女。しかしそれ故に、物事が上手くいかないと、子供のような態度をとる。
けれど、彼女の気持ちも分からなくもない。なんせ今日行く予定だった目的地、某ネズミの王国は、彼女がまだ一度も行ったことがないというから決めた場所だったからだ。部屋の中央のテーブルには、講義に使う参考書やレポートと一緒に、ガイドブックも置いてあった。色とりどりの付箋がびっしりと貼られていることが、彼女がどれだけ楽しみにしていたのかを物語っている。因みに、俺も行くのは今回が初めてで、リュックの中のガイドブックがこれと同じような状況になっているのは、ここだけの話。
とは言っても、こればっかりは仕方がない。行きたい気持ちは一緒だけど、だからと言って無理に連れて行って病状が悪化してしまっては、そっちの方が何倍も辛い。憎まれようが恨まれようが、ゆっくりと休んで一日でも早く元気になって欲しい。そう思うのは当然のことだろう。
しかし、そんな俺の心配もどこへやら。彼女は何かと理由をつけては、ベッドから起き上がろうとするし、俺の目を盗んで脱走を試みようともした。それを俺が見つけて咎めるたびに、子供みたいに拗ねてリスのように頬を膨らませる。
「何度言えばわかるんだ。今日は大人しく寝ていろ」
「だからっ、もう治ったって言ってるじゃんっ!」
「いいかげんにしろっ!」
思わず声をあげると、彼女の肩が少し震えた。自分でもしまったと思ったが、時すでに遅し。お互いにそのまま俯いてしまい、気まずい沈黙が辺りを侵食していく。
「……たから」
「なに?」
「君と一緒に行けるの、ずっと楽しみにしてたから」
消え入りそうな声。それでもはっきりと聞こえた。彼女の気持ち。
ふと思い時計を見ると、針は一時を示していた。そろそろ昼飯の時間。らしくもなく大声を出してしまったと思ったら、そういうことか。腹が減ってはなんとやらだ。ちょっと違うけど。
俺は台所を借りて簡単な卵雑炊を作り、彼女のところに持って行った。小さい器に分けて渡すと、何度も吹いて冷ましてから口に運んでいく。俺も自分の分を器によそって昼ごはんにありつく。
六畳間の決して広くはない空間、食器の当たる音がやけに大きく響く。
「たまにはいいだろ。こうして家でゆっくりするのも」
「……うん」
「……風邪が治るまでは、こうしてそばにいるから」
「うん」
「そしたら今度こそ、一緒に行こうな」
「うん。……ありがとう」
憎まれようが恨まれようが、ゆっくりと休んで一日でも早く元気になって欲しい。そう思うのは当然のことだろう。
でも、好きな人には笑っていて欲しい。そう思うのも、恋人としては当然のことだろう。
しかしその一週間後、今度は俺が風邪をひいてしまい、彼女に看病してもらうことになることを、その時は知る由もなかった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。