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7.猫のいる生活


 猫のまま土日があけて、月曜日。


 岸田は朝が弱いらしく、スマホの時間を薄目で確認してまた目を閉じて、五分後にまたちらりと時計を見る、ということを何度か繰り返していたが、何度目かのそれでバッと目を見開いて焦った様子でスーツを着込み、朝ごはんも食べずに出かけていった。


 八時五十分。

 岸田の会社がどこにあるのかは知らないが、吉祥寺で新年会らしきものをやってるくらいだからかなり近いのだろう。始業時間は知らないので間に合うのかはわからない。


 わたしの分の朝ごはんは部屋の隅にキャットフードとお水が置いてある。不本意ではあるけれど、岸田はあれから猫に良いもの悪いものを少しずつ調べていて、基本的にはキャットフードを与えるつもりらしく、生きたネズミにくらべたらだいぶマシなのであれを食べるよりない。

 メンチカツも、せっかく並んだのに、直前に調べた岸田が玉ねぎが入ってるから猫には駄目だと言って、結局ひと口も、もらえなかった。

 それでも腹は減るので猫用の飯を食うよりなかった。

 大丈夫。意外と美味しいかもしれない。ドライフードはお菓子に、猫缶はシーチキンに似てる。ハリネズミにされてたら生きたコオロギを食べることになったかもしれないので、猫でよかった。


 岸田がいないので、テーブルの上に開きっぱなしのノートパソコンを起動させて、押しにくい手でキーボードを慎重に押して吉祥寺の猫神様について調べてみた。


 井の頭恩賜公園の井の頭池には白蛇の伝説があるらしい。

 それは白蛇が人間の娘に化けて、ある夫婦のもとに来て、やがて蛇に戻るというものだったが、特に猫は出てこなかった。しばらく色々見てみたが、それっぽいものはないので諦めた。


 ただ、猫神様で調べたら、東北の方で蚕を護る神様としてまつられているのがあった。猫は蚕を荒らすネズミを退治する神様として一部でまつられていた。この辺りでも昔、養蚕は行われていたので、そんな神様はもしかしたらいたかもしれない。その頃の神様が仕事がなくなってうろついているのかもしれない。そんな想像もしてみた。


 わたしは他の履歴をなるべく見ないようにしながら自分が見た履歴を消し、パソコンをオフにしてベッドに戻った。


 胸にずっと引っかかっていて、気がかりだったのはやっぱり会社のことだった。

 本当に行かなくていいのか、この期に及んで考えていた。このままだと当然辞めることになる。


 もっとも、こんな状況にならなければ、わたしは辞めるなんて発想すらなかった。

 染み付いた社畜根性。どんなに嫌でも、這ってでも行くべきところ。それが当たり前、ずっとそう思っていた。


 いや、実際のところ辞めるのすら面倒に感じていただけかもしれない。辞めますと言って、引き継ぎをしてなおかつ新しい仕事を探す。そういった新しいアクションを起こせないほどにわたしの気力は擦り減っていたし、思考は麻痺していた。


 多少仲良かった人間はもうみんな辞めた。あのギスギスした会社に、わたしを気にかける人間がいるのかどうかは疑問だが、それでも連絡が取れない日が続けば失踪届なども出されるかもしれない。

 いや、実際に急に来なくなる人はこれまでも何人かいた。それでもみんな疲れた顔で仕事を分担して、その人のことなんて心配してられなかった。またひとり、と思うだけで誰も詮索なんてしないだろう。


 それにしても入社当時と比べても仕事の疲れが多く、社内の雰囲気もギスギスしていた。

 いつから、なんでこうなったんだろう。


 少し前経費削減で何人か解雇されたり、長く勤めていた人が退職したりした。そしてその分の穴埋めが行われることもなく、ひとり頭の仕事量が増えていた。妙に面倒くさい取引先も増えた。そのくせボーナスカット。


 ギスギスしてるのはもしかしたら毎年あった社員旅行、暑気払い、新年会がそれぞれなくなっていったからか。置き菓子があったのが、いつの間にかなくなっていたとか、トイレットペーパーがダブルからシングルに変わったとか、そういうごく小さいことも関係しているかもしれない。


 誰もいないのをいいことに、ベッドに仰向けで腹丸出しのあまり猫らしくない姿勢でぼんやりしていたら、なんとなく視界の端にあったけれど疲れて見飛ばしていたことが次々認識されて、ひとつの推論に至る。


 あの会社は、倒産寸前かもしれない。


 最近税理士の出入りが妙に多かった。長くいた経理のひとりが急に辞めた。

 芋づる式に他にもどんどんそれっぽいことを思い出した。疲れていて気がつかなかったけれど、これは割と確定だ。


 会社は倒産したからといって、社員をどうにかしてくれるわけではない。なくなったら解散。それで終わりだ。そう思ったら、こちらだけ会社のことを気にしているのが馬鹿馬鹿しくなった。どうでもいい。


 寝返りをうって、布団の岸田の匂いを胸いっぱいに吸い込む。


 カーテンから木漏れ日が射し込む。外からは井の頭公園の野鳥の声が聞こえてくる。居心地の良い家だ。


 ここにこうして岸田を待っていると、とげとげだった心が優しい風に撫でられてるみたいに気持ちが休まる。


 もうしばらく、ここにいて現世のことは忘れていよう。


 わたしはそんな想いで目を閉じて、そのまま岸田との日々をもう少しだけ延長することにした。





 人間社会に疲れ果てていたわたしにとって、岸田との生活はどこか癒されるものがあった。そのせいか、油断するとどんどん日が経っていく。


 午後七時を過ぎた頃、岸田が帰宅した。岸田は猫の世話に夢中だ。遅くなる日もたまにあったけれど、時々走って帰ってきて姿を捜したりするのでかなりの重傷だ。


 岸田は猫に好かれる割に、なぜか猫を飼ったことはなかったようだけれど、すっかり新米猫飼いのようになった。猫用のブラシ、爪研ぎ、さまざまなものが毎日部屋に少しずつ増えていく。


 夕食後、岸田がキャリーケースを開けて散歩に行くと言うので賢い猫のわたしは中に入った。


 岸田は迷いのない足取りで、歩き出す。

 揺られながらちらちら見える看板などの位置からなんとなくの場所はわかっていた。岸田は東急百貨店のエレベーターに乗り込んで最上階のボタンを押した。最上階には小さなペットショップがあって、扉の外は屋上となっていたはずだ。


 ペットショップ。ここは来たことがある。人間の姿で猫とか、うさぎとか、犬を見たりしたことがある。

 岸田はそこで首輪を買うつもりだったらしい。お店の人に相談して、何本かをわたしの顔に当てて吟味までして首輪を選び、猫用のおやつを買って、屋上に出た。


 屋上でキャリーケースから出してもらえた。

 ぶるぶると首を振って見上げると冬の澄んだ空気が上空にまで開けていた。

 端にテーブルベンチが並んでいた。手ぶらで来てバーベキューができるみたいだ。肉や野菜を焼いている人たちがいて、いい匂いがした。人間ならウインナーでも焼いて、ビールを一杯やりたいところだ。


 あいにく猫なのでその辺の人間の楽しみは味わえない。


 でも、猫には猫の楽しみがある。

 人によってそれぞれ違った楽しみがあるように。


 岸田が買ったばかりのシンプルな赤い首輪をわたしの首に着けてきた。なかなか可愛いデザインで、わたしも気に入った。


「すげー似合う」


 試着室から出てきた人間の彼女に言ってあげたら喜びそうな顔と声音で言って頭を撫でた。


 しばらくそこで、ひとりと一匹でぼんやりした。


 人間同士ならあるかもしれない、会話を探す気まずい沈黙、そんなものはここにはない。


 孤独感なしに、のどかな夜と近くで焼けるウインナーの匂いを楽しんでいられる。


 岸田はずっと難しい顔で考え込んでいたけれど、足元のわたしを見て、おもむろに口を開く。


「さっきの猫も可愛かったけど……やっぱりお前が一番可愛いな」


 あまり難しいことは考えていなかったようだ。それにしてもちょっと油断すると別の猫なんてじろじろ見て、この野郎と思う。


「なんでこんなに可愛いんだろう……。俺の猫は」


 ちらりと顔を見る。高校時代は見たことのなかったようなあどけない柔らかな笑みだった。


「……どうしてもっと早く出会えなかったんだろう……お前に会う前の人生の俺がかわいそうだ……」


 戯曲の中の恋する青年みたいな大袈裟さで言う岸田の顔は本気を感じさせた。少し呆れる。


「好きだよ。すげー好き」


 わたしのおでこに自分のおでこを合わせて、恥ずかしげもなく、人間に言うみたいに猫に愛の告白をこぼす岸田はやっぱり、高校時代のそれと、一致しなかった。


 抱き上げられて心地よさに身を擦り付けて、ふと思う。


 わたしは、いつまでこうしているつもりだろう。


 いくら居心地がよくても、心のどこかでは、一時的なものと思っていた。戻れないなんてことはない。いつかは、人に戻って、生活をする自分に戻るはずだ。


 夢は、本気で起きようと思えば、目覚めることはできるはずだ。


 それができないのは、まだこの腕の中でまどろんでいたいからだ。




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