9.猫嫌いの兄とアルバム
岸田頼朝には兄がいるらしい。
一目見てそうわかった。なぜわかったかと言うと顔がどことなく似ていたからだ。
「げえぇー、猫だ」
しかし、兄の方は猫が嫌いなようだった。
すぐにわかった。
「寄るなよ」
言われなくても誰がお前なんかに寄るか。
同じ顔の系統でも、陰気で几帳面な感じの岸田とは対照的に、兄の方は緩くてだらしない雰囲気だった。
「お前叔父さんに断ったか? 猫なんて勝手に飼って。お前の家じゃないのに」
自分が嫌なだけなくせに他人を出して糾弾してくる。
「こいつは壁で爪もとがないし、むやみに汚したりもしない。とにかく利口な奴なんだ」
その通りだ。高らかに「にゃあ」と鳴いてやる。
「叔父さんにも電話で話したけど、あの人も猫好きだから大丈夫」
岸田兄はわたしを睨みつけてつまらなそうに「けっ」と吐いた。この野郎。さりげなくしっぽで足をぺしんと叩いた。
最初に想像した通り、この家は岸田の家ではないらしい。家は住む人がいないと傷む。事情があって今本人は住めないので身内に貸しているといったところだろうか。
「猫は好かない。高飛車なところが気に食わない。犬みたいに可愛く懐かないし。俺は動物も女も従順な奴が好きだね」
兄の方もなかなかの性格をしている。
これは、女癖悪そう。人間としてもあまり近寄りたくない物件。
岸田がわたしを抱き上げて、鼻面に鼻を寄せる。
「悪いなチキンカツ。兄貴は子供の頃猫にひっかかれて流血してから猫嫌いなんだ」
そんなことだろうとは思ったけど。
「昔は猫好きで、見つけるとやたらめったら不用意に近付こうとするから、野良猫には嫌がられてたんだろうな。あー、こんなに可愛いのに……かわいそうな奴だ」
「うるせえな! あてつけがましく苦情をよこすな!」
兄は勝手知ったる感じにリビングのソファにどかっと座った。手に持っていた大きな紙袋をテーブルにどんと置く。
「で、どれ」
「おう、これだ」
岸田兄が袋から一升瓶を取り出した。ぱっと見日本酒。よく見てもやっぱり日本酒だった。
まじまじと見る。
あ、獺祭だ。しかも、一番高い、ゼロが他よりひとつ多いやつ。さらにもうひとつは……十四代。
岸田も重たいそれを手に取って眺めて兄に聞く。
「これどうしたの」
「沼井さんからのお裾分け」
「こんな値段のものよく人にやるな」
「あの人下戸だから飲まねえし。そもそもあの人からしたら、はした金なんだろ」
誰だかわからないが、沼井さんが割と金持ちということだけはわかった。
「彼女と飲めばよかったのに」
「アレはワインとカクテルしか飲まない」
「へぇ」
兄の彼女、すかしてんな。
いくらねだっても、さすがに酒はくれないだろう。今だけ人間に戻って御相伴に預かりたい。わたしは、猫になってから初めて悔しい思いをした。
部屋の隅で不貞腐れて丸くなる。
兄弟の話し声をバックにウトウトと眠くなってきた。
どれくらい寝ていたのだろうか、大した時間ではないかもしれない。酒盛りは続いていた。
テーブルにはお菓子の殻。開けられた新品のライブDVDの殻。殻殻殻。
ふたりはテーブル中央に開けられた高校の卒業アルバムを肴に話していた。あのアルバムはうちにもある。
「この先生エロくね?」などと、勝手な感想を兄がこぼしている。わたしはその先生とは、森久保先生のことじゃないだろうか、などと想像した。
「これは、熊谷」
唐突に岸田によるクラスメイトの紹介が始まった。
「……真面目な優しい奴だった」
「そういう顔でもねえな。こいつ趣味で牛とか締めてそうじゃねえかよ」
兄がそれにどうでもいい茶々を入れてる。
会話にやる気がないし、お互い楽しませようとかの気を使った感じがまるでないところが兄弟らしい。岸田も流してそのまま続けている。
「これは、鈴木。細かいところに気のつく奴」
「確かにこの眼鏡は几帳面じゃなきゃ嘘だな」
ざっくりなのでよく見てるとも言い難いが、大まかには、確かにそんな印象の奴らだった。
岸田はひとりひとり、指差して短い解説を入れている。
「これは、塩沢。……人柄はよく覚えてないけど字が上手かった」
「そんなむさい男はいいから可愛い女の子の解説しろよ。この子は? 安田梨美ちゃん」
ナッシーか。兄、わかりやすく派手な女が好きな模様。
「……よく覚えてない」
「じゃあしょうがねえな、次、次」
「これは板野。男だ」
「見りゃわかるよ」
「そうだな。女には見えない」
ふたりとも酔っ払いなので会話が実に適当だ。
岸田がやや苦い表情でこぼす。
「まぁ、大抵の奴は俺のことは嫌いだったろうけどな」
あ、そこはわかってたんだ。まぁ、わたしもそこまで詳しいわけじゃないけど。なんとなく、そう思ってたよ。ていうか、むしろ岸田の方が嫌ってるんだと思っていた。
「お前高校時代、そんな嫌われてたのか」
「思ってることをそのまま言うと、嫌われる。俺は意見を言ってるだけなんだけどな。自分と反対意見を敵意と見做す奴が多かった」
「その意見の言い方だろ。お前余計なもんつけ過ぎだし、もっとくるめ。なんか適当なもんでくるむくるむくるむ。最低五回くらいくるめ」
兄が割とまともなことを言った。
「そうかもな……。今は覚えた」
「お前若い頃愛想よくすることを格好悪いと思ってたろ」
「極端に潔癖だったんだろうな……。嘘やおべっかで自分を曲げたくなかった」
なんて生きにくい難儀な奴だ。ただ、聞いていると、彼は物言いはきつくても、どの人間に対しても、わたしがその頃思っていたように敵意を持ったりはしていないようだった。そこの点は誤解していた。
特にほとんどの女子は物言いがきつい男子なんて好まないし、悪口の対象になるので過剰に極悪にデフォルメされやすい傾向にある。
実際の彼はわたしと同じように、人に嫌うような関心はなく、そのほとんどは自分に向いていたのかもしれない。
岸田に近寄ってアルバムを眺める。自分の写真を見つけて思わず肉球をぺしと押し当てた。
「ん?」
岸田がわたしの写真を確認したのを見てから「にゃあ」と鳴く。
「これは、舞原留里」
岸田がそう言ったので、顔を見る。遠くを見るような目だった。
「……猫みたいなやつだった」
「なんだそれ」
わたしの思ったのと同じツッコミを兄が入れた。そして写真を覗き込み「うーん、素材は悪くないけど、いまいちイモじゃねえ?」と言って笑う。このゴミ男。
近寄って鼻面にしっぽをぺしと当てて、うさをはらした。兄は「うゎばみゅッ!」と呻いて「こ、この馬鹿猫! つまみは猫鍋にすんぞ!」などと罵ってくる。
岸田はわたしを掴もうとした兄の手から一瞬早くわたしをふんだくり、腕の中に抱え込む。そしてたんたんと続ける。
「舞原は、普段は女子の集団にいるし、そこそこ仲良くやってるんだけど、ぱっと見るとひとりで中庭に座っていたりする……妙な気ままさがあった」
「……はぁ」
「こいつは、下手すりゃ俺より自分勝手だったし、とんでもなく畜生で失礼なことを連発してるのに、本気で悪気がないのがわかるからズルいんだよ……俺みたいに何やっても嫌われる奴もいるのに……こいつはなんか許されてて……妬ましかった」
「ムカつく」そう言われたことはあった。
これも「嫌い」だったわけではなくて妬ましくて「ムカついた」だけらしい。長年の思い込みがなくなった。
「女子の中では詳しいな。仲良かったのか?」
その質問には岸田はすぐに「そうでもない」と答えた。うん。そうでもないよね。
「一度、舞原とふたりで文化祭の買い出しに行ったことがあるんだけど、買い逃しがあって、でも、こいつのおかげで怒られなくてすんだ」
「へぇ」
「なんかへらへらしてるから、教師もしょうがねえなってなるんだよ。俺ひとりだったら、たぶん普通にボロカス言われてた」
「お前、ほんと敵作りやすかったんだな」
兄が全くの他人事のようにゲタゲタ笑う。
こういう、無神経で性根が腐った奴に限って、外面はよくて友達が多かったりするんだよな。などと腹立たしい。
しかし、もらい物のちょっといいお酒を結局弟とふたりで飲んでるあたり、気楽な関係の相手はいなそう。外には異常に気を使っているタイプかもしれない。
「で、お前はこの中でどれがタイプだったの?」
「高校の頃は女子はみんな苦手だった」
「うわー……俺はその頃彼女三人はいたよ? 馬鹿だなぁーお前、女なんて、うんうんそうだね可愛いねって言っときゃ、やらせてくれんのに。つっまんねえ青春おくってんな」
弟の分の青春は兄が稼いでいたようだ。それもそれでどうかと思う青春だが。
「当時はどう話していいかわからなかったんだよ。そもそも女と話すこと自体が恥ずかしかった」
「お前……その頃俺のことどう思ってた?」
「果てしなく恥ずかしい兄貴」
「硬派と童貞拗らせすぎだろ……」
「だから俺に話しかけてきた奴はだいたい二度と話しかけなかった」
「なんかお前、不吉な伝説みたいだな……。じゃあ普通に会話したことある奴いねえの?」
「ほとんど……いや……」
そこで岸田が動きを止めた。
そうして、なんとなくアルバムに視線を戻した。
舞原留里のところをぼんやり見ているようにみえたけれど、実際はわからない。